■ 唯一無二という幻想

 ぽかぽかという表現がぴったりな日差しを受けて気持ちよく伏しているところに扉の開閉音が響いた。時計を確かめるまでもなく今は午前の授業時間ではあるのだけれど、幸か不幸かこの学校はその辺が実に緩くできている。出席しても出席しなくてもそれなりに都合よく処理されて毎日が続いていくのだ。もっとも、ほんの僅かな後ろめたさでも持っていれば慌てて頭を上げたのだろうが。

「あれ、苗字さんだ。こんな時間から居るなんて珍しい」

 独り言というには幾分か大きい声にも反応せずにいたら、すぐ隣から鞄を置く衝撃が伝わってきた。それどころか真横の椅子が鈍い音を立て始めたので、さすがに観念して息を吸い込む。相手が誰かはとっくにわかっている。
「……おはよ、鍵介」
「おはようっていう時間でもなくない? ああ、でもそっか、寝起きだもんね」
「てかさ、なんでそこに座るの。女の子が寝てるんだよ。ここはひとつ見なかったことにして立ち去るか、百歩譲って一番遠い席で息を潜めて見守ろうかなあって状況じゃない?」
「えー、でも女の子っていうか苗字さんだし」
 ね?と首を傾げる姿があざとい。そういう仕草は部長や琴乃先輩にしていろよと悪態をつけば、まるで堪えていない様子ではははと笑いやがる。
「そういうこと言うと、彩声先輩に泣きついてやるんだから」
「え、ごめん。それは本当にやめて」 
 真面目なトーンに吹き出しかけたけど、想像してみたらかなり洒落にならない事態だったので素直に謝ることにした。ごめん、私も言いすぎた。
「……やっぱ離れた方がいい?」
「いいよもう、なんか今更だし。鍵介こそなんか用があって来たんじゃないの?」

 前述のとおり、授業は強制ではない。でも、なんとなく帰宅部の活動時間は放課後ということになっている。しかし毎日欠かさず活動しているかというとそうでもなく、曜日が決まっているわけでもない。ちなみに私としては、この世界に反旗を翻すという意思を見せるだけでなく楽士を負かすという実績を重ねながらも、なんだかんだと平和な毎日を過ごせるのはこの緩さが原因ではないかと常々思っている。慌てて叩き潰す必要のない非力な集団という侮り。これが狙ってのものなら大したものだが、生憎このゆるい共同体にそんな策士や指揮官はいないのである。うーん、我ながら凄いところに身を置いている。
 とまあ、そんな話は置いておいて、つまり私が鍵介に言ったのはこんな午前中にわざわざ来るなんてそれなりの目的があったんでしょう、ということだった。私がそうであったように、一人になる場所を求めてやってきたのなら先客にさぞがっかりしただろう。

「あー……僕は、その、次の時間が体育だったから。ほら、着替えとか面倒だなって。だから正直こうして苗字さんが話し相手になってくれてラッキーってやつ」
「いや、話し相手って言うけどさ、寝てた私を起こしたようなもんだよね」
「黙って寝顔を眺めるより紳士的じゃない?」
「そうかな」
「そうだよ」
「そうかも」

 なるほど、不毛な会話に花を咲かせるのはなかなかに楽しい、かもしれない。新店舗に新商品、クラスのこと、SNSで見聞きした情報、そんな楽士とも帰宅部とも関係のない話題をふたりとも好き勝手に取り留めもなく展開していく。それはたとえば、花壇の水やりの際に見える一瞬の虹の様にささやかで、後に残らない、本質を突きもしないものだった。側から見たら、多分とっても薄っぺらくて、浅いこと。そんなコミュニケーションは日頃から飽きる程しているというのに、実際につい先ほどもクラスメイト相手にしてきたばかりなのに、どうしてこの瞬間に限ってこんなに気分がいいのだろう。
 生じた疑問は、けれども視線を戻せばたちまち綺麗に解けてしまった。

