| ■ 2 なまえが姿を消した。 それもおそらく、事件でも事故でもなく……彼女の心変わりによって。 その知らせを聞いた時はほぼ反射的に、彼らに合わすように「迷惑な奴だな」と苦笑を浮かべていた。だから、実際は自分でも驚く程に酷く動揺していたのだ、ということを自覚したのは彼らと別れてからだった。 あの日までの数日間、彼女が居なくても普通に過ごせていたというのに、去られたのだとわかってしまった途端に、心に波が立ち始める。 出かけようと廊下を歩けば、彼女がよく背を預けていた太い柱ばかりが目に留まる。エレベーターに乗れば、扉が開いた先に何故かよく居た彼女を思い出して停止の度に身体に力が入る。終いには、一人で食べることを味気ないと感じるようになった食事中、聞きなれてしまったしつこいノックの音を探して耳が疼き始める。 けれども、どれだけ目を凝らしても、どれだけ耳をすませても、そこになまえの姿を見つけることは出来ない。 *** いつの間にか変わってしまった自分に戸惑い始めて、早数日。 散々迷いに迷っていたメレオロンだが、ついにある日、ようやく重い一歩を踏み出すことに決めた。 その重く小さいながらも重要な一歩をさらに何度も重ねて、昇降を繰り返すエレベーターを何度も見送って。そんな呆れ返る程の手順を無駄に踏んで、それでも微かな前進を繰り返し……そうしてようやく彼女の部屋の前まで辿り着いたところで、メレオロンに理解できたのは一つの事実だけだった。この扉の向こうには誰もいない。 呼び鈴を鳴らしても反応はなく、耳をすませたところで僅かな生活音すら聞き取れない。 いつも散々、鬱陶しいほどの笑顔と強引な口上で招かれていた部屋だというのに、今はどれだけ待っても決して開かれることのない扉が冷たくあるだけだ。 「……なんか一言くらい、あってもよかったんじゃねェのか?」 こちらの都合もペースも無視して、二人の間にあるどうしようもなく莫大な距離も違いも関係ないとばかりに駆け寄って来て、力任せに扉をノックし始めた女。 憂いも恐れも感じ取れない瞳はいつだって自信満々で、ついでに人の迷惑も省みない不遜な態度を崩しもしなくて。そんな彼女に真っ直ぐ見つめられていた日々を思い起こしかけ、耐え切れなくなってきつく目を閉じる。 そう。 誰にも言わなかっただけで、とっくにメレオロンの扉はこじ開けられていたのだ。 なのに……こんな風に何も言わず、何も匂わせず、お前はあっさりと離れていくのか? 確かに、鬱陶しく思ったことは事実だった。しかしそれでも……ずっと邪険にだけしていたつもりはなかったのだ。向けられる好意を疑い、その真意を邪推したことは事実だったが、それでもいつしか、繰り返される誘いに応じることは当たり前になっていたのに。 こんな思いをするのなら、最初から愚かな期待など抱かなければよかったのに……。 心の奥深くに溜まった澱から、愚かな己に向けての嘲りの声がにじみ出るようだ。今ここに、湧き出すこの不安を止めてくれる存在は居ない。こんな身で、人間の女に一体何を期待したのだと糾弾の声だけが胸の内になおも響く。 思えば、命運を共有出来るような"人間"たちに出会えただけで、"仲間"となれただけで、"蟻"となった自分にはすでに充分過ぎる程の僥倖だったというのに。その上"人間"の若い女に"蟻"のまま愛されようなんて……まったく夢物語にも程があるだろう。 そして、仮に彼女からの"なんか一言"があったとして。 自分はどんな反応が出来ただろうか。答えは決まっている。何も、浮かばないのだ。向けられた熱い眼差しも、差し出された柔らかい手も、戯れのように近づけられた唇も、メレオロンはただ……拒絶しなかっただけだ。放っておいても擦り寄ってきて、強引に距離を詰めてくれて、遠慮なく退路を断とうとしてくれるなまえに対しては、それで充分だった。 諦めたふりをして、押し切られるふりをする。それだけで、心の内を曝け出すリスクを負うこともなく、充分過ぎるほどの温もりを得られたのだから。 自身の狡さに気がつくと同時に、それ故に、自身が彼女への連絡手段すら持ち合わせていなかったことにも気がついてしまう。 いつだって彼女の方から寄ってきてくれたから、メレオロンから接触を試みる機会はまるでなかったのだ。そして、これだけ通信手段が発達した社会にありながら、なまえは電話やメールではまず掴まらないのだと言っていたのはナックルだったか。なんでも、電子画面上で文字を読むことを酷く苦痛に感じる体質な上、メール嫌いを知る者たちがこぞってかけたことから電話も拒否対象になったらしい。各地を飛び回るハンター向けに用意されたホームコードという便利な手段すら、当の本人に活用する気がないのなら意味がない。 その一方で、手紙ならばたとえ悪筆でも長文でも、加えてそれがどれだけ下らない内容だろうが、しっかり目を通すというのは活字中毒の性質だろうか。しかしその一番確実な手段である手紙ですら、彼女が今どこに居るのかがわからなければ、繋がらない電話と同じで意味がない。 *** 歩いてきた廊下を引き返すしか出来ないメレオロンの胸中には、言いようのない無力感が募っていた。 そしてそれに付随して、遅すぎた自分に対しての自己嫌悪と、羞恥と、不安がない交ぜになった暗い感情が身に重くのし掛かっていく。 「……なまえ……クソ! なんだってんだよ、これは……!」 どうしちまったんだ、オレは。 こぼれ落ちた小さな声は、誰の耳にも届かなかった。 (2014.12.07)(タイトル:銀河の河床とプリオシンの牛骨) [ 戻 / 一覧 / 次 ] top / 分岐 / 拍手 |