■ 下)

「笹塚さんとしちゃったんですねぇ、私」

 遅い朝食を食べながらぼそりと呟かれた言葉に、笹塚は噎せた。それはそれは盛大に噎せた。
「わあ、大丈夫ですか! びっくりするなぁもうー」
 はいと差し出されたグラスを呷り、ようやく落ち着いた笹塚はそのまま視線を外してぼそりと呟く。

「……ひょっとして、嫌だった?」

 のんびりとした彼女のペースを思えば、多少強引に持ち込み過ぎたという自覚はあった。しかし、あのままのペースで進んでいたらそれこそいつ爆発してしまうか……などと浮かぶ言葉が言い訳以上の言葉にはならないことも、わかっている。いや、それでも、まさか初めてだと知っていたらもう少し気長に待てただろうか。あれこれ思いはするものの、結果として年甲斐もなく急いた真似をした自覚は十二分に持ち合わせていたので、面と向かって言える言葉など何もない。
 すっかり意気消沈してしまった笹塚になまえが返したのは微笑みだった。精一杯優しくしてもらったという自覚は充分持ち合わせているのに、当の笹塚ばかりが気にするのだから、可笑しいやら愛おしいやら。

「嫌なわけ、無いじゃないですか。ただ、そうですねぇ、もう"生娘"って言葉は当てはまらないんだなぁと妙な感慨に耽ってみただけですよ。まあ、さすがにもういい加減に"娘"って表現自体、無理がある歳なんだけど」
「あー……まあ、そっちはいいんじゃない? なんとか女子とか女子会とか、そういう言葉も流行ってるみたいだし」
「そんなもんですかねぇ。まあ、どうせなら少女より淑女でありたいものですから。これを機に、笹塚さんに似合うような"大人"の女性を目指しましょうかねぇ、なんて」
「……俺も別に、"出来た大人"ってわけじゃないけどね」
「あら、でも私の奇行にも付き合ってくれたじゃないですか。正直なところ、生娘ってことに加えてベッドの上でお辞儀なんて……今時引いて逃げられても文句言えない行動だと思いますよ。その点、ちゃーんと気にしないふりで付き合ってくれた笹塚さんはとても立派な"大人"でした」
 けらけらと笑うなまえに、笹塚は目が点になるばかりである。
「……自覚、あったんだ」
「失礼な言い方ですねぇ。だって、こっちに出て来てもう八年近くですよ。さすがに、地元の常識が世間一般の常識とは異なるってことくらい気が付きますって」

 ぱたぱたと手を振って明るく言われると、何と返したものか反応に困る。などと困惑している間に、またもなまえの声が途切れ、しかも今度はその表情に影が差し始めるのだから笹塚の気は休まることがない。

「だからねえ、笹塚さん。正直この年で経験無いって、ちょっと面倒がられるんじゃないかなぁって気もあったんですよねぇ」
「いやいや、そりゃないって。まあ確かに、ちょっとびっくりしたけど……でも、それはさ、そういう意味じゃなくって──いや、いい。なんでもない」

 反射的に口を挟んだものの、余計なことまで口にしかけてしまい慌てて呑み込む。けれども、どういう意味ですか続きを聞かせて下さいと不満たっぷりに促されてしまえば、結局白状するしかない。既に充分自覚していることだが、なにせなまえが可愛くて仕方がない笹塚のことである。多少の恥と彼女を天秤にかけてしまえば傾くのはいつだって片方だと決まっていた。

「……なまえちゃん、結構もててたらしいし。あ、石垣がさ……そんなことを、ね」

 頭が良くて性格も良くて、モテモテなのに全然気取ってなくて、本当に凄い人なんですよ。オレもすっげぇ世話になりましたもん!
 学生時代の先輩に再会したと、車に戻って来るなりキラキラした目で報告してきた石垣の姿を思い出す。あいつがプラモデルやおもちゃではない生身の人間を(しかもアイドルでもない一般女性を)褒める所を見たのは初めてだったからか、やけに印象に残っていた。そして実際顔を合わせてみて、さらに驚いた。石垣と違って"まとも"そうなのに、今よりもっと酷かったという学生時代のあいつの相手が出来ていたなんて。なるほど、これは確かに"よくできた人間"に違いないと感心したものだった。

「あーもうっ。ほんっとうに、石垣くんは碌なことをしませんね。いいですか、笹塚さん。石垣くんは、当時からそれはもう、興味のないことはからっきしだったんですよ。きっと、私に対しても何か思い違いをしているんですよ」

 過剰に謙遜するでも取り繕うでもなく、なまえはけらけらと笑い飛ばして話を切り上げた。しかし、である。幾らなまえにそう言われてみたところで、どうも「思い違いをしている」のは彼女の方に思えてならない。石垣が"そういう奴"だという彼女の言い分には納得するが、"そういう奴"であればある程、なまえの言い分とは合わなくなるのだ。
 興味のないことにはとことん無頓着なあの後輩は、署に戻るまでの車内でずっと"先輩との思い出話"を喋り通していた。それはつまり……当時のことを話しても話してもネタに困らない程に、"先輩"のことを意識していたということである。

 まあ、もててたのは間違いないんだろうなぁ……。

 こんなに可愛くて良い子で、なのに意外とあしらい上手で、にもかかわらず気を許した相手には甘えん坊。青春まっさかりの学生生活でこんな子が側にいたら──そりゃあ、堪らないだろう。朝から講義で顔を合わせたり、近くに座ったり、食堂で一緒になったり、休み明けに土産の菓子を回しあったり、ゼミで討論したり、みんなで飲みに出かけたり……石垣に聞かされた"先輩との思い出話"を自分に置き換えて再生してみるとなんというか……かなりの破壊力ではないか。
 しかも学生なら、その気になれば毎日会えるのだ。大した理由も必要とせず、近くに居られるのだ。正直、こんなに石垣に対して羨ましいという感情を持ったことは初めてである。

「ねえ、なまえちゃん」
「はい?」
「俺のこと、ちょろいって思ったことある?」
「……はい? え、ありませんけど。……突然どうしたんですか?」

 不覚にも、想像だけで高鳴り始めた胸を押さえて笹塚は曖昧に微笑んだ。
 石垣のことは羨ましいが、自分がもしもその立場だったら──多分、心臓がもたなかっただろう。



(2014.07.20)
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