■ うすぐもり

 手始めに唇に触れようとしたら見事なしかめ面になったくせに、いざ始めてみればあっさりとろけてしまったなまえは今では自分からねだってくる。キスは苦手だと言っていたのは誰だったかなと揶揄えば、こんなに違うなんて知らなかったんだもんと馬鹿正直に弁解するのだからこの女は本当に馬鹿だ。数日会わない程度で心変わりするような小便臭いガキとのおままごとと同列に扱うなと嫌味を言ってやろうか。なんて、傷付ける想像をしながらも甘やかしてしまうのは、まっすぐに求めてくる姿がそう悪いものではないからだ。

「それ好き、もっと、して」
「はいはい。ったく別にまだ何も特別なことはしてねえんだけどなぁ」

 行為の場所としてすっかりお馴染みになったソファに腰かければ、なまえはすぐさまもたれ掛かってくる。
 肩を抱いただけでうっとりと目を潤ませ、肌を撫でただけで鼻にかかった声をあげて、もっともっとと頬を摺り寄せてくる姿はさながら愛玩動物だ。
 普段の何倍も愚かしく振る舞うなまえに困惑したのは最初だけだった。要は、これはこの女にとってのスイッチなのだ。いくら甘え上手を自称しようが、まだ若く未熟な女にとってこの手の行為が未知の領域であることに変わりはない。まして、恋人でもない男とだ。オンとオフを切り替えるようにすっぱりと割り切ることは、なまえにとっての自衛の一環なのだろう。ここに至るまでの経緯といい、妙なところで難儀な女だ。
 故に、なまえからの呼び出し自体が既にこれ以上なくストレートな誘いではあるのだが、それを別にしてもなんというか"そういう気分"のなまえは本当にわかりやすい。ちょっとどうかと思うくらい、わかりやすい。目があっただけで今すぐ触られたくて仕方がないという顔をして、自分も触りたくて仕方がないと手を伸ばしてくる。そして、事実ほんの少し触れ合っただけでこの有様だ。
 よくもまあ今まで無事でいられたものだと感心すると同時に、あの日このソファで縋り付いてきたなまえを振り払わなくてよかったと安堵せずにはいられない。なまえが言うところの「将来、興信所に掘られて困ることはしたくないので」というよくわからない動機による妙な警戒心は幾らか功を奏していたとはいえ、あんな捨て身の行動に出るまで神経をやられた状態が長く保つとは思えなかった。
 そもそも自分の求めているものが単に更なる刺激で、根底にあるものがただの性欲だと自覚している娘など危なっかしくて野に放てやしない。愛だの恋だのを囁いて夢を見せてやる必要すらなく道を踏み外す機会を与えれば勝手に堕ちてくるのだから、その気になった人間からすればただのカモだ。

 尤も、なまえが求めているものを理解できないと言ったら嘘になる。
 結局のところ、自分でするより他人の肉体を使った方がわかりやすく気持ちいいというだけのことだ。それでいて、肉体以外では触れ合いたくないというだけだ。顧みるまでもなく、若い頃の自分が後腐れのない女たちに求めていた事と大した違いはない。なまえにとっての"後腐れのない"という基準が自分の知るものより遥かに厳しかっただけで、両者ともやっていることは自慰の延長だ。

「そこばっかり、やだー! ねえ、それ、やだ、やだってば!」
「へーえ。こっちからすりゃヤダヤダ言いながら押し付けてるのは誰だよっつー話なんだけど。なあなまえちゃん、そこンとこちゃんと言ってみよっか?」

