■ 3

「おいおい、随分と情けない顔をしてどうしたんだい?」

 血の海の真ん中で、ボロボロになって転がる醜い肉塊。そんな絶体絶命の瞬間にふわりと現れた彼は、全くもって場にそぐわない口調でそう言った。

 地上十数センチのところからは、彼がどんな顔をしているのかさっぱり見えない……と思いかけて、どのみち仮面なのだからわからないじゃないかと自嘲する。
 霞む視界の向こうでは、私をこんな満身創痍にまで追い詰めた機械時掛けの化け物と稀代の超人が向かい合っているようだった。けれど、ああこれで大丈夫だと安心する代わりに、死にかけの脳みそに浮かんだのは「フェムト、危ないよ……」なんていうHLで知らぬ者は居ないという超危険人物である堕落王にかけるにはあまりにも無意味な一言だったから……やはり私は相当に混乱していたらしい。


  ***


 類稀なる再生力は、その能力単体では一つの勝利ももたらしてはくれない。
 反撃を恐れずに攻撃を加え続けることか、ひたすら受け身に徹して相手がバテるまで耐えることが出来てこそ、私の力は武器になる。だからつまり、今回は相手が悪かったのだ。

 その日、硬くて丈夫な外装と巧みに組み上げられた接合部とどれだけ待っても燃料切れを起こしてくれない燃費の良さを兼ね備えた機械を前に、私はわかりやすく消耗していた。
 千切れた腕が治りきる前に、脇腹を抉られる。気管の穴が塞がる前に、折れた骨が肺を潰す。兎にも角にも力任せで、ひたすらに乱暴。計算も効率も私の悲鳴もまるっと無視し、対象物を破壊するためだけに動く力は純粋な分余計に予測困難な暴力として私に降り注いだ。……私の刃は、一向に奴の身体に刺さらないってのに。
 かくして。何度も何度も何度も何度もしつこく再生を繰り返し続けた身体が、最早、"生きている"というギリギリの立ち位置を守ることで精一杯という限界まで追い詰められていたその瞬間。手足をもがれた穴だらけでどろどろのぐちゃぐちゃになった人体が、とっくの昔に唯の鉄屑になってしまった通信機の横で、新たな残骸になろうかというその瞬間。見えない目に思い浮かべたのが誰の姿だったのか、呼吸の出来ない喉を震わせて呟こうとしたのが誰の名前だったのか、それすら自覚出来ないうちに。
 ──突如現れた白いコートの現実は、華麗な身のこなしで妄想を追い越していった。


  ***


 清潔なシーツの上でただ転がっていたところ、ガチャリとドアノブが音を立てた。
 ああまた見回りだろうか。相変わらず身動き一つ出来ない首を向けることも諦めて、瞑った目の下でそっと息を吐く。

「やあエルネスタ、気分はどうかね」

 けれども聞こえた声が抑揚のない使用人の声ではなく、聞きなれた堕落王のものだったから……唯一動く瞳で精一杯の感謝を伝えるため、重たい瞼をこじ開ける。
「まったく、予想はついていたがそれ以上に事態は馬鹿馬鹿しいものだと言ってもいいだろう。君の身体はつくづく変な風に仕上がっているなぁ。知らんだろう、血を止めてやって穴を塞いでやった途端、治癒の術を拒絶し始めたんだぞ。しかもなんだって? 力も足りてないってのに、食事まで受け付けないだと? おいおいどんな無理ゲーだ。生きたいのか死にたいのかどっちかにしろ面倒臭い」
 近付く足音と声が幻聴でない証拠に、さらりと髪を揺らしたフェムトの顔が視界を遮る。
「おい……見えているかい? さて、正直なところ僕としては君をどうするか悩んでいるんだよ。このままここに置いていたところで、どうせ食べられないのだろう。だったら必然的に、君が食欲を感じる環境に引き渡さなくてはいけないわけだが……なあエルネスタ、君の生への執着がライブラの連中によって保たれているという事実が、どうにも僕は面白くないらしい。あんな鉄屑にくれてやるのはもっての外だが、連中に任すのも気乗りしないとなったら──エルネスタ、僕が何を思っているかわかるかい?」

