■ ほころぶ口元を隠しきれない

 久しぶりに顔を合わせるクラスメイトとの時間を、楽しみにしていただけなのに。

 高校時代の同級生が飲食店を開いたとかで急遽決まった同窓会に参加の返事をした時は確かに浮かれていた。が、いざその夜になってしまえば何のことはない。張り付きっぱなしのつくり笑いがもうずっと胸をちくりちくりと苛んでいる。会が進むにつれ場に馴染むどころか疲れる一方の自身になど、気づきたくはなかった。隣で笑う"大親友"に頷きを返しながら、次はもう無いなとぼんやり考える。いつのまにか"あの頃"は随分と遠くなってしまった。
 前回集まった時はまだ、結婚が決まった子を祝ったり数少ない既婚者をひやかしたりしていたのだけれど……さすがに三十路を過ぎるとそういう雰囲気もなくなってくる。幼稚園だの2人目だのという話題に混じれる気がしないままそれとなく周囲を窺えば、同じようにグラス片手に苦笑いを浮かべている横顔が目に入った。
 その、ろくに話したこともなかった元クラスメイトの彼女とは、かつての"大親友"たちよりもずっと滑らかに会話できた。年金や保険に健康の話、そろそろ気になるマンション事情、当たり障りのない仕事の話、そしてほんの少し過去を懐かしむこと……天気の話と同じくらいに意味がないと多分ふたりとも分かっているけれど、少なくとも今この場では鉄板の話題が通じるだけましなのだ。

「あ、こっちにも生ひとつ!」
「じゃあオレはこの日本酒もらおうかな」

 化粧室に向かいながらちらりと除けば、男性陣も似たようなものらしかった。既婚者と未婚者、あるいは仕事での役職……昔とは違う基準で区別し合うわたしたちのなんて虚しいものだろう。
 そろそろお見合いってのもいいかなぁって、と聞こえてきた声についつい苦笑が浮かんでしまう。数年前はもっと軽い調子で合コンだの街コンだのと騒いでいたのに、いつのまにかそういう場もしんどい年齢になってしまったか。


 冷たい水で頬を冷やして戻れば、彼女はもう別の誰かと笑っていた。まあ、予想通りである。
 気を取り直し、通りすがりの店員さんに声を掛ける。それこっちで渡しますね。右手にビールジョッキ、左手に自分のグラスという装備で向かったのは先ほど耳に入ってきたあのテーブルだ。めまぐるしく変わる話題の中心人物を、真っ赤な顔でにこにこ追う人がいた。彼の名は確か、吉田くんだったかな。昔の姿は思い出せないけれど、少なくとも挨拶の時とはまるで違うことだけはわかる。へえ、こんなふうに笑う人だったんだ。

「はーい、ビールおまたせ……ってなにその顔。飲みすぎじゃない?」

 よく冷えたビールを差し出しながら隣に滑り込めば、緩慢な動きで詰めてくれる。赤く緩んだ目が見ているのはわたしではなく手の先だけだ。だから、ごくりごくりと喉を鳴らしてあっという間にジョッキを空にしてしまった吉田くんが、元気良く叫ぶ内容など決まっていた。

「生ひとつ!」
「……いや、まあいいけどさぁ。っていうか先生でもお見合いに興味あるんだ?」

 先生同士でくっつくってよく聞くけど、と続ければ吉田くんはふへっと口元を歪めた。

「それくらひ、出会いがなひってことだから」
「ちょっと。呂律あやしいんだけど」
「ふへぇ? 何が?」
「……いいや。えーと、まあわからんでもないかなーって思ってね。実はわたしもお見合いパーティーとか行ってたクチだし」

 ぼんやりとしていた瞳が、言葉を理解した途端にきらりと輝いた。

「中津さんもお見合ひ、やったの」
「中津じゃなくて苗字だから。最近はご無沙汰だけど、実はちょっと前まで頑張ってたり」

 自分で言っておいて何だが、ちょっと前というのが表現として正しいのかは分からない。一時はあれほど感じていた焦りも、いざ区切りを迎えた途端になんだか諦めのようなものに変わってしまったから。というわけで、以降は婚活と呼べるような活動もめっきりしていなかった。
 ついでに言えば三十路手前の女と三十路過ぎの男では需要も価値も意味合いすらもまるで異なるのだけれど、それでも自分に分かる話というのは面白いものだ。飲めや話せやで手も口も忙しく、先輩ぶってアドバイスめいたことを言ってみたり、真面目な顔で馬鹿なことを言って頷き合ってみたり。
 真剣な酔っ払いを相手に真剣に酔っ払いながらする会話は妙に充実していて、いつしかわたしは本心から笑っていた。

