■ 溺れる二人に祝福を 下

「今のに当てはまる人なんて、あなたしかいないでしょ」


  ***


「……随分とお粗末な冗談だな」
「……やだなぁ。冗談じゃないし企んでいるわけでもないから、そんなに睨まないでって」
 先ほどまでの、鬱陶しいまでの勢いで惚気を振りまいていた女とは別人のようになまえは静かに苦笑する。
「ほら、ね。こういう反応が予想できたから、ずっと黙っていただけ」

 こちらに顔を向けることなく、半分ほど残っていたグラスの液体をやはり勢いよく煽る。やけっぱちの仕草はこの後に及んで本心を教えてくれる、そんな女を、意外な思いでゲンスルーは見つめていた。あまりのことに、あれほど昂り始めていた攻撃性もすっかりなりを潜めてしまった。
 寝耳に水でしかないのに。
 真実とは到底思えない内容なのに。
 驚きだけはあるものの、不思議とさほどの違和感もなかった。むしろ、いくつかのピースが噛み合い腑に落ちる感覚すら覚えつつ、それでも意図が読めないまま流されるのは癪だからなんとか呆れた口調を演出する。

「予想は付いていたわけか。で? そこまでわかっていて勝算のない勝負にでようとは、らしくないじゃねぇか」
「……酔ってるからね」
「ハッ。お前がそんなタマか。今までどれだけ飲んできたと思っている。今更そんなつまらねぇネタで誤魔化せると思うなよ」

 てっきり普段のように挑発的な態度や、機転を利かせた反応があるだろうと予想していた。
 だから彼女の態度に素直に眉を顰めた。取り繕うでもなく攻め続けるでもなく、ただ視線を外して所在なさげに呟くなどらしくないにもほどがある。
 ささやかな反抗とじゃれあいの応酬を期待しての憎まれ口が、どうやら真逆の事態を生じさせたことは理解できたものの、だからといって修復へ踏み出す一歩は容易ではない。
 特に「勝算のない」という表現がなまえを抉ったようだった。どうしたのか、本当にこの女らしくない。傷ついたと喚き散らせばいいのにしない。謝罪を要求しますとか踏ん反りかえってここぞとばかりにねだってくるなら、いつものことだと流せた。そう。多少言葉で虐めてもいつもなら少ししょげた振りをする程度だった。そして、時には憎まれ口すら叩きながら、馬鹿みたいに擦り寄ってくるのが普段のこの女なのだから。だというのに今こうして浮かぶ表情にも微かに震えるその肩にも、あのわざとらしさが見つからない。お馴染みの演技にしてはあまりにも意図が読めない。
 どうしていいかさっぱりわからない。
 しかし、その見慣れないが故に惹かれるものもあった。だんだんと、確かに一瞬あったはずの修復という発想すら薄れていく。
 いつの間にか、ゲンスルーの顔にはいつかのような凶悪な笑みが浮かんでいた。


  ***


 数分前の躁状態が嘘のように弱っている珍しいなまえを前に、その胸中を暴いてついたばかりの傷を踏み躙って悲鳴をあげさせてみたいという場違いな興奮が湧きおこる。そんな自身に罪悪感はまったくなかった。とてもいい思いつきだとすら感じた。
 さあ、お前の傷を見せろ。そして、もう一度切らせてみろ。抉らせてみろ。
 衝動のまま、続けて露骨な悪意を幾つかぶつけてみれば、その都度面白いように女は反応した。

「おいおい、いくら手持無沙汰とはいえ、さすがにペースが速いんじゃあないかな」

 次々と切り掛かる暴言から逃れようとするように新しいボトルへと伸びる女の指先は震えている。本当なら椅子を蹴って逃げ帰ってしまいたろうに、背を向けることをよしとしない獲物の虚勢。その手をわざと強めに掴んでやれば、なまえはまたびくりと肩を震わせる。不意にその姿に懐かしいものを感じたゲンスルーは、なんだったろうかと首を傾げた。おぼろげな記憶は確かにそこにあるのに、よく見ようと目を凝らすもすぐには辿り着けない。脳裏にかかる妙な靄を晴らそうとするように、記憶を辿るように、ほとんど無意識のまま立ち上がり、距離を詰める。
 だが、散々に痛めつけられた女の神経は凶器とそれ以外を区別しようとはしない。抱きしめるための男の動きに反して、女は逃れるために身を捩った。