 幾分意識してそれっぽい物言いをしてやれば嬉しそうな反応が返ってくるのもいつものことだ。例えば今だったら、頬を染めて目を伏せて、躊躇するように視線を彷徨わせて、けれど結局縋り付いて彼女は強請る。陰核ばかり触れるのではなく、ドロドロになっているその場所こそを指で満たして欲しいと。
 繰り返すが、こういう事に関してなまえは大変にわかりやすい。同世代ではなくあえて歳の離れたガサツな男を選ぶあたりに性的嗜好が透けて見えるのは仕方がないとしても、こちらが律儀に付き合ってやる義理はないはずなのだが。毎回毎回こうも喜ばれると甘やかすことへの抵抗感が麻痺していく。
 下着を寄せて滴る蜜を掻き分けて、乞われるままに押し入れて、そこから先もなまえの望みどおりだ。二本の指でじっくりと内部を圧迫し、絡みついてくる膣壁に身を任しつつ時折少しだけ角度を変えて新しい刺激を与えてやる。決して乱暴にはせず、無理に動かすこともしない。こんなことに時間を費やすなど、"準備"としてなら絶対にしてやらないことだ。
 春樹さん。春樹さん。うわ言のように繰り返される名を心地よく感じながら、ゆっくりと時間をかけてやわらかな肉体に快楽を馴染ませる。
 そうだ。これは前戯ではなくあくまで"自慰"だ。今はこうしてただ能天気に喘ぐだけのなまえも、いつかは気付くだろう。自分がどれほどの特別扱いを受けていたのか。自分がどれほどマシな男を引き当てていたのか。そして、この過去が消したくても消せない傷痕になっていればいいと期待せずにはいられない。どこの馬の骨とも知れない男の下手くそな前戯の最中に、俺の指による奉仕を思い出すなまえというのはなかなか楽しい空想だ。



  ***


 今日も今日とて派手に絶頂を迎えたなまえの痙攣が収まったのを確かめてからゆっくりと指を引き抜けば、べったべたのぬるぬるだった。まあ、これもいつものことである。そして当然ながら、指でこれなのだから下着はもっと酷い有様だ。最初に脱げばいいのにと思わなくもないが、何回汚しても懲りもせずに毎回凝った下着を履いてくるあたりなまえなりのこだわりがあるのだろう。つくづく変な男に引っかからないことを願ってしまう。

「……このままゆっくりしたいってのと冷たいパンツは嫌っていう気持ちが同居してるのです」
「知るかよ。すぐそこなんだからさっさと履き替えて来いって」
「むー」

 しぶしぶと立ち上がったなまえはふらつきながらも脱衣所を目指し歩き始める。やや経ってから、風呂場のドアが開いて閉じる音が響く。手洗い派のなまえらしいマメさに苦笑しているとさっきと同じ足取りで戻ってきた彼女がパンツ履いて来ると言い残し自室へと消えた。つまり今のなまえは履いていないという事だが、言及したところでどうせろくな返事はないだろうと予想がつく。であれば、気付かなかったことにして入れ替わりで水場へと向かう方が無難だ。
 勝手知ったる他人の家だと勢いよく水を出してぬるつきを洗い流す。ついでに身体中に染み付いたなまえの余韻も流すつもりで顔を洗い、口を濯いだ。ざあざあと流れる水をすぐに止めなかったのはささやかな嫌がらせであり気晴らしである。ぐるぐると渦を描いて吸い込まれていく水流をただぼうっと眺めていると、徐々に頭が冷えていく。ああ、幾らか息がしやすくなった。


「おいなまえ──ってなんだよ寝てんのか」
 つまらないから、ソファにもたれ掛かって動かないなまえの鼻をちょんとつまむ。ぴくりと反応があっただけで覚醒には至らない。
「すっきりした顔しやがって」
 少し離れて腰掛けたつもりが、開いた脚がなまえに当たった。布越しに伝わる体温は紛れもない他者のもので、例えば満員電車や定食屋の座席でなら不快極まりない類の接触だ。対象が見知ったなまえという女だとしても、今の自分に馴染まないことに変わりはない。身内に対するような格別な愛おしさはない。ただ、わざわざ口にする程の不快感もない。なんだか宙ぶらりんな感じが気持ち悪いだけで、と少しだけ考えて、いっそ大胆に肩を引き寄せてみることにした。くてん。弛緩した肉体はされるがままに倒れてくる。無防備な温もりに苛立ちを覚えかけ、いやここはなまえの家だから仕方がないだろうさすがに理不尽だろうと言い聞かせる。熱と重みを得ながら、しかしまだ足りないと思ってしまうのもなんだか嫌な感じだ。
 なまえが眠っているせいで余計なことばかりが頭に浮かぶ。この女さえ起きていれば、話はもっと簡単だというのに。なまえを喜ばせる為になまえが好きなキスをしてやる、ただそれだけのことが今はこんなにも難しい。



(2019.05.12)
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