■ 独擅場ダーリン

 オスティナートの楽士の出自は大きく二つに分けられる。最初から楽士として招かれたものと、この場所で楽士として見出されたもの。
 自分はといえば後者だ。身も心も高校生のあの頃に戻ってこの世界を満喫していた僕は、現実での自分が曲を作っていたこともすっかり忘れて誰かの曲に熱狂していた。けれども蜜月は長くは続かない。やがて全てを思い出してしまった僕は楽士となり、同時にかつての名を取り戻した。
 正直なところ、ブランクが気にならなかったと言えば嘘になる。けれどそれは本当に最初のうちだけだった。だって、この場所での僕は心の底から自由だったから。底なしの探究心と創作意欲を受け止めてくれる時間も機材もたっぷりある上、昔の自分が当時のボーカルソフトに奏でさせていた以上のリビドーを叩きつけた曲を喜んで持て囃す女の子たちが溢れている世界。彼女たちの無垢な賛辞と憧憬をこっそりと裏切り続ける日々は最高としか呼べないだろう。
 まあ、歌姫はμだけでいいというソーンの方針により僕の経歴から最初期の曲が消えてしまったのは少しばかり惜しくはあるけれど、かといって今更昔の曲をμに歌い直してもらう気にはなれなかったのだから仕方ない。わざわざ現実への感傷を深めるくらいなら新しい曲を作る方がずっといいさ……と、少なくともあの日までは本気で思っていたのに。


「……■■■、■、■■……」

 悪戯な風によって気まぐれに暴かれる一瞬の真実を一片たりとも見逃してなるものかと目を凝らしていた僕は、どうにも無視できない旋律を聞き取り大きく肩を震わせた。勘違いかもしれない。偶然に何かの曲のその部分が似通っていただけかもしれない。でも、たとえ偶然だとしても無視できるわけがない。
 慌てて振り返る。視界に広がる秘密の花園からぐるりと視線を移せば、それらしいスカート姿は簡単に見つけられた。風に翻弄される髪の毛が影になって顔はよく見えないけれど、一人歩く彼女の口元が小さく動いているのはわかる。鼻歌、というやつか。もっとしっかりと聴き取りたいのに、小さな小さな彼女の声は僕が捕まえるより早く駅前の賑わいに溶けてしまう。久しく感じていなかった衝動に背を押されて、気づいた時には駆け出していた。
 もちろん、ばれないように擬態しながら。

「■、■■■、■■、■■■、■、■■……」

 今度こそ、全身の血が引いた。
 先回りを狙ったのは正解で、街路樹となった僕のすぐ隣を通り過ぎる彼女の声はとてもはっきりと聴き取ることができた。そして、その可憐な唇が繰り返しているものが確かに僕のものであるという確信も得てしまった。ソーンの言葉を信じるならメビウスには存在しない筈の、音源どころか誰の記憶にも刻まれていない筈の、懐かしいメロディ。
 つまり、この女子生徒はホコロビに気づいてしまっている。
 僕自身という前例を見るまでもなく、この世界が現実でないと気づく生徒は以前からたまに現れていた。対処法もとっくにマニュアル化されている。だから今だって、本当は悩む必要などない。思い出したのなら忘れさせればいい。現実での苦痛も記憶も全て奪って、改めてこの穏やかな夢に沈めてしまえばいい。……いや、なにも今すぐ判断しなくてもいいか。どこまで進行しているのかを確かめてからでも、彼女についてもっと調べてからでも、決めるのは遅くはない。
 楽士としてはこれ以上なく合理的で理性的な答えを導き出した僕は、しかし今日のところはこの胸に広がる甘美な誘惑に抗わないことにした。それくらいのわがままは許してもらえるさ。だって、彼女が歌っているのは僕の曲だ。

 楽士らしい理性をこれまた楽士らしい感情で捻じ伏せて思考の海から戻ってきた僕を迎えたのは、男に話しかけられている彼女の姿というなんとも歓迎できない光景だった。
 明らかに知り合いではない様子の男たちが、歩き出そうとする彼女を阻みながら交互に口を開く。どう見たって彼女の様子に脈はないのに強引なトーンは変わらない。ナンパ自体は珍しいものではないとはいえ、彼らの行為は少々悪質に思えた。事実、戸惑いの表情を浮かべながらなんとかやり過ごそうとしていた彼女の目つきが剣呑なものに変わっていく。ああ、いけない。伝わる筈がないと知りながら胸の内で呼びかける。こういう連中にそんな目を向けてはいけないよ。だって、手酷く手折りたくなってしまうだろう?
 案の定すっかりその気になってしまったらしい男たちが力任せに彼女を捕らえる直前にどうにか到着できた僕は、さも通りがかりの紳士ですという顔で両者の間に割って入る。