「ああそっか、鍵介だからだ」

 一言二言紡いでは視線を合わせて、身振り手振りを確かめては視線を合わせて。どうでもいい一瞬一瞬にしっかりとした手応えがあるのは、一つ一つを積み重ねる度にこうしてレンズの奥の瞳がきらきらと輝いて応えてくれるから。だから、楽しくならないわけがないのだ。
 気づいたばかりの新発見を意気揚々と告げれば、応えるのは清々しいまでに調子のいい声……ではなかった。絶え間なく続いていたラリーを途切れさせた彼は、口を開けたまま椅子ごとじりじりと遠ざかっていく。
「……鍵介?」
「……ば、ばっかじゃないの! なんでそういうこと言っちゃうかなあ!」
「ごめん」
「信じられない……苗字さんなのになんでそんな可愛いこと……うっかり好きになっちゃったらどうすんのさ!」
「ごめん。え、待って、それって私は悪くないよね? ってか苗字さんなのにって随分な言い草じゃない?」
 反射的に謝ったものの、こうして思考が追いついてしまうと首を傾げずにはいられない。そういえば、実のところ鍵介の態度には常々思うところもありましてね。
「この流れだから言うけど、同じ一年なのに美笛ちゃん鈴奈ちゃん苗字さんって並びはおかしいと思ってたし、そもそもなんか全体的に私に対しては雑だなーってのはずっと気になってたぞ」
「はぁ!? そんなこと言われったって苗字さんはジャンルが違うでしょ。まさか自覚がないとか言わないよね!」
「ちょっと待て。全力で安全牌扱いってさすがに怒っていいかな」

 正直なところ、何を思われようが勝手にすればいいと見逃すくらいの度量はある。でも、せめてその手の評価は本人には隠しておくのが礼儀じゃないかなとも思うのだ。
 立ち上がった私と椅子から離れるタイミングを逸してしまった鍵介とでは行動範囲に大きな差があるから、すっかり混乱している鍵介に狙いを定めたまま緩やかに歩みを進めれば、ただそれだけで簡単に壁際に追い詰める形に仕上がった。
 こうしている間も達者な唇は絶えず刺々しい言葉を紡いでいるけれど、真っ赤な顔で睨まれても全然恐ろしくない。それどころか、後ろには壁、前には私という状況で、その間のほんのわずかな空間いっぱいに身を縮めた鍵介がきゃんきゃん吠える様子はなかなかに胸に刺さるものがある。
「あー……ねえ鍵介、せっかくだからそのまま『なまえちゃんのいじわる』とか言ってみない?」
「……この状況で性癖展開するって自由すぎでしょ!」
 “この状況”でも打てばしっかり響いてくれるのだから本当に付き合いがいい。信じられないと叫ぶ声を聞き流してもいいのだけれど、さてどうしたものかな。


 どれくらい経っただろう。時間としては大したものではないけれど、ずっと喋り続けていたのでそろそろ喉が渇いてきた。こんな身体でも空腹や疲労はしっかりと感じるのだからつくづく不思議だと呆れながら、鍵介という少年の輪郭を確かめるようにゆっくりと視線を落としていく。ぎゅっと強張った肩、荒い呼吸に合わせて上下する胸、筋肉の形に盛り上がった腕、ふと、太腿の傍に置かれたままの手に目が留まる。椅子の端を握る手の甲にはうっすらと血管が浮いていて、ここからでは見えない指先はきっと白くなっているのだろうと想像がついた。
 ということで、名残惜しいけれど今回はこのあたりで引くことに決める。いくら温厚な鍵介といってもやり過ぎはよくないし、何より腕力に持ち込まれてしまえば勝ち目はない。更に言えば、行動に訴えるほどの精神的苦痛を受けた彼が、そんな自分と私のことをこの先どう思うだろうと考えれば愉快な気分もたちまち沈んでしまうから。

 まあいいけどね。
 殊更に明るく発した私が身を引くのに合わせて、鍵介の肩からも力が抜けていく。ふぅっと大きく息を吐いた彼はそのままふにゃりと上半身を崩して、やがて小刻みに肩を震わせ始めた。最悪の事態を連想した私の心配などそっちのけに、聞こえてきたのはなんとも愉快そうな声である。さっきまであんなに追い詰められていたくせになんでこんなに楽しそうなのか。訝しむ私の視線などお構いなしに鍵介は笑い続けている。そのうち涙まで滲ませ始めた笑い上戸を前にできることなどある筈もなく、完全に置いていかれた私は録画モードにした端末を向けるのがやっとだった。鳴子先輩の手にかかればカギPのゴシップとして拡散されること間違いなしだねーと揶揄ってみるものの、見せる気なんてない。あって部長に差し出すくらいだ。

