| ■ 君と映画館 この世界の人々の関心はμに注がれている。 街に溢れる音楽も大看板を飾る被写体も。流行はμでありすべてはμとそれ以外に分けられる、というのは暴論でもなんでもない事実で、群衆はただ愚直に唯一の歌姫を求めている。そして、この環境に満足している。 ただし、彼女を冠しない作品に価値が与えられないわけではない。つまり私は、教室の全員がμと楽士たちの魅力を熱く語るようなこの理想郷において、彼女が一欠片も介入しない映画というものが娯楽として供給されている喜びを噛み締める者である。たとえ予告映像が全てμの宣伝だろうと、この奇跡の前には些事である。 かくして具体的な目当があるわけでもなく気の向くまま映画館までやってきた私ですが、浮かれた気分は大きく映し出されたスケジュール一覧を確認する前に見事に萎えてしまいました。だって、作品名と空席を示すモニターの前でちょっとどころではない人数の視線を集めている誰かさんにどうしようもなく覚えがあったので。 「いいかげんにしてくれ」 「だって維弦さまぁ、さっきおひとりって仰ったじゃないですかぁ。ならちょっとくらいいいじゃないですかぁ」 「何度言えばわかるんだ。僕は君を知らない」 「あーん冷たい! でもそんなところも素敵!」 「では失礼」 「ま、待ってくださいよ。ですから、ぜひ私たちと一緒にぃ」 「しつこいな」 「維弦様こそなんでそんなに嫌がるんですかぁ〜?」 どこを切り取っても不毛で泣きたくなるような遣り取りだった。愛想の欠片もない男子生徒に食い下がる女子生徒の後方では、とっくに飽きたらしい彼女の連れがふたり。更にちょっと離れて順番待ちらしい集団がちらほら。超絶美形相手に突撃できる勇気は大したものだけれど、勢い任せの戦法は稚拙でしかない。たとえばこれが佐竹笙悟なら押しの一手も戦略としてはアリだろう。だがお嬢さん、君が相手にしているのは峯沢維弦だよ……と忠告するより先にこんな事態に慣れっこだろう峯沢先輩に対して「もっと上手に断ってあげてください!」と叫びたくなってしまうのが私という後輩ちゃんです。 「あー! 維弦先輩ったら此処にいたんですね、みんな探してたんですよ!」 「……ああ、苗字か……探していたとは僕のことをか?」 「そうですよ。さあ維弦先輩、こっちこっち! ということで先輩方すみません、ここで失礼します」 「おい苗字どうしたんだ。急ぐのか」 「はいはい先輩、詳しくはあっちで説明しますから。さーてちょっと腕に触りますんで我慢してもらえると助かります」 「……わかった」 状況が飲み込めていないだろうに、囁きにはちゃんと囁きで返してくれるのがありがたい。 同意を得た私は意気揚々と峯沢先輩の腕を取り、続いて彼女たちにぺこりと頭を下げて逆方向へと向き直る。だめ押しとばかりに初夏の日差しに負けない煌きで「維弦先輩、あっちですよ」と繰り返すのも忘れない。待ち合わせで賑わう門の遥か先、遠目に見える植え込みのさらに奥を狙って今行きまーすと手を振り峯沢先輩を引き摺るように歩きだせば、後ろの三人組は溜息を残して券売機方面に消えていった。慰め合いに混じって何あれずるいとか一年のくせに生意気じゃんとか聞こえてくるけれど全部無視だ。 静かなままの峯沢先輩の手を引いて難なく脱出後、念のためにもう少し進んだところでもういいかなと手を離す。周囲を見渡して小首を傾げた先輩は、けれどもすぐに状況を理解たようでふむと小さく頷いて私を見つめた。整った顔にも平坦な口調にも慣れて、今となってはその氷面に生まれる僅かな変化にすら気付けるようになった私にとって、突き刺さってくる視線が持つ意味は尋ねるまでもない。 「……そういうことか。