■ 2

 場を支配すること。それはきっといつだって、強者にのみ許された特権だ。


「──ねえ、ねえってば」

 たった二人で使うのが勿体ないほど広い室内に響くのは、ぱらりぱらりと書類をめくる音と殺しきれない吐息だけ。こんな居心地の悪い空間では、恐らく今生最期となるだろうこの空の眺めをせめて瞳に焼き付けよう……なんて気にもなれやしない。ただただ大きな身体を気の毒なほど目一杯に竦ませて、なんとか殻に閉じ篭ろうとしていたビノールトはかけられた声に反射的に大きく肩を震わせる。
 仮にこの場に何も知らない第三者が居合わせたのなら、逞しい体躯を有する大の男が、明らかに自分より劣る細腕かつ丸腰の女ひとりに一体何を怯える必要があるだろうかと首を傾げたことだろう。けれども、ある意味刃物や焼ごてよりもずっと手酷く不条理に過去の彼をいたぶったものが、心ない女の言葉や視線だったのだ。

 今にもひっくり返りそうな胃を宥めようとすれば、その指はひとりでにシザーホルダーへと伸びていく。指先の熱が金属に移り、"自衛"の手段を思い出せたことでようやくビノールトは声の主を見つめるだけの"勇気"を取り戻した。
 けれど。おどおどと伏し目がちに窺った先のなまえには、予想したような感情は何一つとして見当たらない。怒っているようでもなく、苛立っているようでもなく、何か残酷な思い付きに酔って瞳を醜く輝かせているでもなく。どちらかといえばこれは、いつかの定食屋で「ねえねえ、このハンバーグとこっちのステーキセットにして、ちょっとずつ分けない?」と言い出した時の表情に近い気がする。

 ──ああ、この違和感は、もしや。

 思い付いた一つの可能性が、安堵と虚脱感を連れてくる。自分にとってこの十数分はまるで数時間にも渡る責め苦のようなものだったというのに、この女にとっては本当にただの十数分か、もしくは単なる数分でしかなかったのではないか。(余談だが、同じように過ごしている筈なのに決定的に分かり合えないこの感じもまた、対人関係でおぼえる苦痛の一つだった。)
 ビノールトの想像を裏付けるように、気兼ねなど万に一つも見付けられないような能天気さでなまえが口を開く。

「ねえ、なってあげようか」

 にこりと微笑まれたところで、ビノールトにはさっぱり訳がわからない。
 混乱する頭をなんとか働かせて直前からの流れを汲もうとしても、抜けた主語と目的語に相応しい単語はこれっぽっちも見当たらない。

「……なに…に……?」
「お友達」

 答えを返されることにより謎が深まる場合もあるのだと知れたところで、現状は何も変わらない。
 にこにこと笑うなまえが何を考えているのか理解出来ないまま、どう返したものかと思考を巡らせる。逃げられるものなら逃げてしまいたい。全てを放棄してそっぽを向いてしまいたい。
 けれど、何事にも真面目に向き合ってしまうところがビノールトがビノールトである所以であり、彼を生き辛くしてきた要因の一つでもある。加えて、今回のように相手が待ってくれるなら尚更、"考えない"や"流す"という選択肢を排除して何とか応えようとしてしまう。

 ──ああそうか、ひょっとして。
 ビノールトとしては随分と早い時点で、これは女なりの冗談に違いない、と見当を付けられたことは奇跡に近かった。

「…近頃のガキってのは、どいつもこいつも余裕があるのな……」

 自分を殺しかけた犯罪者に向かって礼を口にする少年だったり、捕らえた賞金首に向かって笑えない冗談を口にする女だったり。
 けれど呆れ口調で零した苦笑に対して、今度は何故かなまえの目がすうーっと鋭さを増す。不機嫌になるにしては随分と今更なタイミングにビノールトの瞼がぱちりと動く。けれど今回の彼女は彼に思考する間を与えない。

「なにそれ。確かにあなたの方がちょっとばかり年上かもしれないけど、だからってガキ発言は聞き捨てならないんだけど」
「おいおい、ガキって言われたくらいでそんな殺気振り撒くなよ…ますますガキくさく見えるぞ……」
「また言った!」

 眉を跳ね上げてキャンキャン吠える姿は、ビノールトにとって意外でしかない。
 何を考えているのかさっぱり分からない。どこまで本気なのかも全く分からない。そんな、全貌を捉えさせてくれない癖に妙に信じてみたいと思わせるおぼろげな輪郭の向こうの柔肌に、不意に、今やっと、爪先で触れられた気がして少しだけ気分が浮上する。
 理不尽としか思えない怒りを向けられたり、原因不明のまま攻撃し続けてくる女には閉口するが、こんな風にはっきりと見せられたのならいなす余裕も生まれるというものだ。

 そうやってマジになるあたりがガキなのだ、と言い返してやろうか。
 どうせ暗く狭い檻の中に向かうだけの退屈な旅路なのだから、少しくらい遊んでやってもいいだろう。
 何か気の利いた嫌味でも……と考え始めるビノールトだったが、しかしそれも長くは続かなかった。場を支配するのはいつだって強者なのだし、きょろきょろとよく動くなまえの視線はビノールトが追いつく頃には別の所を見ているのだから。
 だから、つまり。たった今までの怒り様などすっかり忘れてしまったかのように、形良くほころぶ口元から告げられた言葉に今度こそビノールトは言葉を失った。

「なんだ。あなたって、そんな笑い方もできるのね」

 お前は、オレの何を見ているというのだ……?
 今の今まで、彼女と向き合う自分がどんな顔をしているかなど考えたこともなかったし、もちろん自覚なんて欠片も持っていなかった。突然の指摘に慄くばかりのビノールトは、彼にしては珍しくそれ以外のことを全て頭から追い出してしまう。

 そんなビノールトが、全てのきっかけとなった彼女の言葉を宙に置いたままだと気が付くためにはまだ暫く時間がかかりそうだった。



(2016.07.21)(タイトル:いえども)
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