■ 1月吉日 上

「どうぞ。暖房効くまでちょっと待っててね」
「はーいお邪魔しまーす」

 久しぶりにうちを訪れたなまえさんは、勢いよく部屋に入るとそのまま温風が一番当たる場所で丸くなった。よほど外の寒さが堪えたようで、コートの前も閉めたまま手のひらに息を吹きかけている。こうしていると年上だとはとても思えない。
「あー寒かった。なるほど、満善さんが言ったのってこういう意味ね。そりゃ、幸せ絶好調の集まりから一転、孤独に耐えて夜道を歩いた先に待っているのがこんなに寒い部屋だとか……考えただけで泣きたくなるわ。落差で凍るわ」
「でしょ。なまえさんに会えてラッキーって言ったの信じてくれた?」
 うんうんと同意を示すなまえさんを気分良く眺めながら、素早くネクタイを緩める。せっかく帰ってきたのだから堅苦しい服などさっさと脱げばいい。わかっていながらそれをしないのは、彼女の反応があまりに面白かったからだ。駅でばったり会った時の硬直具合も、そういうのも似合うねと笑った顔も、隣を歩きながらチラチラと向けられる好奇心のかたまりのような眼差しも、このまま着替えてしまうのが惜しいと思うには十分だった。

 バウムクーヘンの箱を中央で広げて、各自が食べたいだけ皿に移して食べる。そんなムードの欠片もない行為すらも楽しい演出だと喜ぶなまえさんに、毎度のことながら才能だなと感心する。熱い紅茶を一口飲んだ彼女は、もう片方の手に缶ビールを受け取ってすごい組み合わせだねと歓声をあげた。
 実のところ、このバウムクーヘンは少々扱いに困るものになる筈だった。なにせ、甘いものが大して好きでない人間がひとりで食べきるには多く、かといってバイトちゃんたちに振る舞うには足りない。優山なら喜んで完食するだろうが、あれだけ好き放題に買い漁り食べ歩く男にわざわざくれてやるのも甲斐がない。その点、これはとても有意義だ。フォークを手にご機嫌ななまえさんを見ているだけでこちらの頬も緩んでくる。
 ただし、今夜の偶然の全部が全部素晴らしいかというとそうでもない。一点だけ、どうしても確かめたいことが出来ていた。
「……で? なんでまたその指輪してるの」
「あーこれか。いやあ、特にどうってわけでもないんだけれど、やっぱり付けてる方が気が楽なんだよね。会社とか 人付き合いとかさ。何て言えばいいんだろう、今更ほいっと婚活市場に戻されても困るよねって感じで」
「嘘ばっかり。さっきまで付けてなかったくせに」
 取って付けたような早口とか、途端に右往左往する視線とか。取り繕おうとする程ぼろを出すなまえさんは嘘のセンスが絶望的だ。本人としても自覚はあるようで、そのうち諦めて「それにしても、このバウムクーヘン美味しいね」と話題を逸らしにかかるのだから、いっそ気の毒になってくる。
「こないだ優山の誘いを断ったのもそういうアレコレ?」
「いやあれは本当に都合がつかなくて……」
「じゃあその前のは。クリスマスも全然顔出さなかったし」
 みるみる元気がなくなるから、どこを突いたらいいのかすぐにわかる。
「なまえさんさ、フリーだとあいつに会いにくいとか変なこと思ってるんでしょ」
 そこでなまえさんはあーあと溜息をひとつ。すっかり観念した顔で、残り少なくなっていた洋菓子を切り刻みながらぽつりぽつりと話し始めた。
「実際どんな顔で会えるっていうのさ。大義名分がなくなっちゃったら結局ただの蛇女だよ?」
 蛇とは優山のお気に入りのフレーズだ。女は蛇だよ。恐ろしい。油断できない。気が休まらない。好き勝手に遊んで傷つけていくんだ。女ってのはそんな存在だよ。整った顔と家柄と思春期の純情が絡み合った彼にとって、彼氏一筋の姿勢を崩さないなまえという女性は安心できる相手だった。だからこそ、あれほど懐いた。それは確かなことだけれど、今でも最重要事項かとなると首を傾げずにはいられない。