世話をかけたな」 「お節介だと怒られるのは仕方ないかもだけど、納得する前に弁解くらいは聞いてください。いくら私でもあんなものを五組も見過ごしてのうのうと映画を楽しめるほど図太くないんで」 正直にいえば、峯沢先輩がファンに追われる姿なんてものは見慣れている。 なので最初は見なかったことにしようと思った。けれど、周囲にそれとなく順番待ちの人間が群れ始めたらなんかもう駄目だった。二組目が玉砕して三組目が諦めて、引き下がる人たちなどまったく気にしない様子でスケジュールを覗き込もうとする先輩の前に立ち塞がる新たなチャレンジャーたち。あの状況を放置していい方向に展開するなんてまず望めないし、下手したら二時間後でもまだごたごたしている可能性すらあった。映画がどれほど素晴らしくても帰りしなに見る風景がそれでは余韻に浸るどころではない。 「なるほど、その理屈ならわかる。だが僕は何もしていない。文句は彼女たちに言ってくれ」 「待って待って。確かに先輩は人を惹きつけるよ。美形だよ。でも因果のすべてをそこに結び付けて思考停止に陥るのは損だと私は言いたいですよ!」 数歩進むごとに声をかけられる先輩を眺めていて気づいたことは、最初はみんな軽い気持ちなのだということ。 学園の王子様相手にナンパを仕掛けるのだから考えてみれば当たり前だ。断られても当然だけど上手くいったら儲け物、そもそもお話できるだけでもラッキー。けれど、対する峯沢先輩があまりにも下手な態度をとるから引き時を見失ってしまう。このまま押し続ければいけるのではと錯覚を抱いてしまったり、次に声をかけた相手には答えるのではないかと惜しくなったり。なによりも今日は、日が悪い。 「他に理由があるということか」 「恐らくは。といっても今の時点では単なる仮説だから、確かめるには峯沢先輩の協力が不可欠かとー」 「……僕の事情に干渉するメリットが苗字にあるとは思えないんだが」 心配ご無用、私の得は私が決めるので。なんて笑いかければ、苗字はおかしなやつだなと返された。なおこれは茶化すわけでもなくただの感想でしかないので、案の定これっぽっちの親愛も下心も含まれていない。けれど案外いい気分だ。女子生徒なんてうるさいだけだろうと十把一絡げに見られていた頃に比べれば、随分居心地がよくなったとすら思ってしまう。多分これも彼女たちが感じるような都合のいい錯覚だけど。 そして、私たちは再び映画館の門をくぐった。 上映時間とポスターを見比べて都合のいいものを選び、同行者だと周囲に示せる程度に話しながら共に券売機に並ぶ。相変わらず嫉妬と詮索の視線は突き刺さるものの、さすがに無粋な声はかからない。 しかし、いくら快適に過ごせたところでやっていることは単独行動のスキルアップという峯沢先輩の目的を台無しにする行動である。てっきりご不満かと思いや、先輩なりに妥協点を見つけてくれたようで心配したほど機嫌は悪くなかった。なお、会話といっても先輩はほとんどのことを自問自答で済ますから私が立ち入る隙はそうない。けれどたまに彼の世界に私を混ぜてくれるのだ。ポップコーンの値段と大きさの比率が理解できないとか、全世界が泣いたと判断する根拠はなんだろうとか、この世界でシニア割を掲示することに意味はあるのだろうかとか。そんなふうに初めての世界に丁寧に触れて質感を確かめていく姿は、とても眩しくて、えらいなあって褒めたくなる。子供扱いだと嫌がられるだろうから絶対にしないけれど。 「ああよかった、まだ席が選べる。場所についての説明は要ります?」 「いや、必要ない。要はホール同じだろう」 パネル操作のたびに表示される項目をじっくり確認するので時間はかかったものの、変に戻ったりエラーになったりするわけでもなく手順としては随分とスムーズに事を成してしまった先輩に私の方が驚いてしまう。