■ マイフェイバリットヒーロー

 湯気の立ち上るマグカップを両手に持って現れたメレオロンに向けられたのは、涙目のなまえによる縋り付くような視線だった。

「順調か……って、聞くまでもないか?」
「もーやだ。全然わかんないし見つかんないし鬱陶しいし、もームリ。こっからはバトンタッチでおねがーい」

 とりあえず"狩人の酒場"には繋いであるし、後はお任せしちゃっていいかな。
 そう言って首を回し、肩を回し、ついでに両手を天井に向けてうんと伸びをして、なまえが立ち上がった。ああもう本当に疲れた。目も肩も凄くしんどい。そんな訴えがあからさまな態度に、メレオロンはただ苦笑を浮かべるしかない。
 彼女がパソコンの前に座ったのを見て、自分は台所へと向かったのだ。そして、今こうして用を終えて戻って来た。それはまさにチャイを一杯入れる程度の時間だったし、実際のところ彼女はまだなんの成果もあげていないというのに。まったく、どんな顔で言えたものだろうか。けれどそう思うことすら今更過ぎて、メレオロンの喉からは溜息すらこぼれない。
 難解な専門書でも退屈な私小説でも何時間だろうと読み続けるくせに、パソコン画面が相手となると数分で泣き言を漏らすのだからおかしなものだ。けれど"仕事のメールを確認する"という行為ですら苦行だと嘆くなまえにとって、情報が錯綜する電脳ページがいかにハードルの高いものであるか。それは、ここ数ヶ月で充分理解するに至っていた。

「つーかお前、そんなんで今までどうやってたんだよ」
「……そりゃまあ、やるしかない時はやってたけどさー……」
「おいおい。じゃあなんだよ。今は『やるしかない時』じゃねェってわけか?」

 意地が悪いと自覚しながらもついそんな風に言葉を続ければ、なまえの頬がぷうと膨らむ。

「だって、今はメレオロンが居てくれるじゃない」

 そう返してくれればいいのにと密かに期待した言葉が、そのまま音を得てメレオロンの耳をくすぐる。必要だと言われて悪い気はしない。それがたとえ、彼女にとって都合がいいというだけの意味だとしても。
「いやいや、本当に凄いって。パソコンの使い方もあっという間にマスターしたでしょ。それに、探し物も上手いし」
 そりゃ、お前と比べりゃ誰だって上手いだろうよ。そう茶化そうとしたのを直前でやめて、代わりに柔らかな髪をくしゃりと撫でてやる。
「しゃあねーなぁ」
 さりげなく発したはずのその声は、意識していたよりもずっと浮かれた響きを持っていた。とっさに振り返って反応を盗み見てしまうくらいには想定外だったけれど、幸いにもなまえは揶揄するでもなく嬉しそうにプリンターの用紙を補充していたからひとまず胸を撫で下ろす。

「そういえば、メレオロンのおかげで使う紙の量が随分減ったんだよねー。つまりメレオロンは、私だけでなく森林も救っているんだよ」
「へいへいっと。じゃあ、いつものように適当に出力してやっから、それでも飲んで待ってろよ」

 ディスプレイから読み取ることは苦痛だと認識するくせに、一旦紙に落としてしまえば途端に彼女の領分となる。もっと言うならば、実は印刷も必須ではない。ただ、読み上げて、聞かせてやればいいのだ。メレオロンが声として届ければ、持ち前の速記スキルで彼女は即座にそれを文字として紙に記し、同時に記憶としてものにする。
 けれども専門的な言葉や聞いたことがない地名だけでなく、さらりと読み上げるには骨の折れる長文も多いので、こうして機械頼みの方が楽でいい。



  ***



 無数に引っかかるページから、目当ての情報に近そうなものを選び、表示し、目を通し、選び、出力していく。灰皿に吸い殻を積みながらそんなことを繰り返していると、ふわりと頭の近くの空気が揺れた。
 おやと思う間もなく、首にしなやかな腕が絡み付き、ついでに柔らかな重みが肩にのしかかる。

「……おいおい。もう、画面を見ても平気なのか?」
「んー……今は、メレオロンを見てるから」

 咥えていた煙草を細い指がとらえた。
 促されるままに口元を緩めれば、まだまだ楽しめただろう長さの煙草はあっさりと潰されて灰皿に積み上げられる。
 あーあ、勿体無い。そう思いながら顔を向ければ、今度は暖かな唇が降ってきた。チュッチュと軽くついばむキスを受け入れながらほんのりと香る香辛料の香りを味わう。
 回された腕と柔らかな唇に応えるように、艶やかな髪を梳いて首へと指を下ろしていく。ついでを装って耳の後ろをそっと撫でれば、触れ合う唇の間から小さく甘い声が溢れる。そこで今度は、その声すら飲み込むように、食らいつくように、こちらから深く唇を重ね合わせる。
 すると座ったメレオロンの身体に体重を預けた格好のなまえが、ぎゅっと背を掴むのだ。洋服越しに伝わるそれはまるで、崩れ落ちないようにと踏ん張るようにも「もっともっとキスを」とねだるようにも思えて……。

