■ ホット・バタード・ラム、指先までじわり

 相変わらずの特徴的なノックの音に、文字が並ぶ電子画面から目を離してメレオロンは立ち上がった。
 玄関へと向かう顔は溢れる感情のまま盛大に緩みきっているのだが、当然ながらその姿を見るような者はこの部屋には居ないのだ。

「やほーこんばんは。いやぁまいった。さすがにこう雪まで降ってくると、寒さもひとしお身にしみますというかなんというかー」
 がちゃりと開ければ、いつもより重装備のなまえが脱いだ手袋を片手にすちゃりと敬礼の姿勢をとっていた。
 微笑む彼女を包むモコモコのニット帽とマフラーの端では、小さな水滴が幾つもキラキラと輝いている。雨かと首を傾げたところで、ああと気がつく。そうか、これは雨ではなくて雪の成れの果てだ。暖房の効いた室内には負けるものの、それでも外よりは幾分かマシな廊下を歩くうちに溶けたのだろう。
 するりと玄関に入り込んだ鼻まで赤い彼女は、窓の外とは大違いの室温に感嘆の声を上げると震える指先を懸命に使って役目を終えた防寒具を次々と脱いでいく。
「今夜から、また一段と冷えるらしいからなぁ。……ほらよ」
 厚手のコートを吊るし終わったなまえに湯気の立つマグカップを差し出せば、耳を溶かすような甘い声と共にひどく冷たい指先が触れた。
「ってオイ、マジで冷てェじゃねーか! ほら、さっさとこっち来い。あーもうクソッ、今、上げてやるから待ってろよ!」
 暖房器具の真下まで引っ張ってきた身体に毛布を掛けながら、片手で素早くリモコンを操作し設定温度を変更する。一般人と比較すれば段違いに丈夫な方だといえるなまえだが、それでも結局は"人間"の枠組みに入る彼女の身体は"蟻"の彼よりもずっと寒さに弱い。
 けれども、こんなにもハラハラと胸を騒がせるメレオロンとは異なり、当の本人は至って平然と笑ってのけるのだ。
「やだなぁ、そんなに慌てなくても大丈夫だって。そりゃ寒いけど、まあ……言っちゃうと、この寒さも毎年のことだし?」
「そんなこと言うがよぉ、こんなに冷えちまって……」
 熱いカクテルの効果は少しは出てきたようだが、それでもまだこんなにも冷たい耳をしているくせに。
 毛布にくるまって座る背中に向かって腰を下ろしたメレオロンは、いても立ってもいられない気持ちを毛布ごと抱き込むように手足を回した。けれど腕の中でうんしょと彼女は身じろぐ。どうしたのだろうと思っているうちに、なんと彼女は暖かな筈の毛布に手をかけると、二人の間に素早く作った隙間から一気に引き抜いてしまった。
「オイ、なまえ…… !?」
 一体何を、とメレオロンが口に出す前に、振り上げられた腕によってその背にばさりと毛布がかけられる。
 そして少しばかりひんやりとした重みが、メレオロンの胸にもたれかかってきた。
「えへへ。どうせなら、こっちの方が嬉しいなー……なんて我儘言ってみたり」
 ちらりと甘えるように舌を覗かせたなまえだったが、その声はすぐに「でも、冷たいかな?」と不安げなものに変わてしまう。
 突然の行動とあまりにも予想外な言葉の破壊力は凄まじく、くらりと甘い眩暈を堪能していたメレオロンだったがさすがにその言葉には慌てて首を振り返す。まさか!そんな!迷惑だなんてとんでもない!むしろ、人肌というには低めの体温を持つ自分で、お前が暖がとれるのか……という方が心配で!
 振り向く顔の憂いを一秒でも早く払いたくて、その目を真っ直ぐ見つめてふるふると首を動かせばなんとか言いたいことは伝わったらしい。
 再び照れ隠しの「えへへ」という声が聞こえたと同時に、ピンと張っていた彼女の背中からはくにゃりと力が抜けて心地よい重さが胸に戻ってくる。
 それだけでも愛しさが湧き上がってくるというのに、ふわりと揺れた髪から彼女愛用のシャンプーの香りを感じてしまえば、もう堪らない。
 ああもう、お前ってやつは本当に……!
 衝動のまま背にかかっている毛布の両側を掴むと、今度こそしっかり彼女の身体を……自分の身体と毛布で包み込む。ちなみに、毛布に沿わせて前へと回すしかなかった尻尾の先は、ちゃっかり彼女のふくらはぎに巻きつけてみた。



 結論として、人並み以下の体温でも彼女の暖となるには充分だったらしい。

 アルコールの効果もあってか、冷え切っていた身体が熱を取り戻したのはあれからすぐのことで、一度そうなれば後は順調に時間は流れる。そして、いつしか立場はくるりと反転し……つまり今度はメレオロンが、ほろ酔い気分となったなまえの首に顔を埋めながらうっとりと眼を細める番になっていた。
 首周辺に当てられる柔らかなヒゲがくすぐったいのだろう。
 時折漏れるなまえの甘やかな声は、メレオロンの意識を優しくあやす。

 暖かいし柔らかいし、いい匂いもするし……ああ、堪んねェなぁ。

 ちらりと目をやった窓の外では、白い雪がまるで街の明かりを掻き消そうとするかのように、絶え間なく降り続いている。こんな夜に、こんな暖かな部屋で、こんな緩やかな時間を過ごせること。今のこの状況がどれだけ幸福なことかは十二分に理解している。
 "人間"として生きていた頃も、"蟻"として生き始めた時も、こんな日が自分に訪れるなど……どうして想像できただろうか。


「なまえ……お前、あったけェなぁ……」


 夢見心地に呟けば、なまえがそっと蕩けそうな笑みを返してくれた。



(2014.12.30)(タイトル:銀河の河床とプリオシンの牛骨)
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