「どうしました?」

 険しかった彼女の目が驚きに満ちて、それからふっと緩んで、けれどすぐに新たな不安に揺れはじめる。ああ、なんて素直な眼差しなんだろう。大丈夫だから、安心して。これでも僕ってば、こういう連中をいなすことに慣れているんだ。内心すっかり気を良くしながら、彼女を守る形で彼らに向き直る。本当ならすぐにでも楽士の権限でお仕置きしたいところだけれど、彼女の手前もう少しだけ猶予をあげることにした。いいから今はさっさと立ち去りたまえ。そして後で報いを受けたまえ。

 ひらりひらりとスカートを揺らしながら遠ざかる彼女を見つめながら、張り詰めていた胸をほうっと撫で下ろす。急に振り返るから驚いてしまった。
 あのあと。彼らを追い払い、彼女からの感謝を受けとり、ではこれでと立ち去った僕はもちろん本当に立ち去ったわけではなかった。物陰で好青年の擬態を解き、すぐに新たな擬態で場に馴染みながらこっそりと見守り続けていたのだ。本当は家の場所まで知りたかったけれど、さすがに今日は他人からの視線に過敏になっているだろうから会いにいくのは明日にしようと思う。

「苗字なまえちゃんか。しばらく観察させてもらうよ」


  ***


 それから半年間にわたり僕はなまえちゃんのことを覗き続けた。といっても、ずっと彼女のことだけを見ていたという意味じゃない。あくまでもお気に入りの覗きコースの一つというところで、ほとんど足を向けない週もあれば、連日のように通うこともあった。
 幸いなことに、出会った翌日にはもう僕が彼女の処遇に悩む必要はなくなっていた。春になれば一年生に戻る彼女は、今無理やり奪わなくてもあの曲のことなど忘れてしまう。だって今ですら、どうやらサビしか覚えていないようなのだから。ほんの少しだけ寂しいのは本心だけれど、自然の流れで忘れるならと仕方がないと諦めもつく。
 だから、本当はとっくに彼女に対しての興味を失っていてもよかったのだ。
 にもかかわらず、僕は彼女を覗き続けた。それだけではない。なんとも例外的だが、直に言葉を交わしもした。
 誤解を恐れずに言うならば、僕は実のところ接触への要求はそこまで強くはない。あくまで人知れず覗くという行為と、視界からの刺激を元に頭の中であれこれ考えるのが好きなのだ。だから、初めの数回は本当にただの不可抗力だった。強引な客引きにつかまったり、たちの悪いナンパに目をつけられたり、僕が見ている前で財布を落としたり、荷物を抱えた状態で転倒して大ごとになっていたり、駐輪場で雪崩に巻き込まれたり、人通りの少ない夜道をのんびり散歩でもするかのように音楽を聴きながら帰っていたり、そういう姿に出くわす度に僕は適当な姿に擬態しては彼女の手を引いたのだ。きっとこの子はここが現実ではないと気づいているが故に警戒心が働かないんだろうと思えばその無用心さすら愛おしく思えた。
 現に彼女は、毎回毎回、出会ったばかりの僕という男子生徒をあっという間に信用し、いつも同じように笑いかけてきた。そういうところが付け込まれやすいんじゃないかいと言ってあげたくても、僕の立場では言えるわけがない。
 仕方がないから、せめて遅い時間に見かけた時だけは他の日課を置いてなるべくなまえちゃんを優先するようにして、あとはなし崩しだ。


 けれど、今日この場所でなまえちゃんに話しかけたことは少しばかり特別なことだった。
 たまたま彼女がよく立ち寄るカフェで姿を見かけたから。たまたま買ったばかりの雑誌を取り出すところが見えたから。そんな偶然に甘えて、随分と僕らしくない行動に出てしまったのだ。

「少年ドールが好きなんですか?」

 楽士特集という鮮やかな見出しが踊る紙面から視線を上げた彼女は、話しかけられたことに驚きつつもすぐに人当たりのいい笑顔を向けてくれる。ほら、そういうところだよ。誰も彼もがμの話題なら心を開くと認識していて、だから今も知らない人に話しかけれられているという現状を甘く受け止めているところ。そういうところがね、僕は心配なんだ。

