■ 使い慣れない新単語

 眠り姫に口付けた男は、女が目覚めるとは微塵も思っていなかったに違いない。もしくは、女の記憶にある他の誰よりも自分こそが優れているという自信に支配されていたに違いない。少なくとも、ソファで無防備に眠りこけるなまえを睨みつけながら葛藤するしか出来ない男の心など、御伽噺の王子様には永遠に分からない類のものだろう。


 伏せた瞼の奥にいる男が自分でない誰かだったならば。むにゃむにゃと幸福そうに緩む口元が呼ぼうとする名が覚えのないものだったならば。衝動に任せて口付けた裏側で、他の男を重ねられたとしたならば。触れたいという衝動と僅かにだって傷付きたくないという自己愛で立ち尽くす間にも、時計の針は無情に動き続けている。

 結局どうにも堪らなくなり肩を揺らせば、ううんと気だるげに瞼を動かしたなまえはやがて相好を崩した。
「ああビノールト、おかえり」
 寝ちゃってたよと詫びれる素振りもなく身を起こしかけたなまえの肩に手を置いて、そのまま軽く力を込める。有無を言わせずソファに沈められた形になる彼女は、けれどもぱちりと瞬くだけだった。非難どころか訝しむ様子すら見せずに覆い被さる男の身体に腕を絡めてくれる。何も確かめないままに受け入れようとしてくれる彼女に、既に溢れそうになっていた想いはいよいよ限界を知る。

「なぁ。もう一回呼んでくれよ」
「……ビノール…ぁ、んんっ……ひゃっ」

 乞うた癖にみなまで言わせず、吐息ごと吸い込むように柔らかな唇を奪う。
 薄く開いた隙間を舌先でなぞれば、こじ開ける必要もなく熱い口腔に辿り着けた。ぬるりとした舌を捕えるのは容易くて、ひとたび重ねれば後は絡み合うだけとなる。上になり下になり高みを目指している内に、飲み干せなかった唾液が零れてなまえの首筋をぴちゃりと濡らした。拭おうと向けた指は、けれども途中で行先を変える。甘い舌を最後にいっそう強く吸い離すと、代わりに指を二本濡れた唇の間にそっと押し込む。
 滑らかな頬の裏側と、弾力のある歯茎に並ぶ可愛い歯たち。なまえの内側を撫でて楽しんでいると、もっといいものがあるでしょうとばかりに情熱的な舌に捕まってしまう。まるで別のモノにするように吸い付いて、隅から隅まで丹念に舌を這わされればもう戯れなどでは済ませられない。
 背筋がぞくりと泡立ち、厚いズボンの内側で熱を持ち始めていたその部分も一際激しく主張を始める。

 二本の指で口腔を犯す傍で、ふたり分の唾液が絡んだ舌でなまえの首を拭うことも忘れはしない。尤も、こうなってしまえば拭っているのか汚しているのか怪しいものだ。ついでに言えば舐めるだけでは飽き足らず、柔らかい肉を目掛けて少しだけ強く歯を立ててもいた。ただの愛撫とするには前科がありすぎる凶器を急所に押し当てられて、けれどもこのなまえという女は酷くいい声で啼いてくれるのだから堪らない。今だって、痕を残さないぎりぎりの力加減で齧り付く度に、指でいっぱいの口元からは濁った嬌声が溢れてくるのだ。
 まさしく外も中もオレでいっぱいじゃないかと満足感に浸りかけたが、はたと唇を引き結ぶ。こんなものでは、まだ足りない。

「目、開けて。オレを見てて」

 快楽に身を預けるように瞑られる瞼の奥にはちゃんとビノールトという男が映っているのだろうか、と疑うわけでは決してない。少なくとも、意識を保ち言葉を交わし熱を伝え合う状況にあるなまえに対してはそんな懸念は必要ない。
 外側に触れて、口の中もいっぱいにして、熱く滾るモノを女の身体に突き立てる。それはかつては欲しいものを得るための"手段"だった。けれど"手段"を"手段"としないままでも、この女なら受け入れてくれるともう知っている。与え合い求め合う為に抱き合えることを、今の自分は知っている。
 けれど、まだ足りない。
 もっともっとと求めずにはいられない。甘ったるい声で名前を呼ばれて、両手いっぱいに抱きしめられて、すっかり潤んで溺れきった瞳を向けられて。そんなふうにどうしようもなく赦されている瞬間になら、いつもは言えないこの想いを口に出来るから。


「     」


 例えば、先ほどのように油断しきった顔で眠るなまえを前にして。例えば、微睡みを味わう身体を腕に閉じ込めながら。例えば、振り向きざまに名前を呼ばれた時。胸に広がる暖かくて擽ったくてどこか苦しい感情を伝えるには、きっとあんたが教えてくれたこの言葉が相応しい。
 まだまだ難しくて恐ろしくて、とてもあんたのようには使いこなせないけれど、それでも。



(2017.07.10)(タイトル:as far as I know)(寝ている相手にこそ口付けられない心理)(言われるだけじゃなくて言いたくなってきた頃)
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