 溢れる愛しさにめまいすら覚える。けれどもぐっと覚悟を決めて、メレオロンは抱き心地のいい身体を引き離しにかかった。そしてその、さしたる抵抗も見せずに離れたくせに名残惜しげに覗き込んでくる潤んだ瞳を見つめ返しながら理性が揺さぶられるのを必死に我慢する。

「おいこら、まだ全部終わってねェだろうが。つーかだいたい、こういう時はこっちが優先じゃねーのかよ?」
「だってもう全部飲んじゃったし。することもないし。メレオロンは構ってくれないし」
「……いやお前、それは自業自得っつーかな? プリントしなくていいんなら、俺だって相手をしてやるぜ?」
 本人としてもさすがにそのくらいは理解していたらしい。しばし逡巡する様子を見せた後、仕方ないと小さく溜息が返された。
「じゃあ、おとなしくひっついとく」
 再びメレオロンの背後に回ったなまえは、また先程のように肩から前に腕を回すと柔らかな身体と心地の良い重さを預けてきた。
「これは『おとなしく』っつーのか?」
「えへへー。頑張ってくれてるメレオロンに、こうして元気と愛を送ってあげるのよーん」
「へーへーそりゃ、有難いこったな」
 視線は前に向けたまま、手だけを回して指通りの良い髪に触れる。
 雑な返答と態度に気を悪くする様子もなく、小さく笑ってメレオロンの首に額を擦り付けて甘えるなまえ。まるで猫のようだと思えば、獣の耳でゴロゴロと喉を鳴らすなんとも愛らしい姿までも容易に想像出来て口元が緩んでしまう。そんな見た目の蟻なら昔たっぷり見てきたけれど、対象がなまえなら別腹だ。可愛いだろうなぁ。今度着せてみるかなぁ。
「じゃあ……期待に沿うべく、さくさくっとやっちまうかな」

 ひととおりの印刷が済めば自分の方がオレより活字に夢中になるくせに、な。放っておかれる展開は毎度のことなので今更腹も立たないが、それでも自分が放置されるのは嫌がるという彼女の理不尽さには苦笑を隠せない。

「なんつーか……オレはつくづく、お前に甘いなぁ?」
「そうだねー。本当に感謝してるよ!」
 抱きついてくる腕にいっそう力が込められる。手元が狂うだろうと文句を言う間もなく、甘い声が先手を打ってきた。
「だーいすき」
 なまえがどんな表情をしているのかなんて、振り向かなくてもわかる。それくらい、警戒心も恐れも怯えも不安もないような甘えた声だった。


 たとえ、彼女にとって都合がいいというだけの意味だとしても、必要だと言われて悪い気はしない。
 それは事実だ。けれども、その言い分が本当に正しいかと問われると、そうではなかった。予防線を張ってみたところで本当のところはもうメレオロン自身もわかっている。

 自分がどう思われているのか。
 自分がどれほど想われているのか。


「ばーか。せっかく作業する気に切り替えたっつーのに、可愛いことばっか言うんじゃねェよ」
「わーい褒められた。じゃあ、それ終わったらいっぱい相手してねー」
「……へいへい」
 だから、そうは言うがなぁ。ぎっしりと情報という文字で埋まった紙面を前に、お前が夢中にならなかった試しがないだろうが?「相手してねー」ってのはむしろオレのセリフだぜ? 
 本人に自覚がない分タチが悪いよなぁ……などとこっそり思いながら、メレオロンは開いた画面を印刷しようとキーを叩く。
 煽られた末に放置をくらうのは、もちろん決して好ましい事態とは言えないのだが、それでも。傍目にも明らかな程にギラついた眼差しで、割り込む隙もない程の集中力を発揮して文字を追う姿は生き生きし過ぎて若干怖い気もするのだが、それでも。

 長所と短所は表裏一体だということを見せつけるようななまえの姿は、とても彼女らしくて……そう嫌なものでもないのだった。



(2014.11.25)(タイトル:プルチネッラ)
[ / 一覧 / ] 

top / 分岐 / 拍手