「というか、一番馴染みがあるのが少年ドールさんなんですよね。図書館でよく聞くので」

 だからまずは少年ドールさんの記事を見て、それから他の楽士さんのことも勉強しようと思って。あんまり無関心だと友達にも笑われちゃうから。
 彼女の答えに満足する。彼女が図書館に入り浸っていることはとっくに知っていたけれど、あそこは彼の縄張りだからあまり足を向ける気にはなれずにいたのだ。この分では、どうやら本当に少年ドールのファンとしてではなく単なる利用者として図書館に通い詰めていたらしい。

「あなたは誰がお好きですか?」

 しまった、その答えは用意していなかった。適当な誰かを挙げて凌げば済む話ではあるものの、オスティナートの楽士と一括りに呼べど結局のところはライバル同士であるからして。Storkとしての立場で同僚を語るならまだしも、いち生徒の顔で他の楽士を褒めるのはちょっとばかり胸に引っかかるものがあるのだ。少しだけ迷ってから、そっと過去に手を伸ばして答えることにした。むかしむかし、ここに堕ちてくるより前から、僕の歩く先に存在していた素晴らしいクリエイター。

「僕は……ソーン、ですかね」

 ソーンさんと繰り返した彼女は、そのままぱらぱらとページをめくって視線を落とし、そして。ありがとう、聴いてみますね。その声がいつになく弾んだものだったから、僕はつい慌てて言わなくていいことも言いたくなってしまった。

「あの、もしよければだけど、Storkもどうかな。女子人気高いみたいだし、友達と話すならきっと……」
「Storkさん……? あ、ここか。えーっと、『あなたのハートを甘く揺さぶる危険なラブソング! 抱かれたい楽士No.1ことStork様の素顔に迫る!』……なるほど。うーん、ラブソング、ラブソングかぁ」

 彼女の唇がStorkの名を紡いだ瞬間、僕は確かに鐘の音を聞いた。けれど、膨れ上がった思いは彼女の棒読みの前にあっけなく萎んでしまう。ファンの女の子たちがみんなあんな感じだから麻痺していたけれど、いざ冷静な口調で言われると結構きついものがある。これ絶対引かれてるよなぁ。しかもラブソングに興味ない感じだしなぁ。これならソーンを推めるだけで終わっておけばよかったと後悔したところでもう遅い。

「まあ一般論としてってだけだから無理には……って、あれ、本当にDLするの?」

 取り出したスマホを素早く操作して楽曲選択画面に繋いだなまえちゃんは、そのまま大して吟味する様子もなく上から順にいくつか選び、最後に一番下とその上を選択してするりと確定の文字をなぞる。全く同じ操作をもう一度繰り返した彼女は、だってせっかく教えてもらったんですし、興味があるのも本当なので、と何でもないことのように口にした。

「それならせめてランキング上位だけでよさそうなのに」
「だってその方が”わかる”感じがしません?」

 わざわざ一番下のものを選ぶ必要はないだろうと言外に示せば、まるで内緒話でもするかのように囁きを返される。長い睫毛がゆるやかに影をつくる様子に見惚れていたところにこれは……不意打ちだった。つまり、悪戯めいた眼差しは、無策で受け止めるには刺激が強すぎた。
 胸がぎゅっと痛くなって、今までで一番この子の近くを許されているような錯覚に襲われる。耳をすませば、全身を巡る血液の音までわかりそうだ。けれどさすがにこの状況で鼻血を吹くわけにはいかないから、今にもひっくり返りそうな心臓とつんとする鼻腔にもう少しだけ耐えてくれと懇願する。ああ、なまえちゃん、出会ったばかりの男にそんな顔を見せちゃいけないよ。


 どうにか登場時と同じような自然体を装って席を立ってからの僕は、一人になると何度も何度もななまえちゃんの言葉を胸の中で繰り返した。あくまでもソーンとStorkの曲に対しての意味だとはわかっている。でも、それでも敢えて、省かれた主語がStorkという自分そのものであればいいのにと思ってしまったのは紛れもない真実だったし、そんな僕は僕自身にとっても衝撃だった。
 だって、まさか、こんなことってあるかい?
 ターゲットには決して知られないよう一方的に見透かしてきたStorkが、彼女には見つかってみたいだなんて。




(2020.02.01)-どくせんじょうだーりん-
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