■ 2.しなる切っ先にひとしずく 1

 苗字様、お荷物が届いております。

 飛行船の離陸までは、あとしばらく。一般客室から離れた特別区の中でも特に厳重なセキュリティで隔離された客室を貸し切ったなまえが、ノックの音に頬を緩ませる。
 分厚い茶封筒を差し出す客室係にチップを渡した彼女は、まるで興味がないという様子で窓の外を眺めるビノールトに眉をしかめると強引にその視界に割り込んだ。これ見よがしに茶封筒をひらひらと動かして、にまりと口角を引き上げる。

「中身なんだと思う?」
「オレにわかるわけがないだろ……」
「わーお、つまんなーい。正解はね──」


  ***


 何ということはない。なまえが取り寄せていたのはビノールトという犯罪者についての資料だった。
 犯人不明・動機不明の猟奇的事件に沸くゴシップ誌や、衝撃的な見出しが躍る当時の新聞記事などはビノールトにも見覚えがあった。どれもこれも野次馬精神が満載で、憶測のまま好き勝手に書き殴られたそれらの記事はビノールトにとって全く身に迫るところのない"読み物"だったのだ。だからそんなものを彼女が今更有難がって読むことが不思議でならなかったし、そんなものを見せびらかして一体何を期待しているのだろうと呆れて見ていたのだが……その下から出てきた紙の束に、さすがに目を見開く事となる。なるほど、新聞はついででこちらが本命だったか。残虐な手口や一部分を切り取られた遺体の写真まで収録されている捜査資料の束は、一個人が入手できるような代物では無い。けれどもなまえに言わせれば「それはまあ、ライセンスを使えば大体のことはできちゃうわけだし……」で済んでしまう。
 うわぁとかうげぇとか呻きながらも、ページをめくる手を止める気は無いらしい。

「そういうの…本人の前で見るのってどうなんだ……」
「えー放っとかれて暇だった? じゃあそうだねぇコレを使ってトークタイムにしよっか」

 ……そういうことを言いたいのではない。けれどもこれ見よがしに溜息を吐いてみたところでなまえが動じないことなど、この短い付き合いでも十二分に理解している。悲しいことに。
 案の定、微塵も気にしていない様子で「お腹とほっぺたとお尻だったらどこが一番美味しいの?」と尋ねてくるので、ビノールトとしては言葉に詰まるしかない。
 ──お前がそれを知ったところで、どうすンだよ。
 けれど勿論そんな正論ではこの変わり者のハンターを止めることは出来ない。結果、気付けばすっかり彼女のペースに巻き込まれ、問われるまま求められるまま、限りなく物騒なことを全く似つかわしくない軽さで話題にしていた。
 もう幾分か彼女の顔つきや声色が真剣であったり、言葉が選ばれたものであったならば、そして対するビノールトに僅かでも反省もしくは反抗の色があったのなら、談笑ではなくもっと別の言葉でその時間を表しただろう。
 それでもある時、顔色一つ変えないままのなまえが発した一言によって、その尋問と呼ぶには程遠い見せかけだけの和やかさにも亀裂が走る。

「どうせ殺しちゃったんなら、全部ちゃんと食べればいいのに。もらってくれるツテ方面は開拓しなかったの?」

 なんだそれは。本気で意味がわからねぇ。
 なんだかんだ呆れたり文句を言いながらも続いていたキャッチボールは、そこであっさりと途切れた。なまえが投げた"いつもどおり"の一球を見送ったビノールトは、なぜいきなりそんな理解不能な"変化球"を投げるのだという思いでなまえを見遣る。けれどなまえにとってそれは、本当にただただ当たり前の思考により生じたなんてことないちょっとした疑問だった。大の男にきょとんと不思議そうに沈黙を返されてしまえば、今度は彼女が狼狽える番となる。え、やだちょと、私そんなに変なこと言っちゃったっけ?
「え、だって効率悪いし勿体ないよね? 一応人食い自体はそこまで珍しい趣向じゃないだろうし……ほら、公に出来ないタイプの"美食"に大金払う金持ちの話なんか、ちょっと掘れば腐る程出てくるしさ」
 そうだよ、いっそ賞金首ハンターって言わずに人肉ハンターですって名乗ればそういう依頼も飛び込んでくるかも──今度はキラキラと輝く瞳を向けられて、ビノールトは無性にこの場から逃げてしまいたくなった。