「……おい、お前、さっきまでと随分反応が違ぇじゃねぇか」

 責め苛み傷つけていた時の興奮は、明確な拒絶を受け急速に冷めていく。
 こうなるまで悪乗りしたのは明らかに自分の非だが、かといってここまで心底"らしくない"反応をされるほどに決定的なあやまちを犯してしまったとは到底思えなかった。
 だって、そうだ。今までも多少手荒く扱ったことはあったし、辛辣な言葉を戯れにぶつけることもなかったわけではない。それでも、これほどの拒絶を肌で感じたことはあっただろうか。

「……おい、なにを昔みたいな反応してんだよ。大体お前は、これくらい余裕で躱す女だろうが──」

 もう一度最初からやり直す気なんてねぇぞと続けようとしたゲンスルーは、そこでようやく自分の言葉に答えを見つけた。ぎりりと奥歯が嫌な音をたてた。

 どこかで見たと思うのも、すぐに思い出せないのも道理だった。
 ただの弱い女のような、次善の策すら持たないような頼りない反応は、本性を晒して力のままに屈服させたあの日しか見ていないのだから。そして、あのまま怯えて震えるだけの女だったなら、当然ながらこれほど長い付き合いにはなっていない……傍に繋ぐほどに気に入った姿は、見たかった姿は、もっと他にあったはずだ。

 ただの女ならいらなかった。今更、ただの女のように扱いたいわけでもなかった。
 ようやく正しく冴え始めた頭を使い、ゲンスルーは自身が盛大に突き進んでいたミスルートからの転換を計る為にいまいちど引き結んだ唇を解く。今度はもっと慎重に。


  ***


「……すまない。……はぁ、わりぃな。いたぶるのは癖なんだ」

 だからどうか、そんなに露骨に怯えるな。
 溜息と共に告げた謝罪はなんとかなまえに心境の変化を伝えることができたらしい。彼女の全身を包むどころか部屋中へと広がっていた拒絶の空気が徐々に、しかし着実に和らいでいくことを肌で確かめながら静かに間合いを図る。
 この機を逃さず、次の手を打つために。
 なまえの身体へと伸ばしていた手に再び力を込めて立ち上がり、引き寄せると同時に自分も下がる。体術としては初歩の初歩で仮にもハンター相手に仕掛けるには随分とお粗末なものだが、元々の勘がどうにも悪い上に酒まで入っている女の身体はあっさりとバランスを崩した。素人同然の無防備さで倒されようとする肉体を手中に治めることは、とても簡単だ。
 かくしてなまえを抱きしめる形でベッドへ腰を落としたゲンスルーは、足の間で呆けている柔肌に改めて腕を回した。すっぽりと収まる女の顔こそ見れないものの、アルコールにより赤みが増した肌は視界を眩しく彩る。その熱に引き寄せられるままに細い首筋に舌を這わせれば、展開についてこれないなまえが困惑をあらわにする。

「ちょっ、やだってば」
「──お前が、オレを好きだとして」

 びくりと細い身体が跳ねる。

「……それを今更伝えることで、オレたちの関係になんの変化を期待する?」

 まだ少し湿ったままの髪から漂う洗髪料の香りを感じながら、首筋に口づけ、舌先で舐め上げる。いつものようにゆっくりと。無防備に晒された急所を確かめるように、柔らかな皮膚を撫でるように、唇を寄せる。肉食動物のように齧りつけたら愉しいだろうなと思いながら、痛がられない程度に歯を立てる。いつものように。

 ……いつものように?