 ああ、こんなふうに後先を考えない馬鹿話をするのは久しぶりだ。
 その場の流れで好き勝手に話して、仲良くなれた気がしたりして、絆とか深めちゃった気になったりして。思い返せば高校は友達との他愛ない毎日に全力で元からそんな感じだったのが、大学でお酒を覚えて勢いが増したんだった。たまに恋になったこともあったけれど、ならくても充分楽しかったし、むしろならない方が気楽だった。まさに無礼講だった新卒同期会が急速に矯正されて以降はすっかりご無沙汰となってた光景に、予想に反して今日一番の若返り効果を感じてしまう。

「あーあ、なんていうか昔に帰りたいなっていうか、若さ溢れる気楽な付き合いがしたーい!」

 浮かんだ氷をカランと転がして冗談めかして吐露してみれば、なみなみの泡が浮かぶジョッキに手を伸ばしていた吉田くんがこてんと小首を傾げた。

「吉田しゃんは若いよ?」
「吉田さんは自分でしょうが。わたしは苗字だって何回言えば……」
「……じぶん……よひだ?」

 再度のんびりと首を傾げる吉田くんの目も口元もすっかりとろとろである。それでもまだ飲もうとするのだから呆れてしまう。近くにいた店員さんにお水を頼みながら、この図体だけ大きくなった32歳児にいい加減名前を教え込むべく己を指差した。

「わたしが、苗字さん」
「苗字しゃん?」
「そう。苗字さん」
「苗字しゃん!」
「よし」
「苗字ちゃん!」

 ぱあっと顔を輝かせた吉田くんに、まともな思考力が残っていないことは明らかだ。とろんとした眼差しに乗せてふにゃふにゃと笑う吉田くんは、なんというかネコのような子供のような。これでは本当にただの32歳児じゃないか。
 しかも浮かれ調子で苗字ちゃん苗字ちゃんと繰り返しながらも、やってきた店員さんにはしっかり「生!」と叫ぶのだから、わたしはもうどんな顔をしていいかわからない。
 周りを見渡したところで、今更押し付けてしまえるような人もいないのだからお手上げだ。まあ、無理もない。こんなに飲ませてしまったのは、間違いなくわたしなのだから……って、なんで30過ぎにもなって同い年の男を相手にこんな責任を感じないといけないのか。
 仕方がないまま水を無理やり握らせて、さあ飲め早く飲めまずはこれを飲めとせっつくことにする。なま生なま生と繰り返す酔っ払いに対して、これは透明で味の薄いだけのビールだからと訳の分からない丸め込みで立ち向かおうとするわたしも相当酔っ払っているに違いない。
 馬鹿で阿呆で、高校生というのはさすがに言い過ぎだけど……なんだかまるで大学時代に戻ったようじゃないか。


  ***


 そろそろ二次会に移ろうかという段になっても、相変わらず吉田くんはふにゃふにゃだった。せっかく水を用意しても、ちょっと目を離した隙にすぐビールを頼んでしまうのだから始末に負えない。せめて誰か止めてくれればいいのに、気持ち良く飲んでいる彼らは総じて面倒ごとには見ないふりをするから困ってしまう。
 おかげで今では、とろんと眠たげな目をして苗字ちゃん、お見合い、苗字ちゃん、まりも、お見合い……ただただうわ言を垂れ流すだけの機械状態である。当然ながら、こんなひどい酔っ払いを二次会に連れて行けるわけがない。