 私の超常的な治癒力を支えている食欲が、この状況にあって本領を発揮しようとすればどんな条件を必要とするのか。そんなこと、堕落王フェムトはとうに知っているのだ。
 誰かと居ること、独りでないこと……他者の存在を感じて初めて湧く食欲ってのはつまり、生きていたいという思いが誰かの傍にあって初めて湧くということで。
 そして、治癒に使える蓄えが少なければ少ない程、切羽詰まっていれば切羽詰まっている程、その対象は限定的になる。気を許した相手、愛した相手、傍に居たいと願える相手……運ばれてきた皿からどれだけいい香りがしようとも、いかに動力源が枯渇していようとも、仲間も肉親も居ないこの空間では意味のないことだった。これが、フェムトに命じられた彼らが何人部屋を訪れようとも、私の食指がぴくりとも動かなかった理由である。
 それにしても……と、詰まった喉の奥で溜息を飲み込む。どこまでも投げやりで我儘な身体だとは自覚していたけれど、まさか本人の意思を無視して第三者からの治療まで拒否するとはいよいよ常軌を逸している。確かに、息は出来るし、痛みもないし、血も止まっているのなら、放って置いてもこれ以上の悪化はないだろう。けれど身動き一つ取れない身体で一体どうエネルギーを補給しろというのか。これではフェムトが呆れるのも無理はない。そして、フェムトが腹を立てるのも当然だ。

 緩慢な死刑宣告に続けて、やはりひどく緩慢な指先が私の身体に降りてくる。

「今から私がお前を終わらせてやろう、さようならエルネスタ」

 その声が、事実その端正な唇から吐き出されたものなのか、それとも答え合わせを求める私の意識が生み出した幻聴なのか確かめる間もなく──ぎゅるるるるううううきゅるるる。
 あ──と思う間もなく、間抜けな音が鳴り響いた。心臓に狙いを定めていた指先がピタリと止められたかと思えば、ギギギと鈍い動きでフェムトの顔が私の顔の上に戻ってくる。冷たい仮面の下にどんな表情が隠れているのか、見えなくともわかってしまう自分が悲しいけれど生憎今はそれどころではなかった。

「……空腹、なのかい?」
「……」

 身体中の熱を顔に集めながらも、それでもやっぱり首を動かすことは叶わない。だからせめて、動かない唇以上におしゃべりな瞳を、さっさと彼から隠してしまおう。
 そんな無駄な足掻きこそが、何よりも雄弁に全てを伝えてしまうことを……わかってはいるけれど。 


  ***


「"はいあーん"だ。あーん。ちゃんと口を開けないとやらないぞぉ」
「あう。だからもう手も生えたし腱も繋がったから、後は自分で食べられるって……言ってるのにぃ……」

 どん底を脱した今、体調は一変し身体はフルスピードで回復に向かってひた走っている。あとは食べる端から使われる栄養を少しでも多く少しでも確実に末端部まで流せるように、生えたての両手でたっぷり料理を掻き込みたいところだというのに……ここで更なる問題が発生していた。
 何が楽しいのか、私の横に腰掛けて鼻唄混じりでフォークを構える堕落王が私の独り立ちを許してくれないのだ。何度控えめに申し出ようとも、その度に「うるさい」と一蹴されての堂々巡りである。それだけならまだしも、この人は「はいあーん」と言う割に雑なのだ。五回に一回は、唇や内頬にフォークが刺さったり引っかかったり。地味に痛い思いをする上に、ただでさえ余裕のない回復量から僅かとはいえ無駄に引かれてしまうとあっては、正直言ってこの体勢にメリットどころかデメリットしか見つけられない。そしてフェムトだって、わざわざ針で穴を開けた袋に向かって水を注ぐような非効率さに気が付いていない筈がないのに──この距離は変わらない。

「ふはは、どうだね、モルツォグァッツァに匹敵するとは言えなくともこれはこれで美味だろう。何せこの僕が暇に飽かせてHL中から集めたものたちだからね。よし、今度はこっちを一口やろう──はい、あーん」
 そう言って差し出される料理はどれも確かに、"空腹は最大のスパイス"という底上げをなしにしてもかなりの美味しさだと認めざるを得ない一級品揃いだ。こうしている間も、一口含む度に閉じた唇の奥で幸福を叫ぶ私に応える為に次々と新たな皿が運び込まれている。

「はいあーん……と見せかけて、ざんねーん。これは僕の分だ」
 ひょい──ぱくり。
 てらてらと輝く多眼海老の身にむけて大きく口を開けたところで、まさかのフェイント。

 思わず拗ねた声を上げる私の横で、心底楽しそうにフェムトが笑った。



(2015.06.18)(タイトル:亡霊)
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