■ はれ

「なあなまえちゃん、レポートで忙しいって言ったの誰だっけ」
「わたしですけどー…」
「忙しいのにこんなことしてていいの」
「そこはほら、この後のやる気に直結するなら結果オーライと言いますか」

 しょうがねぇなあと呆れながらも付き合おうとしてくれる春樹さんには感謝しかない。
 座り慣れたお膝の上にお尻を乗せれば、しっかりと受け止めてくれる。大きな手のひらで服ごと乳房を掬い上げるように包み込まれるのはもどかしくて、でもゾクゾクするほどにきもちがいい。
「もう遅いから飛ばしていくけど、いいな?」
「うー…善処します」
「クソ、露骨に不満そうな声出すなっての。仕事の後にわざわざ寄ってやっただけでも有り難く思えよ」
「そこはもちろん感謝していますとも」
 感謝感激雨あられですとも。密着している身体を無理やり捻って顔を見上げると、アルコールと煙草の臭いが鼻についた。外で食べてきたと聞いた時点で予想はしていたけれど、やっぱり今日も"付き合い"だったらしい。脱いだ上着は消臭スプレーをかけたけれどシャツまでは気が回らなかったと残念に思ったところで、今更立ち上がるのは当てつけがましいから諦める。
 そういえば、この部屋で会う春樹さんは休みの日なのにいつもいい匂いで、お髭も剃りたてで。つまりあれもこれも私に触るために準備してくれていたのでは?などと気付いてしまい、ただでさえいっぱいいっぱいの胸が限界だと悲鳴をあげた。
 ああ、このままだと破裂してしまいそう。
「ちゅーしてくださーい」
「駄目。飲んで来たって言ったろ」
「気にしないのに」
「俺が気にするから」
 でも、さっき手を洗うついでに口も濯いでいたでしょう。知ってるんだから。
「酒が入ってる男を挑発するなって教えた筈だけど」
 ひゃぁん。両手でぐにぐにと胸を揉みしだく動きはそのままに、長い人差し指を器用に使って先端を引っかくのはお仕置きだろうかご褒美だろうか。酔っていると先手を打つのならもっと暴走してくれていいのにな。たまらず跳ねる私の身体を広い胸板で支えながら、指先を器用に動かす春樹さんはどう見たって自制のできるいい大人だ。
「あの、あのね、首も……!」
「 風呂済んでるだろ。なら、 大人しくこれでいっとけって」
「やだ。あとでちゃんとシャワー浴びるから、舐めて、噛んで欲し……」
 臭いが移るだろうと気にしてくれるのは有難いけれど、こうしてくっついている時点でかなり手遅れなのだと気付いていない詰めの甘さが春樹さんらしい……なんて失礼なことをそっと思うだけは許してほしい。だって背中に触れているシャツも、春樹さんが何か言う度に揺れる髪も、臭くて臭くて堪らない。
 でも、汗と脂と整髪料の匂いに複数人分の煙草やお酒や食べ物が混ざったこの男臭さに嬉しくなる自分もいるのだから困ってしまう。恋人でもない相手の女性関係に一喜一憂する趣味はないつもりだけれど、他の女の臭いがするのはやっぱり嫌だ。
 いつもより熱い息が首筋にかかって、ぞくりぞくりと肩が震える。
「あーあ、なんでこんなドエムちゃんに育っちまったのかねぇ」
 私の抱える身勝手な独占欲になんてまるで気付かない春樹さんが、いつもより荒々しく歯を立てるのをうっとりと受け止める。痛くて、熱くて、きもちがいい。胸への刺激も相俟って、たまらず声を漏らせば首筋に吸い付いたまま春樹さんが笑った。それがまた、新しい刺激を連れてくる。
「ふうん、こういうのもいいんだ」
 伸びたお髭がちくちくと擦れる度に反応してしまう自分がわかりやすいという自覚はあるけれど、見逃さない春樹さんもさすがだ。ほら、やっぱり言うほど酔っていない。ぬるりと熱い舌先を固く尖らせて、肌に付けた歯型をほじくるように舐めながら、気付くか気付かないかの際を攻めるように少しずつ角度を変えてお髭を押し当ててくる。毎度のことながらこの手際の良さには驚かされるばかりだ。加えて、さりげなく胸から離した片手で下腹部をこねるように撫でられてしまえば、もう。未経験が服を着ているような私に太刀打ちできる筈もなく、ただただ翻弄されるだけになる。