「ああもう仕方ないなぁ。どうせ近くを通るから放り込んどくわ」

 心底面倒くさそうに言って、半分以上寝ているような吉田くんをタクシーに押し込む。よっ姉御!だとか、いつの間にそんな仲良くなったんだよとか、ここぞとばかりにネタ満載に囃す彼らだって実のところはわたしの行動に何の含みも期待していないだろう。こんなへべれけが相手では、間違いもロマンスも生まれようがない。それでも、後で何かしら言われるかもしれないけれど……まあ、それはそれである。関係無い場所での陰口など存在しないものも同然だ。

 そして実際に、その後のわたしは彼らに告げた通りの振る舞いをしなかったのだから。
 というわけでタクシーが止まったのはもちろん吉田くんの家などではないのです。
 
「ありがとう、ここで大丈夫です」

 降り立ったのは勝手知ったる近所の公園。怪しい人影や面倒そうな集団がいないことを確認して、脱力した吉田くんの耳元に近づく。かなり酒臭い。
 おーい起きて。ちょっと歩こうね。あ、無理そうだね了解じゃあちょっと待ってて。
 目を開けることすらやっとな吉田くんには公園の柵にもたれてもらうことにして、すぐ前にあるコンビニで手早く水とお茶を買う。
 幸い狭い公園には他に人影はないしベンチは使い放題だけれど、ここは慎ましくしよう。歩いたことで少しましになったもののまだまだ寝ぼけている吉田くんを宥めながら座らせて、隣に腰掛ける。

「ねえねえ吉田くん、ちょっとだけお水飲もっか」
「んー……苗字ちゃん……?」

 もごもごと口元は動くが覚醒には程遠い。どうしたものかねぇと呟きながらも、気長に付き合おうと既に決めていた。

「そうだよ、苗字なまえちゃんですよー、はいお水だよー」
「……なまえちゃん…みず……んっ」

 ペットボトルを口元まで持っていってやると、素直に掴んでこくこくと飲み始める。飲みきれなかった分が唇の端を濡らして顎を伝っていたりもするのだが、そこはあまり見ては失礼だろう。いや、正直なところ、同い年の男がだらしなくこぼしている姿などそう見たくはないものだ。などということを思って目を逸らせてみたところで、いざ半分ほどに減ったボトルを握り「飲んだぁ!」と笑顔を向けられると妙に可愛く見えてしまうのだから困ってしまう。

「はい良くできました。じゃあもうちょっと夜風に当たって酔いを醒まそうね」
「なまえちゃん……も?」
「うんうん。わたしも」

 酒気のせいで本来の吉田くんがわからない。乾杯前は十把一絡げでくたびれたおっさんに見えていたはずなのに、こんなふうに真っ赤な頬でくしゃりと笑う吉田くんはなんだかとても幼く見える。なまえちゃんだってさ。自分で誘導しておいて何だが、学生気分というか……くすぐったい。

「わりと最初っから思ってたんだけどさ、吉田くんて面白い酔っ払い方をするね」
「……へ? ぼく、へん?」
「"変"じゃなくて"面白い"ね。何ていうか、賑やかな感じが大好きって感じで、見てるこっちまで楽しくなっちゃうような飲み方。これ、褒めてるから」

 それなりに気心の知れた職場での集まりでもここまで羽目を外す人間はそういないし、友達相手でもこの年になれば前後不覚になるまで飲みはしない。新入社員だって数回も潰れればそつのない飲み方を覚えてしまう中で、数年ぶりに会うただの元クラスメイトを相手にこんなふうに酔える吉田くんはなかなか衝撃的だった。

「いやぁうん、スレてないっていうかさ。何だろ。先生って浮世離れするものなのかな?」

 こてんと首を傾げられて、ああ浮世離れって言葉は失礼だったなと慌てる。気まずくなるのを恐れて「ごめんね」と一言、誤魔化すように手渡したボトルを大きな手で受けた吉田くんは、相変わらず真っ赤な顔でふにゃふにゃ笑っている。

「ふへへっなまえちゃんも、楽ひかった?」
「そうだね。多分、今日一番の収穫」
「大収穫祭! まりも!」
「うーん。吉田くんはさ、お見合い相手とは飲まない方がいいかなー」

 少なくとも婚約の話までいってからにしなね。まりもズの話を始めた吉田くんの耳には届かないと知りつつも、言わずにはいられなかった。


  ***


 さてと。さすがにいつまでも夜風に当たっているのも厳しい。そもそも夜風以前に、ここ最近ぐっと夜更かしが堪えるようになってきた身である。
 くぅくぅと落ち着いたリズムで寝息をたてている吉田くんを覗き込めば、顔色もすっかり戻っていた。これならもう大丈夫だろう。

