■ 3

 たとえどれ程面倒だろうが、生きている限り腹は減る。

 どうにも気乗りしない心と、そんな心以上に重い身体を引き摺って、暗くなり始めた道をとぼとぼと歩いていく。メレオロンの緩慢な足が向かっている先は、与えられた部屋から少し歩いた一画にある小さな店だった。
 素朴ながらもどれも美味い家庭的なメニューの数々と少しの酒。そして、気のいい店主と常連客たち。辿り着いた小さな店の扉を引けば、そこにはいつも通りの光景が広がっていた。


「やあ、いらっしゃい!」

 厨房から飛んでくる威勢のいい声には片手を上げることで応え、いつものテーブルへと足を進める。馴染みの客たちと会釈を交わしつつ、すっかり定位置になった椅子に腰掛けるとほっと肩の力が抜けていくのがわかった。
 ひとりで居たくないとは思っても、友人たちだっていつもいつも暇というわけでは決してない。

 それに、なんと言っても彼らは……彼女の事をよく知っている。

 ただでさえ、メレオロンに対しての極端な行動の数々と、突然の消息不明だ。
 話題に事欠かない彼女の名前は、いつもの面子が揃えば必ず誰かの口から発せられるだろう。その展開を思うだけで、気が重くなる。そんな時、知り合いと言える程近しいわけでもなく、けれども全く知らないわけでもなく……という距離感の者が集うこの店は居心地が良い。
 もっとも、元々この店に顔を出していたのはなまえでメレオロンは彼女の連れとしてこの店に通うようになっただけなのだが。

 大体の場面でふたりで来ていた顔が、ひとりでばかり訪れるようになって、早数日。
 他の面々が胸中で何を思っているのかはわからないが、少なくともわざわざ言葉にしてくる者が居ないのは幸いだった。


  ***


 カラン、と扉のベルが鳴る。
 やはり威勢のいい店主の声が響くと、扉の閉まる音と野太い声がそれに応えた。
 聞き覚えのある声にメレオロンも他の常連客たち同様にちらりと顔を上げる。首にタオルを巻いた髭面の男性は、ああ今日もよく働いたと首を回しながら定位置へと向かいかけるも、その途中でぴたりと足を止めた。

「あれ? トカゲのにーちゃんじゃねぇか。いいのかぁ、お疲れの嬢ちゃん放ってこんなところで飯食ってて」
「……はぁ?」

 明らかに自分にかけられた言葉に、メレオロンはぽろりとグラスを落としそうになった。
 トカゲのにーちゃんという呼び方はすっかり慣れたものだからいいとして、なぜ今更なまえのことが出てくるのかがメレオロンはわからない。

 男とは昨日もこの店で一緒になったのだし、その前にも何度もひとりでいる姿を見られていたはずだ。けれど、こんなことを言われたのは今日が初めてである。意図がわからないと見上げると、髭の男もむしろそんな反応の方が不思議だと言う様にぽかんとした視線を返してくるのだから、ますますわけがわからない。

「いや、なんで今日に限ってあいつのことを言うのかと……って、え?」

 自分の戸惑いを説明しようと口を開いたメレオロンは、そこでようやく先ほどの違和感に気がついた。

「……『お疲れの』?」

 妙に具体的なその言葉は、メレオロンが知らないなまえの状況を指している。
 急な展開に慌てながらも、冷えた酒が注がれたグラスを今度こそしっかりと机の上に置いて、もう一度口を開く。

「おっさん、あいつを見たのか?」
「ああ、さっきそこでよぉ。そりゃもう、ふらふらふらふら危なげに歩いててなぁ。遠目にありゃ嬢ちゃんだなーってわかったから声かけたんだがよ、全然聞こえねぇみたいでなぁ」

 問いに答えようとしてだろう。メレオロンの横の椅子に、男の手がかかる。

「結局、すれ違う時になってようやくだ。で、精気のねぇひでぇ顔してやがるから飯に誘ったら、にーちゃんの名前を口に出してなぁ」

 あー、それにしても今日も気持ち良く疲れたぜ。渇きを訴えた男は水が出されるのを待つ余裕もないようで、側にあったグラスを盛大に煽った。あ、オレの酒……と突っ込むタイミングを計り損ねたメレオロンは、ただただついていけない思いでその光景を見守るしか出来ない。

「早く会いたいから、今日はこのまま帰るってんだぜ? 泣かすよなぁ……。そんじゃあまあ、仕方ねぇよな、気をつけて早く帰れよ、って見送るしかねぇだろ?」

 次はビールを一杯!と給仕に向かって注文を告げた男は、メレオロンに視線を戻すと大げさに肩をすくめてみせた。

「そしたら、どーだよ。にーちゃんはここでこうして飲んでるじゃねぇか!」

 ああ、つまり今頃……嬢ちゃんはひとりっきりで膝を抱えているわけだ……!
 すっかりテンションの上がった男性は、早速回った酒のせいか顔を赤く染めながら、メロドラマにでも浸るかのように虚空を抱いて言い切る。いやいや、あいつに限ってそれはねェから。そう常のメレオロンならば冷たく流しただろうが、生憎今はそれどこではなかった。

「ちょ、ちょっと待ってくれ。それって、なあ……いつ、どの辺りでのことだ?」


  ***


 慌ただしく駆けていった後ろ姿を見送って、男は髭を触りながらにやりと笑った。

「おーおー。トカゲのにーちゃんもあれでなかなか熱いねぇ。若いってのは、いいもんだねぇ……」

 酒で熱くなった額に滲み始めた汗をタオルで拭い、運ばれてきたジョッキを掴むと早速また一気に煽り、そして奥に向かって声を張り上げる。

「なあ、にーちゃんは何を頼んでたんだ?」

 テーブルに乗っているのはまだサラダや軽い一品ものだけだから、あの緑の青年が選んだメインが何かまではわからない。すると、先ほどのやりとりは厨房にもちゃんと聞こえていたようだ。奥からは、笑いを隠さない声が返された。その声が告げたオーダー内容に男はむうと小さく唸って目を閉じて、やがてゆっくり目を開く。

「今日は豚の気分だったんだが……まあ、しゃあねぇか。うんうん、そうだ。ここは鶏も旨いしなぁ」

 お前の注文は俺がしっかり食っててやるから。そう笑って送り出した手前、しっかり責任は果たせねぇとなぁ。
 定位置とは異なる席にそのまま居座ることを決めた男は、独り言を呟きながら軽く周囲に目をやった。こちらを気にしていたらしい何人かが、ねぎらいの視線を送っていることに気がついたからだ。

 にやりと笑った男がジョッキを掲げれば、いくつものテーブルから乾杯の仕草が返された。



(2014.12.14)(タイトル:銀河の河床とプリオシンの牛骨)
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