■ シュガーコート

(2014秋企画関連)

いつぞやと同じ穏やかな航路の先に待っていた国は、これ「以上ない」と表現したくなる程に見事な春に染まっていた。


「凄いでしょ。どのシーズンも好きだけど、特に今頃が好きでねぇ」
「……なんつーかよ、確か前もそんなこと言ってなかったか?」
「そうだっけ? まぁこんなに見事な光景を前に、細かいことは言いっこなしよ」
「あー……確かにな」

 見覚えのある人力車と運転手による出迎えに、緑に混じる赤や黄色を楽しんだ旅の記憶が鮮明に蘇る。けれどひとたび運転手がその逞しい脚を動かし始めたならば、たちまち視界は半年前とはまったく違う種類の華やかさに覆われた。
 船上から遠目に見ただけでも息を飲まずにはいられなかった優美さが、段違いに圧倒的でむしろ暴力的なまでの吸引力を持ち合わせていることにも次第に気がつく。
 そう。まるで……どこか別の次元に引きずり込まれそうなまでに、美しい。

 勿論ジェイルが生きていたあの国にも、メレオロンとして訪れた各地にも"春"という季節は存在していたのだけれど、それでもこの光景は別格だった。
 見知った白とも赤ともピンクとも違う、慎ましげながらも華やかに咲き誇る道を進めば進む程にメレオロンの口数は減っていく。そんな惚けた様子を隠しもしないカメレオンの横で、この旅行を企画したなまえ自身はどうしているのかと問うてみれば答えは簡単だ。
 同行者への解説も案内も……つまりどこまで耳や脳が機能しているのかあやふやなメレオロンの相手を全てベテラン運転手に任せて、道すがらの桜色に目尻を下げてはひとり満足そうに感嘆の吐息を漏らし続けているのだから、なんともマイペースなことである。


  ***


 黙ってしまったふたりを背後に感じながら、自国が誇るとっておきの光景に圧倒されている旅行者を運ぶ車夫は満足げに口角を上げ、少しだけ歩を緩めて振り返った。


「ほな、よろしかったら……この先の神社で一休みしてみましょか」

 裏山の大桜が見頃でっせと促せば、風変わりな客たちは互いに一瞬だけ視線を交わすと揃って勢いよく頷くから、これまた知らずと笑みが漏れてしまう。
 まるで山神や鬼の類と人の娘との恋を綴る御伽絵巻から抜け出たような恋人たちは、暫く見なかったうちにまた一段と距離を縮めていたらしい。

 車夫という仕事柄、客の顔を覚えることには少しばかり自信があった。
 加えて、魔獣を連れたハンターで、しかもその魔獣に自分の好きなジャポンの紅葉を楽しませてやりたいのだと直筆の文で依頼してくるような客だ。見送った際の満足げな表情と「またお願いします」という言葉が仮になかったとしても、到底忘れられはしなかっただろう。
 おまけに、ただの主人と従者という支配関係や利害関係と見るにはあまりにもふたりは親しげで、纏う空気は隠しきれないほどに甘やかだったのだ。

 性別と種族さえ埒外に置いてしまえば、依頼人の行動は大店の主が恋い慕う娘を喜ばそうと試行錯誤するそれらと非常によく似ていた。

 そんなわけで、繁忙期を前にしたある日、見覚えのある封蝋の依頼文が届いた時もさして驚かなかった。なにせ春は格別だ。紅葉を愛でる心を知る者が、この儚い花が咲き誇る一時に何も感じないわけがないのから。

 それに、何よりも。
 この美しく艶やかで、それでいてどこか物悲しさが切り離せない儚い花は──お伽話によく似合うのだ。

 商売用の愛想だけでない微笑みを湛えた車夫が普段なら案内しないような"穴場"に向かって車を動かし始めたのは、羽振りのいい上客に擦り寄ろうとした訳でも、更なる報酬を期待した訳でもなかった。つまり──ただ純粋に、この異類婚姻譚を地で行くふたりを好ましく思ったからに他ならない。


  ***


 スースーとして頼りなく、しかし湯上りの肌に纏うにはさらりと心地よい。
 相変わらず慣れそうもない浴衣という衣服に揃って袖を通しながら、異国の恵みがつまった夕食を有り難く頂いたその後のこと。

 少し引けば簡単に乱れてしまうだろう胸元にするりと手を入れて、内に潜む柔らかな膨らみを揉みしだこうか。それとも、ちらりちらりと覗く足首の破壊力など微塵も自覚していないような、罪作りな裾を割って床へ縫い付けてやろうか。
 普段とは異なる装いが新鮮なのは実のところお互い様で、恋人の浴衣姿を前に喜ぶのは彼女の専売特許ではないのだとばかりに張り切ったメレオロンではあったのだが。浮かれた心を押し隠しながら精一杯の何気なさを装ってなまえへと伸ばしかけた腕は、結論としては見事なまでの空振りに終わった。

 非日常に後押しされた「この普段以上に色っぽい恋人を、どのようにして愛し尽くしてやろうか」という期待も虚しく、今まさに始まろうとしていた恋人たちの甘い時間からするりと抜け出てしまった彼女は、ぱちぱちと瞼を動かすしか出来ないメレオロンを振り返ると(哀れな男の煩悩などまるで眼中に無いかのように)ふわりと笑った。

「夜桜、見に行こっか」

 ご機嫌な調子で部屋の外を差すなまえは、纏った服こそ違うもののいつもの彼女に違いなかった。つまり──珍しいもの、面白いもの、綺麗なもの、好ましいもの。思い付く限りの知識と刺激を贈ろうとする、メレオロンを喜ばせることが大好きななまえからのお誘いだ。

 正直なところ、これはこれで可愛くて堪らない。

 隣の部屋でスタンバイしているふわふわの布団の上に、この意外な程に健気で一途な可愛い恋人を今すぐ押し倒して、腰が立たなくなるまで愛してやりたくなる。けれども、自分を想ってくれている愛らしい彼女の期待に満ちた瞳を前に「外なんていいじゃねェか。そんなことよりこっち来いよ」なんて言えるわけがない。
 やがて。煩悩を乗せた小さな小さな溜息を押し上げたのは、肺に広がった僅かばかりの諦めと……どうにも気恥かしいような、くすぐったく暖かい感情だった。

「そりゃいいな……っと、ちょっと待て。そんままじゃ冷えるだろ。そこの羽織も着てけ」

 どこまで歩かせる気かは知らないが、このままでは意外と抜けたところのあるなまえが満開の桜の下で夜風に肩を震わせる展開一直線なのは明らかだ。もっとも、ハンターの肩書きに恥じないだけの身体能力を保持する彼女はそうそう体調を崩しはしない。しないのだけれど、それでも。

 そして案の定、こんな当たり前の言葉にすらあんまりにも嬉しそうな顔を返されるから──しっぽにまで伝わるムズムズを誤魔化すように、大きな一歩を踏み出した。



(2015.05.24)(タイトル:プルチネッラ)
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