「ちょっと待て……。なんで…なんで好き好んでそんな変態野郎どもを相手にしようなんて……」
「あら? でもそれを言っちゃえば、あなただって"変態野郎"になるんだけど?」


「……ああ。オレは別に…自分が"まとも"だとは思っちゃいねぇよ」


 なまえからすればただの軽口だっただろうその発言は、ビノールトにとっては冷水を浴びせられたようなものだった。
 ビノールトが絞り出すように吐いた言葉は、彼が自覚していたよりも随分と自虐めいた響きを持っていたらしい。なまえの口角はみるみる下がり、瞳から勢いが消えていく。戻りかけていたと思えた空気は、今や修復不可能な有様にまで落ち込んでしまった。


 この手の沈黙をビノールトはよく知っていた。
 人の良い美容師という顔をどうにかこうにか取り繕って生きていた頃も、度々あったのだ。数分前までは楽しそうにしていた客たちが、まるで人が変わったように冷たい視線を向けてきた。恋人のことを惚気ていた女は、不機嫌そうに舌打ちした。パーティーに呼ばれたのだと上機嫌だった女には、扇子で頬を打たれた。娘が結婚するのだと浮かれていた女は、その場では何も言わなかったが後日「担当を変えて欲しい」と店主に言っていた。こっそりと好いていた優しげな女からは、蔑みの目を向けられた。
 彼女たちは、いつだって素直だった。
 間が悪い。答えが違う。素直に、失望と軽蔑をあらわにして使えない美容師を罵った。
 けれどビノールトには、どうしてなのかが理解できなかった。どうすればよかったかも、どうしたら以前の彼女たちに戻せるのかも、わからなかった。だからビノールトはその度に、身を焼くような悔しさと悲しみと怒りのままハサミを振りかぶった。ビノールトに出来ることは切ることだけだったから。
 そして、何も言わないまま死んでしまった彼女たちを更に切り刻んだ。彼女たちを形成するものを身の内に入れれば、わかることが出来るだろうかと期待したから。確かめたかった。理解したかった。始まりはそれだけだったのに。


 すっかり黙り込んでしまったビノールトにはもう"現在"など見えはしない。だから自分に向かうなまえの無遠慮な視線になど気付けないし、思案の表情が示す意味にも気付けない。
 正気を取り戻して真っ先にしたことがなまえから顔を背けることだった。というビノールトに向かって、追い討ちの言葉が投げつけられる。

「あなたってさ、友達いないでしょ」
「……だったら……悪いか」

 当たり前のこと過ぎて、安い挑発だと笑う気にもなれやしない。
 なまえは眉ひとつ動かさないまま硬い口調で流した男をそれ以上つつこうとはせず、ふうんとだけ呟いて手元の資料に視線を戻した。

 唐突に始まったトークタイムは決して望んだものでもなかったのだが、最低の形で幕引きしたのが自分だという事実は肩を重くさせる。
 無意識のうちに右手がホルダーのハサミを探っていたが、握りしめたそれをなまえに向かって振りかぶるには首のロープがどうしても邪魔だった。この縄が巻かれてる限り、このハサミを使って彼女を黙らせることも、"理解"しようとすることも叶わない。この空気を作ってしまった原因が自分だと自覚出来たところで、今のビノールトにはもうどうすることも出来ないのだった。



(2016.07.20)(タイトル:いえども)
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