■ どうしようもなく手遅れな 上

「ねえねえ笙悟先輩、このあとちょっといいですか」
「……嫌だ」
「そうですか。残念です」


 極度に片付いているでもなく散らかっているわけでもない部屋はオカルトからも少女趣味からも遠く、かといって殺風景というわけでもない。知識にある”女子の部屋”からかけ離れた現実感に居た堪れなくなり目を伏せていたところに「ジュースでいいですか」とコップが置かれた。
 部室でのやりとりが遠い過去のように脳裏を過ぎる。
 確かに断ったはずの彼女がなぜ今も目の前に居るのか、ということは不思議でも何でもない。
 ただでさえ、女だというだけで苦手なのに加えて相手はあの苗字なまえだ。それでも琵琶坂あたりなら笑ってあしらうのだろうが、自分程度では口で勝てるはずもなく。なんやかんやと言い包められて、気付けば同じ道を並んで歩き、促されるままに見慣れない家の扉をくぐり、勧められるままラグに腰を下ろしてしまっただけのことだ。言ってて情けなくなるが。

「かんぱーい、千佳ちゃんの件お疲れ様でしたー!」
「あ、ああ。思えばお前にもいろいろ世話になったな」
「まあ実際はほとんど部長に引っ付いてただけでしたけどね」
「そんなことねぇよ。メールの返し方とかすげぇ助かったわ」

 返す必要があるのかわからないような文面に弱り果ててアドバイスを求めたことは一度や二度ではない。バイト先に何度も来られたのだって、つい邪険にしたものの本当は心強かった。へとへとになって店を出たところに差し入れだとクレープを渡された時など本気で女神かと思った。なんだかんだマジで助けられてるなと気付いてみれば日頃の苦手感も随分と薄れる。
 むしろ、俺はなぜこの後輩をあれほど苦手に感じていたのか不思議なくらいだとすら考えながら、手に持ったままのグラスに口をつけた。予想していた赤いラベルの炭酸ジュースにしては妙な味が広がり、続いてそれ以上に独特な刺激に喉を灼かれる。
「ちょっと待てなまえ、お前、これ」
「先輩がアリアにねだってたのとはちょっと違う系統ですけど、お気に召したら幸いです」
 ビールとタバコを出せないかと頼んでこっ酷く叱られたのはつい先日のことだ。ダメに決まってるでしょと呆れた顔をしたアリアと現状が結び付かず目を白黒させると、なまえが吹き出した。
「料理用のワインですよ、笙悟先輩。”お母さん”に料理へのこだわりを話したら次の日にはキッチンにあったんです」
 それこうしてジュースで割ったらお手軽カクテルの出来上がりですとにっこり笑う後輩に罪悪感は見られない。制服姿からは想像も付かない手慣れた仕業に、開いた口が塞がらない。
 恐る恐る再び口を付けてみれば、なるほど。これは確かに酒だ。ワインの楽しみ方などまるでわからない自分でもカクテル缶なら覚えがある。懐かしい感覚に続いて身体がじんわりと熱くなり、心に重くかかっていた靄が晴れていく。数年ぶりの飲酒という感慨も加わってか、見事なまでに簡単に、頭の中が能天気な色に塗り替わるのがわかった。

「ふふ、笙悟先輩ったら。そんなに喜んでもらえると私の方も甲斐があります」
「ありがとな。いやあ、マジでお前っていいやつだったんだなあ」

 すっかり緩んだ姿勢でそう言えば、なまえもやっと気付いたんですかと軽口で返してくる。こういうじゃれあいは悪くない。実際、皆もいる部室でちょっかいをかけられるのはそう悪い気分でもないのだ。俺がもし本当に、ちょっとばかり生意気で可愛い後輩に懐かれるのを本気で嫌と思うような男だったなら、そもそも最初にもっと頑なに突っぱねていた。間違っても、明るく元気に向けられる数々のアプローチを「からかいやがって」と躱したり、決して踏み込まれない距離に甘えて「馬鹿が」と嘆息してみせたりはしなかっただろう。
 つくづく、誂えたように都合の良い後輩だ。
 本当に、どうして苦手だなんて思ったんだ?