 今まで何度も、いつも極々自然におこなっていた動作を、今更、本当に、ようやくのこと、自覚した。そして不思議に思う。そういえば、いつからオレはこんなふうに"女"に触れるようになっていたのだろうと。実のところ、やっていることは聞き分けの悪い女を宥めるための小手先の愛撫だが、気の持ち様が違うのだ。現に今ですら、服の隙間に差し入れた指先を滑らそうとして、そのまま快楽でなし崩して丸め込もうとして、けれど躊躇してしまった。非日常が日常となったこのゲーム世界にあってすら特別だった気晴らしの時間。それを最後に過ごしたのはいつだったか。口うるさい女に任せてクリームだのやすりだのあれこれされた頃ならいざ知らず、荒業続きのこの指先では柔らかな皮膚を引っ掛けそうだと思ってしまったら、もう駄目だった。図太く生き汚く馬鹿で強欲で、滅多なことでは傷つかない女だとわかっているのに、駄目だった。

 ああ。女なんてただの玩具だったのに。
 貪り、飢えを満たし、傷つけ壊し奪う以外の関係をオレは一体いつ覚えたのだろうか。
 おそらく、この女をこういう女だと認めた時点で手遅れだったのだ。
 諦めて認めてしまえば、胸に広がるむず痒い感覚がなんだか馴染み深いものに思えてくる。いや、認識しないようにしていただけで今更なものなのだから馴染みがあるのは当然か。わざわざ注視することこそなかったが実のところずっと感じていた衝動を味わいながら、ゲンスルーはあたたかくてやわらかい身体を抱く腕に力を込めた。
 そうだ。答えを知ってしまえば、実に単純なことだった。
 多少のことは策のうちと笑ってみせるこの女を翻弄してみたい。数打ちゃ当たるとばかりにねだって手軽な満足で己の機嫌を取っているこの女を本心から喜ばせてみたい。この女に、ゲンスルーという男を刻みつけたい。優しくしてやりたい。
 染まった肌の下でどくりどくりと主張する頸動脈まで、愛おしい。掻き切るのではなく、愛でていたい。
 素直な身体を使い潰すのではなく、いっときの玩具として終わるのではなく、何度も何度も乱れさせたい。手元に置きたい。生かしていたい。

 首筋に幾度目かの口付けを落とし、時折軽く歯を立てるゲンスルーになまえも思うところがあったのだろう。元来流されやすい身体が先ほどとは違う反応を示しはじめる。
 あれほど張りつめていた空気は、もうすっかり消え失せていた。代わりに、蒸気した肌に反応して風呂上がりの甘い香りが強まっている。柔らかい肉体を囚えるように交差させた腕も、もう振り払われる気配はない。その変化を確かめながら男は密かに安堵の息を吐いた。
 得られた許しに応えるようにゲンスルーは抱きしめた身体へと唇を落とし続け、なまえは黙ってそれに身を委ねていた。やがて、閉ざされていた口からゆっくりと発せられた声は、すっかりいつもの──彼のよく知るなまえのものだった。

「……変わることを期待したっていうより、変わらないことを期待したのかなぁ」
 愛撫を緩め、抱き締めたまま続きを促す。
「ほら、ここのところ色々あったじゃない……?」

 ゲンスルー達のチームは随分と大きくなった。次の段階へと進む再編成が必要だと連日幹部会議があるのだと、なまえに連絡したのはいつのことだったか。
 計画の順調さは顔ぶれの変化でもある。減った顔も幾らかあったが、結果としてはなまえが身を寄せた頃よりかなり増えていた。当然彼女の知らない名前ばかり。それでも、幹部の恋人という立場はいつの間にか新参者にも伝わり、自動的に彼女の顔は売れていく。
 増えた顔消えた顔それぞれの交友関係、把握しても、整理しても追いつかない。そもそも彼女の仕事はそんなことではない。仕事に支障をきたすのは不本意だった。おまけに、それだけの人数を警戒するには、町には人が集まり過ぎた。
 見咎められる危険だけが増し、徐々に彼女と彼らの行動に枷が生じるようになる。
 最初は主要都市。次第に、町以外のフィールドでもサブとバラとは行動できなくなっていく。
 そもそも、ニッケスたちが段階を踏むということは爆弾魔の計画進行にも直結している。彼らに合わせて次の段階へと移った爆弾魔は、三人で行動する頻度自体を減らしていた。ふたりがG.Iに入る期間も当初より開くようになり、期限の十日も重視されないようになり、一回の滞在時間も随分と短くなり……。そうしていつの間にか、四人で集まって数日に亘り騒ぐことも、人目を避けつつも揃って狩りに興じることもなくなっていた。