「まあ、それでもなまえさんはなまえさんだし。優山相手にどうこうって望まないなら問題無いんじゃない?」
「でもせっかく信用してくれたあの子に幻滅されたくないし、ね」
 それに、だからって調子のいい時だけ指輪に頼って無害面するとか、実際やってることが蛇女でしかないでしょう? なまえさんが不器用に笑って缶ビールを呷るから、良き相談相手のつもりで聞いていた自分はどんな顔をしたらいいのかわからなくなってしまう。
 なぜ俺は、このひとが諦めている対象を優山だけだと思ったのだろう。三人セットで出会ったなら関係を断つのも三人セットで。そうなる可能性は十分あったのに。
 これで軽蔑してくれと言わんばかりに。ここで見捨ててくれと自嘲するように。歪んだ唇から吐き出される声は酔っ払いの冗談や愚痴と済ますにはあまりにも自棄っぱちで、聞いていて息が苦しくなる。でも。見放されたがるなまえさんには悪いけれど、期待通りに立ち回ってはあげられない。
 そもそもこの程度で切れると思っている認識自体が間違いだろうと、どす黒い感情が胸に広がる。買い被られているのか、或いは、見くびられているのか。どちらにせよ、どうしようもなく勘違いされていることだけは確実だ。自分は、この程度の甘ったれた感傷に付き合って、はいそうですかさようならと見送るような優しさは持ち合わせていない。見損なったと撥ね除けるほど潔癖なガキでもない。
 一番気に入らないのは。
「なんだ、男に懲りたってわけじゃなかったんだ」
「……いやいや、待って。なんか薄々その辺が君たちに誤解されてる気はしてたんだけど、わたし別に男性不信とかじゃないからね?」
 ひらひらと、どこまでも軽薄に揺れる指の付根できらきらとアレが主張する。出会った時からそこにあった印は、今もまだその場所で輝いている。破局を知らせたあの夜から暫く見なかったのが嘘のように、当たり前の顔をして細い指に絡みついている。
 けれども、それすらも一時だけだとこのひとは言う。そもそも、忙しいとぼやく女性がたまの休日に繰り出した訳は、相手は、誰だったのだろう。そこで外していた指輪を、なぜ今は身に付けているのだろう。
 目の奥がちかちかするのを誤魔化すように残りのビールを流し込む。大して美味くもない缶が空になるのと、彼女がごちそうさまと手を合わせたのは同時だった。
「さて、そろそろ帰ろうかなあ」
 もういい時間だしね、なんて言いながら返事も待たずに用意を始める。台所へと皿を運び、そのまま荷物とコートを手に取る動きには無駄がない。
 今までだったら、うだうだと渋るなまえさんに向かってそろそろ帰ったらどうよと促すのは自分だったのに。なんてわかりやすい拒絶だろう。それでいて、玄関横の写真にまで「お邪魔しました」と声を掛ける律儀なところはいつも通りなのだから。
 アンバランスな後ろ姿にどうしようもなく惹きつけられて、焚き付けられる。最後の歯止めを外すのは想像よりずっと簡単なことだった。

「だからなまえさんは詰めが甘いんだって」

 ほら、今だって。何を言われたのかまるでわからないって顔をして振り返っちゃってさ。
 優山たちとの遣り取りが蘇る。あれはいつだったか。なまえさんはいたかもしれないし、いなかったかもしれない。いや、一度だったとは限らない。そうだ、幾度か話題にした気がする。「苗字なまえというひとは詰めが甘い」最初は確か安藤が言い始めて。優山もなにやら同意するようになって。打席での振る舞いを見るうちに、俺だって頷くようになった。つまり、このひとが肝心なところで惜しいことなんてずっと前から知っている。