「吉田くん、吉田くん……そろそろ起きよ?」

 そっと揺らして目覚めを誘えば、むぅぅと呻いて眉間にシワが寄る。その様子があまりに無防備でこっそりと苦笑してしまう。さてさて、このひとは今夜をどこまで覚えているのだろう。

「おはよう」
「……あれ…えーっと……苗字さん?」

 パチパチと閉じたり開いたりを繰り返す目に、ゆっくりと理性の灯がともっていく。
 途端に身を引いてきょろきょろと周囲を見回す吉田くんはもう、さっきまでとは違っている。いや、きっと、わたしが知らないだけでこれがいつもの吉田くんなのだろうけど。

「ええっと、同窓会で──あの、え? あれ、俺なんで? ああもう、なんか分かんないけど迷惑かけてごめん!」

 次々浮かぶハテナマークを無理やり押し込み、勢い良く頭を下げた吉田くんにわたしの方がびっくりしてしまう。大丈夫どころではない。この調子ではもう、"僕"やなまえちゃんと言ってふにゃふにゃ笑っていたことも丸ごと消えてしまっているに違いない。
 仕方がないなぁ。そっちがその気なら、わたしも無かったことにしてあげる。

「こちらこそ、送ってくれてありがと。お陰様ですっきり酔いも醒めたや」

 空のペットボトルを片手に微笑んで、有無を言わせないまま状況のすり込みにかかる。そのまま、相変わらず「え?」を連発する吉田くんの方は見ない振りでタクシーアプリを立ち上げた。ふたつみっつと操作すればあっという間に配車完了だ。

「これでよしっと。来るまでもうちょっと待ってね」
「あ、ありがとう……でも、苗字さんは?」
「わたしはすぐそこだから」

 言ったでしょう「送ってくれてありがと」って。
 公園のすぐ後ろに立つマンションを指差せば、吉田くんも「ああそうだっけ」と記憶を探る。

「じゃあ安心だな。いやぁ、結局寝てしまったようで面目ない。どうか俺に構わず苗字さんはもう家に……」

 そばに付いてくれてありがとうと言いながら更に謝罪を重ねた吉田くんは、続いてこれ以上遅くならないうちに帰るようにとしきりに促し始めた。
 やっぱり根が真面目というか、スレてないっていうか。残念なのは、昔の吉田くんについての記憶が殆どないわたしには、この言動がもともとの性格故なのか教師という職業故なのかの判別がつかないってことだ。

「それではお言葉に甘えまして、先に帰らせて貰おうかな」
「ああそれがいい。遅くまで悪かったな、おやすみ」

 口角をくっと上げて片手を軽く振った立ち姿には、どこまでも気遣いしか感じられない。
 どこへも発展しそうにないこの距離感が心地良い。けれど同時に、なんだか少しだけ腹が立ってきた。あれだけ32歳児のお守りをさせておいて、さっさといい大人に戻ってしまう吉田くんは狡い。あんな姿を見せたことも知らないまま、それどころかあんな顔を持っていることすら自覚しないまま、わたしのことまでも本当に"無かったこと"にしてしまうなんて寂しいじゃないか。あんなに楽しかったのに。久しぶりに愉快だったのに。
 あれっきり可愛げの欠片もみせない吉田くんが癪で……少しだけ、意地悪を残すことに決めた。

「お見合い上手くいったらいいね。あの相談所なら特典効くから、もし入るならわたしの紹介ってことでよろしく」

 さてさて。仕掛けた棘は吉田くんの記憶を引っ掛けられるだろうか。全ては無理だったとしても、それなりに格好悪いところをみせたという事実くらいは思い出したらいいのに。



 おやすみと歩き始めたわたしはもう振り返らなかった。
 それでもやがて、はるか後方で響いた声に口元を緩ませることになるのだけれど──そこから先は、またの機会に。



(2017.01.02)(タイトル:as far as I know)(甘やかすとどこまでも甘えてくる酔っ払い先生)
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