「あーもう、やらかした。なんだよ、苗字さんってば普通に元気だし。むしろ絶好調って感じだし」

 ようやく落ち着いたらしい彼は自嘲してみせるけれど、私としてはただただ意味がわからない。「心配して損した」と続く吐露が他の誰でもない苗字なまえに掛かっていることは明らかなのに、肝心の私にはその心当たりがないのだから困ってしまう。心配?誰を?私を?なんで?
「こっちの話だから気にしないで」
「だから、なにを考えてもいいけど本気で隠す気ならもっと上手くやろうよっての」
 かまってちゃんかよと言いかけて、図星を指されて落ち込む未来を想像してしまい慌てて呑み込む。打てば響くコミュニケーションに甘えてしまいがちだけれど、実はなかなか繊細なのだ。そんなこちらの気配りには気づかないままの鍵介はまたもはぁーっと大きく溜息を吐いた。所在なさげに眼鏡の蔓を触りながら「格好悪いなぁ、僕」と漏らされた声は、油断していたら聞き逃してしまいそうなくらいに弱々しい。

「……泣いてるのかなって思ったんだよ」

 さすがに、この後に及んで誰がと訊ねるような野暮はしなかった。というか、ここまで言われてしまえばいくら迂闊な私でもさすがに理解できた。つまり最初から私の認識が間違っていたのだ。鍵介がこんな時間に部室に来たのは、そもそも私がここにいると知っていたからで、だとするならきっと……。

「うっわ恥ずかしい。どこで見てたの」
「あ、違うからね。誤解しないでね。本当にたまたまだから。移動の時にたまたま、なんか見覚えのある後ろ姿が旧校舎の方へ歩いてくのが見えただけだから!」

 あまりにも過剰な反応に失言を悟る。ただの疑問に対してそれ以上の意味を無理やり汲み取られてしまった形に慌てて訂正を試みるけれど、時すでに遅しというやつである。一度確定してしまった誤解はなかなか解けず、「違うんですストーカーじゃないんです変質者じゃないんです違うんです」とうわ言のように繰り返す鍵介とひとつひとつ摺り合わせを行うという私の対応は、結果的として彼の厚意を無遠慮に暴き立てる形になってしまった。なんとも申し訳ないことだ。
 ちなみにこれは宮比温泉物語での一件以降、帰宅部の男性陣(一部)に認められる心的外傷である。しかもことあるごとに彩声先輩によって抉り直されるため一向に癒えなかったりする。


 かくして。
 やっとの思いで誤解が解けたはよかったものの、結果として今こうして私たちを取り巻く空気は澱んでいた。 
「なんか……本当にごめんね」
「いや、僕もちょっと調子にのってたし……」
 鍵介もまさか私が”昨日までそれなりに仲良く話していたクラスメイトが今朝会ったら微妙に違う雰囲気になっていた”というメビウスあるあるに今更衝撃を受けたとは思わなかったらしい。本気で驚いた顔をしながら「そんなデリケートな部分があったんだね」と煽るから、つい言い返してしまったのが悪かった。本当に、鍵介はなんというか……打てば響くところがあるので、そのうち二転三転して本題を忘れるほど会話が弾むのも、あまりに実益のない勢い任せの熱中を繰り返した挙句、一息入れたタイミングで恐ろしいほどの倦怠感に見舞われることも、それなりの頻度で経験している筈なのに……それでも繰り返してしまうのが私たちだった。せめて琴乃先輩かアリアがいれば適当なところで止めてくれるのに、とこの場に居ない人物に想いを馳せたところで意味はない。

「なんでこうなっちゃうんだろう、って愚痴りながらも実はそんなに嫌じゃないなまえちゃんなのです。知ってた?」
「知ってる知ってる。そんなんだから、苗字さんのことを好きになりたくないんだって」
「意味わかんなーい」
「考えてもみなよ。例えば、好きな子が泣いてると思って授業さぼって追いかけるとか寒過ぎるでしょ」
「ああそりゃ確かに。しかも鍵介って普段の言動からいろいろアレだからなんかもう全部の行動に下心が透けて見えちゃうかもしれない」
「そう、そこなんだって! 一度好きって言っちゃったら最後、それから先は何を言っても全部下心ありですって雰囲気になるのが耐えられない!」

 さすがに日頃からやらかし続きの男は言うことが違う。そんな失礼な感想を抱きながら愉快な道をひた走る鍵介を眺めていたところ、拳を握って力説していた彼がふとその表情を緩ませた。
 今日一番と言っても過言ではない穏やかな眼差しが私をとらえる。ゆっくりと動く唇から、今にもとろけそうなほど甘ったるい声が溢れて、ふたりだけの部室に響き渡る。

「まあ、そもそも苗字さんって僕の好みじゃないんだよね」
「まあ、そこはお互い様だよね。大丈夫、知ってる知ってる」



(2020.01.18)
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