「蛇って言うならちゃんと蛇らしくしなって。どうせなら最後に俺相手に噛み付いてみるくらい、はっちゃけてもいいんじゃない?」

 惰性で飲んだアルコールのせいだろうか。妙な高揚感に背を押され、やけくそとしか思えない追い打ちをかける。
 靴べらを掴む直前で固まった指先を捕らえて引けば、なまえさんはいとも簡単にフローリングに尻をついた。派手に飛んだ靴がドアに当たってがつんと跳ね返る。
 あーあ、大丈夫ですかなまえさん。
 高さを合わせて、瞬きを忘れてるんじゃないかってくらいに見開かれたままの目を覗き込んでもう一度名前を呼ぶ。反応はない。
 白状すると、この流れは予想外だった。まさかここまで派手にすっ転ぶなんて……となまえさんのせいに出来るわけもなく、しくじったのは完璧に俺だ。声をかけ続けるとようやく反応が表れたものの、謝罪に対して反射で「大丈夫。大丈夫」と繰り返すのだから弱ってしまう。お願いだから、ちゃんとこっちを向いて怒ってよ。
 相手がなまえさんでなければ、ここで強引に攻め落としていただろう。
 けれど、そうやって勢い任せに奪う行為がこのひとに相応しいとは到底思えないから、必死で挽回を試みる。いい歳して若さに胡座をかくようなやり方しか出来ないようなら、それこそガキ扱いに文句も言えない。
 怯えさせないようにと気を引き締めて、なまえさんの呼吸が整うのを静かに待つ。振り払われないのをいいことに掴んだままだった手を少し緩めて、親指で柔らかな手のひらを撫でて。そしてもう一度、出来る限り優しく聞こえるように。

「なまえさん」
「は、はい」
「俺にこうして手を握られるの、嫌ですか?」

 ぱちぱちと瞬いたなまえさんがゆっくりと視線を移す。手元を確かめ、それでもまだ信じられないものを見ているという表情のまま、弱々しいながらも首を振った。気の毒なまでに律儀な振る舞いだ。嘘は……含まれてはいないように見える。
「よかった。じゃあちょっと下を見てくるから待ってて」
「へ……?」
「ほら、俺って店長だから。一応今日は締めまで任せてるけど、やっぱり最後は見回らなきゃでしょ」
 じゃあわたしも帰るからと立ち上がりかけた手を再び強く引いて、硬い床に戻ってもらう。代わりに自分は素早く靴を履いて、扉に手をかけ彼女を見つめた。ふうっと大きく息を吸い込んで、鍵を隠した拳が震えていることを気取られない様に、出来るだけ何でもない感じに聞こえたらいいなと思いながら、サングラス越しに願いをかける。
「俺としてはそういうつもりなんで。だから、出来れば、待っててくれると嬉しいな」
 心臓が煩くて自分の声がよくわからない。あの、とか。え、とか。必死に言葉を探すなまえさんの声はもっと聞こえないけれど、こんな状況でもきちんと理解しようとしてくれる真面目さがくすぐったくて背筋がぞくぞくする。手の震えがいよいよ抑えられなくなってきた。脚まで震え始めたらどうしよう。
 取り繕うための余裕なんてとっくに底をついていた。だから、いつのまにか自分の背筋がぴんと伸びていたことになんて気付ける筈もない。

「……いきなりで悪いとは思うんスけど、俺のこと、考えてくれませんか」

 ここぞとばかりの直球は、するりと手から零れて明後日の方向に飛んで行った。
 なまえさんの目が再び大きく見開かれる。でも、自分も似た様な表情に、もしくはより酷い顔になっている筈だ。
 だって、まさか、こんなひっくり返った声が出るなんて。目指した姿とは比較にならない深刻さと青臭さが滲んだことに、一番驚いているのは自分自身だった。可能ならば数秒前からやり直したい。
 叫び出したい衝動を抑えてドアノブに力を込める。

 飛びすさった先の廊下で崩れ落ちそうになりながら、感覚のない膝を叩いた。一心不乱にこの場から離れようとする自分は、普段の姿をどこに忘れてきたのだろう。
 冬の夜風もまるで気にならないなんて。
 こんなんじゃ優山を笑えない。



(2019.11.02)
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