お任せすることにした手前、たとえ最前列であろうと一番端だろうと不満は言わない覚悟でいたけれど、そんなののもまるで喜憂だった。 券売機は使ったことがあるからなと告げる口調は相変わらず平坦だけれど、その表情が誇らし気なのはきっと錯覚ではないだろう。しかも、受け取ったチケットにはちゃんと特別な印字がある。 「苗字の仮説とはこれだろう?」 「さすが峯沢先輩、完璧です」 文句のつけようもない正解を弾きだした当人は、けれどもまだ納得がいかないらしい。 「いくら値引きを受けたいとしても僕と彼女たちは初対面だぞ」 「それは発想が逆かと。私は、憧れの人と接点を持てたらいいなという慢性的な期待がカップル割もといペア割引という餌によって活性化した説を唱えましょう」 「大義名分でも得たつもりか。勝手だな」 「本当に、身勝手。でも、見当違いだと捨て置くのは勿体ないのでは。なんせ、ほら。実際に私はこうして先輩の隣を手に入れたわけですし」 極端なことを言えば割引の条件はまとめ買いなのだから、どの席を選んでも構わない。ただ、それでも、一度に複数枚を選ぶとなるとこういう結果に落ち着きがちである。特にペアなんて言われたら。きっとお嬢さん方もこうなることを期待したのだろう。映画代が安くなる上に峯沢先輩の隣に座れるなんて夢みたいだと浮かれただろう。事実、峯沢先輩はこちらが言わなくてもペア割引の選択肢に気づいてくれたし、座席もすんなり続け番号で指定したから、目の付け所自体は確かである。 「……なるほど。ここまでが実験だったか」 「ほら私もちゃんと得しましたよ」 「まるで僕”も”得をしたような言い方だな」 「あれ、違いました?」 そうだとも違うとも言わず首を捻る峯沢先輩は、どうやら本気で答えかねているらしい。まあ、確かにね。峯沢先輩にとっては数百円の割引なんてささやかなものだろうし、後輩女子とのツーショットも何の魅力もないだろう。むしろ、ひとり映画と洒落込みたかったところを邪魔されたわけだから、普段の言動を鑑みると迷惑だと即断されないことが奇跡的ですらある。 「うーん、なら考えるのは一旦保留にしちゃって、とりあえず映画観て、終わったらどっかその辺で座りましょ。で、その時に、映画の感想と一緒に得だったか損だったかも教えてくださいな」 「構わないが、おそらく苗字の期待に沿うようなことは言えないぞ」 「そんな難しく考えないでいいんですよ。面白かったでも、つまらないとか、わからないでも。あの色が綺麗だったとか、あそこの音楽がどうだったかとか、本当になんでも」 先輩が得たものがあればそれを教えてほしい。仮に僅かな波すら生まれなかったしても、それはそういう感想として貴重なものだから。 「もちろん、峯沢先輩の感情は峯沢先輩だけのものだから全部教えてとはねだりません。でも、二時間も知らない物語に浸って、その感想を一番最初に分け合えるというのは一緒に観る身の特権だよなーとか思っちゃうわけです」 「……そうか。約束はできないが、望みに添えるようやってみよう」 おお、なんだかとてもやる気に満ちておられますね。これは楽しみ……とはいえやっぱり最初なんで、まずは肩の力を抜いてシネコン初体験を堪能しましょうか。 通路いっぱいに飾られた宣伝物を珍しそうに眺める後ろ姿を眺めながら、素早く二人分のブランケットを確保する。ああ先輩、そっちじゃないです。ホールみたいに入口が多いわけじゃなくて部屋別ですから。はいそうです、この番号の扉です。 さあ、映画の世界にようこそ。 (2022.1.23) [ 戻 / 一覧 / 次 ] top / 分岐 / 拍手 |