 自分で触るのとは段違いの刺激に胸がいっぱいになって、お腹の中がきゅうっとなって、春樹さんの指に追い立てられるままに背中にぴんと力を入れて最後の坂を駆け上がって、飛ぶように落ちる。

 目の奥でちかちかと弾ける光を遣り過ごしながら倒れ込むと、お疲れさんと受け止めてくれた。いつもならここで春樹さんのいい匂いがするのだけれど、今日はちょっとだけ顔を顰めたくなるのが残念といえば残念だ。頬をすり寄せて甘えるのは次回のお楽しみにしておこう。とりあえず、跳ねる心臓が落ち着くまではこの温もりに包まれていたいなあと勝手に妥協点を探る私の頬に春樹さんの手が触れた。キスするぞの合図だろうか。でも、このタイミングでのキスってあんまり覚えがない。それに今日はしないって最初に言われたしなあ。目を瞑って違ってたら恥ずかしいしなあ。うーん、どうしたものやら。
「……目ぇ閉じろよ」
「え、やったー!」
 嬉々として応えたら「萎えるわ」と呟かれた気がするけれど、多分気のせいだろう。だってほら近づいてくる吐息を感じるし。
 ちゅ。
 いや、実際には音はしなかったけれど。でも文字で表すならまさにこんな感じの接触だった。唇と唇が軽く触れ合って、離れただけだった。角度を変えて繰り返されることもなく、舌で舐めるわけでもなく、唇を割って入り込んでくるでもない、軽い軽い一瞬の出来事だった。
 慌てて目を開いて身体を捻れば、眉間に皺を刻んだ春樹さんと目が合う。さっきより格段に不機嫌そうだけれど、それが本心からじゃないってのもなんとなくわかる。ということは、やっぱりさっきのあれはあれで全部だったのか。あんあん乱れていた時とは違う意味で顔が熱くなってくる。どうしよう。気持ちを盛り上げるためのキスでも、快感を分かち合うためのキスでもないキスだって……?
「……うっわ、これめちゃくちゃ恥ずかしいですね」
「そういうこと言うんなら今すぐ退け」
「あ、うそ。うそです! きもちよかった気がするけど正直よくわかんなかったんで、もう一回して欲しいです!」
「調子に乗んなっての」
 しがみついて強請ればあっさり引き剥がされて、そのままぽいっと横に投げられた。ずっと春樹さんのお膝に座っていたからソファの冷たさが身に染みる。というか、これはこれでひんやりしてきもちいいな。倒れ込んだまま動かずにいる私に突っ込むこともなく、春樹さんが立ち上がった。

「じゃあな。ちゃんと鍵かけろよ」
「はーい、ありがとうございました」

 革靴に踵を押し込む後ろ姿に向かって、深々と頭を下げる。そもそもこんなふうに平日の夜に構ってもらうこと自体が例外中の例外である。普段なら、だいたいこの辺だろうなという周期に目星がつくからいいのだけれど、まさかストレスでも"こう"なるとは思わなかった。けれど、自力での息抜きを試みるも全然満足できない状態も、そういう時に誰を頼ればいいのかも、今の私には覚えがありすぎたから。
「こんだけ根詰めといて単位落としたら笑えるよなぁ」
「ひどい、不吉なこと言わないでください」
「シャワー忘れんなよ」
「春樹さんも。ちゃんとスプレーしてから干して、それからお風呂ですよ」
「へいへい」
 何から何までいつも通りだ。少しの迷い感じさせないまま、がちゃりとドアノブが音を立てる。
「おやすみのちゅーはなしですか?」
「そういうのはまた今度な」
「なら、次はお酒を飲みながらにしましょうか」
「ばーか」
 ああ、そんな可愛い顔で振り向かないで欲しい。片眉を下げて困ったように笑う春樹さんは歳よりいくらか若く見えて、なんだかとても気安さが増すのだ。せっかくすっきりできたのに、またもやもやが復活してしまいそう。
 せめて、今すぐそのかさついた唇に口付けられたなら。



(2019.05.25)
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