「じゃあ笙悟先輩、この波に乗って私にヤられちゃいましょうか」
「……そうだ、こういうところだ!」
「やだなあ、大声出しても誰も来ませんよー」

 膝立ちのまま距離を詰めてきたなまえに逃げ遅れた手を掴まれる。小さいとか柔らかいとかより先にひんやりとした体温を心地よいと感じてしまい、そんな自分にぎょっとなる。尤も、予想外だったのはなまえも同じだったようで、指先で改めて皮膚を擦ると笑みを深くした。いつもの弾けるような、日向の花のような、明るくて無邪気な後輩のそれとは違う表情から目が離せない。何かを言おうとした喉がひゅうと乾いた音を立てる。

「凄く熱いですね」
「な、な、なあ、冗談だよな?」
「やだなあ、先輩ったら。部屋に誘われて、ふたりきりで、お酒も飲んで、それでもまだ冗談で済むなら、そんなのはメビウスじゃなくてただの現実では?」

 もう片方の腕も身体へと伸びてくる。柔らかい拘束を振りほどくのはとても簡単なことだ。年齢も体格も確実にこちらのが上なのだから。ただ、場数だけが圧倒的に足りていないだけで。
 あぐらをかいた脚にそっと体重をかけられる。咄嗟に腰を引けば、壁にぶつかってどんと音がした。逃げ場を絶たれてしまっては、もたれかかってきた身体を受け止めるしかできない。その上、せめてもと一気に縮まった距離に怯えて目を閉じたのは完全な失敗だった。今まで以上の強さでなまえの匂いを拾ってしまう。

「さたけ……しょうごせんぱい……」

 甘ったるい声が脳を揺らす。ふと、一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、聞き覚えがあるような気がした。だがそんな筈はない。なぜなら、苗字なまえは一年生なのだから。彼女が「先輩」と自分を呼ぶように、自分にとっての彼女は「後輩」だ。こんな声で呼ばれる瞬間などあった筈がない。けれど、そんな当たり前のことが何故こんなに引っかかるのだろうか。
 半ば現実逃避のように思考しているうちにもなまえの侵略は進んでいる。ブレザーのボタンを容易く外した指先が、今度は心臓の上でくるりと弧を描いた。くすぐったくて、もどかしい。どくどくと跳ね回る内臓をとらえるかのように置かれた手のひらが、次はいつ動き始めるかと期待してしまう。
 ひとつ、またひとつと外される枷に気付きたくなくて首を反らせると、剥き出しになった首筋に熱い息が吹きかけられた。ぞくりと背をかけたものが嫌悪であれば、どれだけ救われただろう。女が苦手で、女にも好かれる筈のない、幸せになる資格のない、何の価値もない佐竹笙悟という男だと逃げることができたならば、どれだけ楽だっただろう。そもそも土俵に上がるまでもない存在だからと。千佳という少女からの好意を信じようともしなかった頃の自分であれば、この後に及んで自分自身を哀れむことでなまえを遮断できたのに。

「なまえ、やめ、ろ」
「大丈夫ですよ。先輩はただ黙って横になっててくれたらいいので」
「なあ、待ってくれよ。聞いてくれよ。俺はお前にも、話さなきゃいけねぇんだ」

 服越しとはいえぴったりと押し当てられた胸の感触が生々しい。本当に、湧き上がるものが嫌悪感であればどれだけよかっただろう。つくづくタイミングと自分の弱さを恨まずにはいられない。いくら外側を取り繕ってみたところで、中身は引きこもり三十路男なのだ。乗り気じゃないだけで、スケベ心が皆無かと問われると答えはご覧の通りである。
 けれど、なまえが勘違いしている以上このままでいい筈がない。正直なところ、自分自身のためだけならとっくに折れていた。ただただ、なまえのためでもあるという一心で踏ん張れているようなものだ。

「あちゃー……泣くほどでした?」

 言われてようやく、頬を伝うものを自覚するなんて間抜けもいいところだ。さすがに興をそがれたらしいなまえの体温が離れていくのを追いかけて、俺は腕を動かした。けれど、すがるなんて出来るわけもない指先はなまえの身体にたどり着く前に勢いを失う。自分で促したくせに、名残惜しいと思ってしまうのか。
 すっかり軽くなってしまった膝をぽんぽんと叩きながら目元を擦る。ごまかすように啜り上げた鼻先にぴんと折られたハンカチが突きつけられた。拭けという意味だろうか。涙はともかく鼻水は抵抗があるのだが。
「どうせ明日になったら綺麗になってるんですから」
 なるほど、それもそうか。メビウスの利便性を再確認していると不思議な呟きが耳に入った。「懐かしいな」とはどういう意味だろうか。漠然とした何かではなく明確な何かを示す口調が引っかかったものの、まさか自分と彼女のことを言っているわけはないので聞こえなかったふりをする。自分自身の面倒すらまともにみれない俺が、人様の事情に簡単に踏み入れるわけがないからな。
 ふと考える。あの部長なら、ただ避けるだけの俺とは違い彼女の傷に優しく触れにいくのだろうか。そうであれば、いいと思う。多分、それがいい。部長がなんとかしてくれるなら、それが、一番。だってほら、俺がなにも言わなくても、こいつはこうして俺に笑いかけてくれるんだから。
「さて、笙悟先輩。おはなしってなんですか」
 ほら、な。


