■ 君だけなら抱き締められた

「よし、できた」

  告げられたのは演奏の終わりである。迷いのない滑らかな金属音の余韻に浸りながらゆっくりと瞼を開けると、鏡面ごしにビノールトと目が合った。「ありがとう」褒めて褒めてと尾を振る犬のような眼差しに向かって微笑みを浮かべれば、鏡の中のビノールトもくしゃりと顔を緩ませる。素直で可愛らしい反応はいつものことだけれど、不思議なことにどれだけ回数を重ねても私の胸は少しも慣れる気配がない。ほら、今もまたきゅうんと幸福に啼いている。

「じゃあ……あとちょっとだけそのままで、な?」

 つむじから襟元にかけて撫で下された指が、肩のケープをそっと外す。切り落としたばかりの髪たちが床に落ちてしまわないように丁寧に処理し終えた彼は再び私の後ろに立ち、ひょろりと長い身体を窮屈そうに折り曲げた。筋張った大きな手が首を撫で肩を這い、熱い吐息がじっとりと肌を湿らせる。
 大胆に開いた襟首にはケープまで辿り着けなかった髪が幾片も付着しているのだろう。鏡の中の鎖骨を見ればそれだけで、後ろの状況も十分なほど察せられる。けれど本当に目をやるべきところは見慣れた自分の身体などではなく、後ろにいる大きな獣なのだと解っていた。だから私は私自身など放っておいて、今はただただ鏡の奥へと目を凝らす。

「あ、んっ……!」

 鏡に映る男のふわふわの短い髪が揺れたと同時に、乾いた唇と柔らかい舌が肌を擦った。
 数センチにも満たない、取るに足らないような髪の一本一本を丁寧に確実に拾い上げていくビノールトの舌先が丹念に私の身体を舐め回す。
 どうせならもっと長く切った方が食べ応えがあるでしょう、という言葉に首を振ったのは他ならぬビノールトだった。今くらいの長さでいる方が手入れの楽しみがあるのだと熱心に訴えられてしまえれば「じゃあお好きにどうぞ」と答える他ないだろう。
 かくして彼は毎日嬉々として私の髪を撫で、梳き、結わえ、時には洗ってくれ、濡れた髪を乾かし、定期的にこうやって毛先を整えるばかりか、切り落とした部分までをももれなく丹念に楽しんでくれている。

 もともと、ビノールトの能力を享受することも単なる効率を考えての結果だった。他の誰にも漏れない方法で私の健康管理が出来て、仕事の上でも適材適所の割り振りが出来るようになって、更に彼の趣好を慰めることまで出来るなんて素晴らしいと気楽に考えたから──けれど蓋を開けてみればご覧の有様だ。これはもう、一種の前戯である。
 当人である私自身が知っているところよりずっと深いところまで、誤魔化しのきかない部分まで。ビノールトが私に教えたのは、自身の全てを晒す行為の心地良さだけではなかった。彼に私という存在を"教え込み""刻み付ける"こと。その快感を覚えさせたのもまた、間違いなくビノールト本人である。
 荒い息を背に受ける度、ぬらりとした唾液が肌を濡らす度、執拗な舌に皮膚を擦られる度、ごくりごくりと喉が鳴らされる度、添えられた手に力が込められる度、やがて掻き抱かれる瞬間を想う度、紛れもない喜びと期待が身体の奥深くから溢れ出てくることすら、全てこの人には"知られて"しまっている。

 ──けれど、今日に限っては私の期待はただの期待のまま終わってしまった。

 これまでにない力で肩を握られたかと思えばあっという間にその手は離れ、続いて唇も離れてしまったのだ。あれほど重なり合っていた身体は今ではもうどこも触れ合ってはいない。熱い舌による"仕上げ"の代わりに化粧筆で払われた髪は床に落ちる事なく全てビノールトの手に収まったけれど、それでもやはり鏡越しはおろか振り返っても目が合う事はなく、どうしたのと問いかけても反応がない。
「ビノールト?」
 露骨なまでの違和感の種は、伸ばした手が彼に届いた瞬間に酷い現実として花開く。大きく肩を跳ねさせた彼は何よりもびくりと跳ねた自分にこそ心底驚いたように目を見開くと、小さな瞳をふるふると揺らしながら後ずさる。
「わ、悪い。ちょっと腹が痛てぇから、今日はもう……」

 労りの声すら振り切るように飛び出て行ったビノールトはそのまま手洗い場へと駆け込み、しばらく出てこなかった。いい加減寝ようかという段になってようやく顔を見せた彼は「大丈夫だから」と言いはしたものの、勿論どう見ても大丈夫とは程遠い。恐らくまた、何か考え込んでいるのだろう。その内聞かせてくれるだろうかと期待しながら、せめてもの配慮としてこの夜をさっさと切り上げることにした私たちは抱き合うことなくベッドに潜り込んだ。

 そして。
 打って変わって何事もない朝を迎え、夜を過ごし、朝を迎え、あの日の憂いは晴れたと思われた頃──ビノールトが姿を消した。



(2017.04.01)(タイトル:いえども)
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