 バッテラの依頼をこなす途中でなりゆきのように入手した"個人宅"も、当初こそサブとバラの滞在拠点及び逢引用として大活躍したものの今となってはせいぜいゲンスルーの訪れがあるだけだ。そしてそれも頻繁ではない。
 大きくなったチームを纏め上げ、逐一変わる状況を判断し計画を管理する為にゲンスルーら幹部の負担も格段に増している。
 昼間に呼び出せるのも今日の様によっぽどの時だけになった。夕食を食べて肌を合わせ、惰眠を貪り、目覚めた後も快楽に身を任せ日が傾くまで怠惰に過ごす、などということも頻繁に行える事ではなくなった。

「──でさ、ついこの間までみんなとわいわいしていたのになぁって、なんか寂しくなっちゃってさ。この調子でゲンスルーとの時間も減っていって、飽きられて、静かに終わっちゃうのは嫌だなぁって思ったらなんかねぇ……。今日だってもう来てくれないかなーって諦めかけてたし。ならいっそ、壊す覚悟で掻き回してみようかなぁ……なんてね」

 変なスイッチ入っちゃったなぁと苦笑いで話を締めたなまえは、すっかり落ち着いた様子でくたりとゲンスルーにもたれかかる。相変わらず顔は赤いが。
「そっちの目的は勿論わかっているんだけど、それでも寂しいものは寂しいのよ」
「……お前、本当に変わった奴だよなぁ。オレらにそんな入れあげるなんざぁ、正気の沙汰とは言えないぞ。まあもっとも、お前がおかしいのは最初からって気もするが」
 呆れた奴だと漏らされた言葉と穏やかな声のずれは随分と甘く、なまえは顔をほころばせずにはいられなくなる。背中の熱を心地よく思いながら、腹部に回された手にそっと自身の手を重ねた。そして彼女の大好きな、その骨張っていて器用に動く長い指に触れる。ささくれを擦り、切りっぱなしの爪を弾いて、もったいないなぁと惜しんでみせる。
 たくさんのモノとたくさんの命や思いを掴んで爆破した……そしてこれからも、葬り続けるであろう手のひらを、微塵も恐れることなくなまえの指がなぞっていく。

「本当にねぇ。自分でも、極悪非道の爆弾魔をこんなに好きになるなんて予想外ですよ」
「こっちこそ。使い捨ての玩具のつもりがこんなことになるとは、心底予想外で不本意だ」

 茶目っ気たっぷりに見上げてくる女の言葉に男は調子を合わせ、顔を見合わせて同時にふっと口元を緩めた。怖れるでも怯えるでもなく、かといって侮るわけでもなく向けられる眼差しを心地よく感じながら、ゲンスルーは呟く。

「本当に、拾いものだったな」



  ***



「……ところで、先ほど散々褒めちぎってくれた気がするが、あれは一体どの辺りまでが本心だ?」
「あら、それを今聞くんですか? まあ多少盛ったところもあるけど……前後含めてほぼ本心言っておこうかなあ」
「ほう……『前後含めて』なぁ」
「実際、その気がなかったら任務遂行困難って報告してさっさとおさらばしてたって」
「この状況で散々儲けておいて常人ぶるな。おい、ちなみに、いつからだ?」
「さあね秘密でーす。ああ、でもバラとサブにはそれぞれ相当前に指摘されてたなあ」
「……なっ」
「隠すのが上手いっていうより、ゲンスルーが鈍いんだよねー」
「…………」



(2014.04.15)
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