■ 下

 ──ばちが当たったのだ。

 なまえの身体に起こったどうしようもない変化を突きつけられて、まず思ったことがそれだった。
 毎夜のように絡み合い、確かな絆を求めながら、それでも本心ではその行為の"先"を考えることから逃げていたのだと気づいてしまったことに血の気が引く。
 決して"望まなかった"わけではない。むしろいつだって──細い腰を掴みながら、柔らかい肉襞を押し広げながら、甘やかな刺激に酔いながら、開かれた躰の奥の奥まで突きながら、絡みついてくる手足を嬉しく思いながら、僅かな隙間も惜しいとばかりに重なり合いながら──いつだってこの女を孕ませたいと願ってありったけの精を注いでいたのだ。
 身勝手な望みをどれだけ吐き出してもいつだって余裕とばかりに受け止められ、醜く薄汚れた想いをがむしゃらに塗り込んでもちっとも穢れてなどくれないなまえの前では、征服欲などあってないようなもので、炙り出されるのはいつもこちらの弱さや甘えばかりだったけれど、それすらも心地良くて堪らなかった。

 ──だから今。
 許されたぬくもりに散々あぐらをかいた結果が"これ"ならば、ここに至る道筋には何の不自然も不条理も存在していない。


  ***


 鏡に映るなまえの顔を窺えば、その身に起こっている変化になどまるで気がついていない女がうっとりと瞼を閉じていた。
 自分のような男を相手に、よくもまあこんなにも無防備でいられるものだと呆れるには随分と今更だ。まあ、思えば最初からなまえは"こう"だったのだが、それでも関係が変化してから露骨さに磨きがかかったと言える。"友人"として構われていた頃よりもずっと近くで、念入りに、丹念に、強張った心がすっかり緩んでしまう程に幸福の味を覚え込まされた。
 ──けれども。
 幾らこの女と云えど、いざ現実となった"この結果"を知ればどうだろうか。一度考え始めれば、彩に満ちていた未来は直ちに不穏な色に塗り込められる。どうしよう。どうしよう。心臓が出鱈目に跳ね上がる。血液が退路を求めて駆けずりまわる。
 そもそも、釣り合いの取れない身の上だ。望まれるまま側にいたいと願ってはいたが、対等に歩くにはどうしたって不足が多すぎる。なまえが幾ら否定しようと、結局のところは熱に浮かされたようなものだとしたら。軽やかに世界中を渡るなまえの足に追いすがる錘が自分という男なのだと、彼女が気がついたらどうなるだろう。いやそれくらいならば……見捨てられるくらいなら、疎まれるくらいなら、まだいい。まだ、諦めもつけられる。生まれを呪い育ちを呪い彼女を呪い、錘にしかなれない身を可哀想がって甘やかしてやり過ごせる。
 真に恐ろしいことは、この展開すらも許されてしまった場合に訪れるのだ。正常とは程遠い嗜好を持ち、真っ当とはいえない生き方をしてきた自分が、どうやって"ひとの親"なんてものになれるのだろう。親に愛された記憶も親を愛した覚えもないこの腕で、抱ける命などあるのだろうか。


 口を閉ざして耳を塞いで、すべての判断を投げ出して裏路地へと走ったところで辿り着けた先に万に一つの救いもないと理解していた。それでも、今までと同じようになまえの前に立てないのならば、逃げるしかなかったのだ。
 何も告げずに消えたことで、なまえが見限ってくれればいいと期待した。ビノールトという男の残滓を洗い流すように自分に縁ある"すべて"を見限ってくれればと期待した。けれども、それでも、未練がましく、"洗い流すには手遅れになる"ところまで無為に時間が過ぎていく可能性を捨てることもできなかった。だからこそ、"何も告げなかった"のだと冷えた頭でようやく思い至る。なまえに選ばせようとしながらも、なまえが選べなくなる展開を望まずにはいられなかった自分は、結局どこまでも浅ましく未練にまみれていた。
「──なのになんでお前は、そんなふうに笑ってんだよ」
 こっそりと覗き見たなまえは相変わらずで、痛む頭を抱えながら一体何度目か分からない溜息を押し出す。もともと付き纏いには自信がある。おまけに肝心の彼女に隠れたいという意思がないのであれば僅かな距離という問題など何の障害にもならず、かくして毎日のように窓辺でくつろぐ様子も、不安に震えるどころかむしろ意気揚々と病院へ入った横顔も、いつもと違う靴屋に入る足取りの軽さも、すべて寸分の狂いもなく読み取れてしまっていた。恐るべきことに、数日経った今でも彼女は笑っている。
 なんということだろう。最後まで捨て切れなかった、一番望まないふりをしながらその実は焦がれてやまなかった選択肢を彼女は初手で選び取ってしまったのか。
 ずりずりと腰を落とし、此の期に及んで翳りを見せない光に向けて「信じられねぇ」と口にして──気がついてしまう。陸の孤島でもなければ、路銀がないわけでもない。子供のように逃げ方を知らない訳でもなく、その気にさえなればどこにでも逃げられた。だというのに毎日毎日こうして彼女を確かめ続けている自分もまた、本当のところはとっくに選んでいたのだと。

 いや、そもそも未練がましく纏わり付いている時点で明らかではないか。
 どれだけ支離滅裂な道順を辿っても思考はいつも彼女のところに終着し、矛盾に雁字搦めになりながらも指先はたったひとりだけを求めて宙を掻く。となればもう、本当の意味で手放せる段階などとっくに過ぎていたのだから、何もかもが今更だった。
 どのみち離れられないのなら、共に生きたいと願ってみよう。もしもこの先"自分たち"がどうしようもなく道を踏み外しかけたとしても、あの女ならば潔く引導を渡してくれるだろう。ツテもコネも豊富な彼女ならば、多少転んだとしてもきっと上手く立ち上がるだろうから。
 前向きなようで実際はどこまでも後ろ向きな覚悟を秘めて、数日ぶりのロビーを踏み締める。何事かと目を見張る人々の間を突っ切り昇降機に駆け込めば、なまえのところまではあと少しだ。
 生まれて初めて買った花束がやけにずっしりと重く感じる。指先の感覚はとっくになくなっていた。がたがたと小刻みに揺れる膝が昇降機の床を不安げに鳴らすが、もう後には引けない。


  ***


「楽しみね」
 何をしていたのと怒るでもなく、身勝手だとなじるでもなく、穢らわしいと眉を顰めるでもなく、どうしたことかと狼狽えるでもなく、ただただ「おかえりなさい」と抱きしめられた中で聞いた声こそが真実、なまえの本心だと理解できてしまうから弱ってしまう。すべて見通されていたようで立つ瀬がない。
 けれど、半ば押し付けるように渡した花束に伸ばされた指が小さく震えていることに気がついてしまえば、もう──いつまでも抱きしめられるだけではいられない。



(2017.04.09)(タイトル:fynch)(「悲恋専門サイトになります」という4月1日ネタの回収編)
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