 ベッドに腰掛ける後輩の足元で、叱られた犬のように座り項垂れた俺に先輩の威厳なんてものはすっかりなくなっている。
 現実の俺のこと。それはつまり、歳のことだったり、此処に閉じ込められるまでのことだったり。そういう、本当の俺という男がどれだけろくでもない人間なのかをぽつりぽつりと話していく。ここ数日で何度も口に出したことだから、わりと順序よく話せたと思う。ただ、途中でなまえの顔を見てしまったら、そこに浮かぶ軽蔑を拾ってしまったら、その地点でダメになってしまう予感はあったから、なにがなんでもなまえの顔だけは見ないように下を向いていた。

 そして、話し終えてからも顔を見れずにいる。
 そろそろなんか言ってくれねぇかな、なんてどこまでも他力本願な俺を甘やかすようになまえが口を開いた。
「ごめんなさい、ちょっとびっくりして何言おうか迷っちゃってて」
「……ああ。無理もねぇさ」
 俺だって、帰宅部の連中の前で見栄を張っている自覚はある。頼りになる先輩の皮を剥いだらこんな情けのない三十路男が出て来たんだ。彼女の落胆も当然だ。零れ落ちた吐息にすら身を震わせる俺に、追い討ちのようになまえの澄んだ声が降り注ぐ。
「まさかそんなちゃんとした内容だなんて。あんなふうにお話があるなんて言うから、てっきりその場しのぎの無我夢中だとばかり……」
「ん?」
「先輩ってば、相変わらず変なところで真面目ですねえ」
「はぁ?」
 なにかがおかしい。たまらず視線を上げると、腰掛けたままのなまえが組んでいた脚をゆっくりと解いたところだった。なめらかに動くなだらかな場所を反射的に目で追ってしまい慌てて首を振る。ふくらはぎのラインのことも、ぐるりと動いたくるぶしのことも今は気にしていられない。

「ほんっとうに、笙悟先輩はかわいいなあ」

 そこにあったのは、蕩けるという表現がぴったりな表情だった。あっちに居た頃に本だとか映像だとかのフィクションで何度も見たことがある類の、けれども健全な楽園であるメビウスではお目にかかれないような類の光景に目が逸せなくなる。知らず、喉がごくりと音を立てていた。さっきまでの灼けるような感覚が戻ってくるのがわかる。

「か、かわいいって、なんだよ。そういうのは鍵介ならまだしも、お、俺なんて。ああ、そっか、お前も俺をからかって」
「ええもちろん。格好つけてる笙悟先輩は格好いいですよ。でもって、格好つけてない時の笙悟先輩はとてもかわいいです」

 誤魔化すために吐き出した言葉はたちまちなまえに絡めとられてしまう。確かこの手の構図を蛇と蛙でなにかしら言った気がするが、実感としては抵抗する蜘蛛とその糸で綿菓子もどきを作ろうとする子どもくらいに絶望的な差がある。今までだって口で勝てた試しはないが、それにしたって今日のこれは次元が違うだろう。
ねえ、と。なまえが再びあの声で問いかけてくる。ゆるやかに伸びて来た手が身体の内側をも撫でるように頬を滑り首を降りていく。
「少なくとも、今の私はこれで笙悟先輩もこの姿形なんですから。現実ではどうだとか、別にいいじゃないですか」
「でも、よ」
「じゃあ今日だけ、ううん今だけでいいので。そう、今だけ、私のお願いを叶えてください」

 さっきみたいに片腕を掴まれているわけでもなく、身体を捕らえられているわけでもない。少しでも下がればその手から逃れられるというのに、まるで動けなかった。そのくせ、制服の襟元を弄んでいた指先にくいと力が込められてしまえば、この身体は簡単に動き始めるのだ。本来、察しがいいとは決して言えない俺にしては珍しいことに、本当に、珍しいことに。なまえの言葉を待つまでもなく、リードを引かれた犬のように従っていた。

「ねえ先輩。かわいいかわいい先輩の姿、いっぱい見せてくださいね」



(2020.01.05)
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