■ 惹きつけられたのはもう随分と前

 飛行船を降りた先には、背格好も様々な人間たちが数名集まっている。
 けれどもメレオロンの瞳は、その内のたったひとりにしか向かわない。他の"蟻"たちも似たり寄ったりだ。嬉しくないという顔をしたり、あーあまた面倒臭い日々の始まりだと苦笑してみたりしながらも、なんだかんだと満更でもない様子で己の"パートナー"の元へと帰っていく。


 じゃあね。またな。一組二組と減り始めた場に波を立てないように、極めて自然な口調で「では私たちもこれで」「またどっかで会ったらよろしくな」と会釈して、ふたり並んで歩き始めてからどれくらい経っただろう。地図の上では数センチの距離をやけに遠く長く感じたふたりは扉をくぐるなりピタリと足を止め、向き合い──けれどその目は合わなかった。互いの目を見てそこに映る自分を認識し合うような、そんな前戯はここまでの時間で充分だった。競うように相手の身体に腕をまわし、我先にと唇を寄せて深く深く重ね合い、求め合い、与え合う。


「ん、おかえり、メレオロン」

 密着した身体はそのままに、ちゃんと瞳を覗き込めるようにと頭を動かし角度を整え、これ以上なく絶妙なタイミングで囁かれた本日二度目の「おかえり」は、メレオロンの胸を見事なまでに一直線に貫いていく。
 改めて言うようなものでもなく、この先もわざわざ伝える予定はないが、メレオロンは外でのなまえが好きだった。
 先刻のように只者ではないオーラを纏うハンターたちと並んでも彼女は霞まない。臆することなく背筋を伸ばし顎を引き、渡り合ってみせる。当然だ。彼女もまた、肩書きに相応しい自信と実力を持つプロハンターなのだから。もっとも、その姿が眩し過ぎて、自分のような存在が傍にいることを引け目と感じたこともあったのだが……今となっては過去のことである。
 ともかく、基本的には溜息が尽きない程にイイオンナななまえなのだが、背負う業が知られ過ぎているために傍にいる者として同情を受けることも少なくはない。確かに、彼女が寝食を忘れて本にかじりつくなど日常茶飯事だ。一度ページを開いたなら脇目も振らずのめり込んでいくし、そうなればメレオロンの言葉だって届かない。仕事でも、目の前の生者より一片の紙を平気で優先するし、書物入手のために非人道的な選択をすることもそれなりにある。
 けれどメレオロンは彼女の顔がそれだけではないことを知っている。
 たとえば、ふたりで過ごす時間に見せてくれるこのとろけきった眼差しもまたなまえの一面に違いはなく、しかもこんな顔をさせているのが己だという事実に湧き上がるような充足感を覚えるのだ。いっそ可哀想になる程に"大切なもの"と"それ以外"を区切ることに長けてしまっているなまえはその性質故にどこまでも素直で、控えめに言っても愛おし過ぎて辛抱堪らない。

「おう、ただいま……ンだよ、オレがいねェでそんなに寂しかったのか?」

 飛行場で聞いたよりもずっと甘い声に返すのが、同じくらい甘ったるい声だということくらい自覚している。
 両手だけでは飽き足らず、滑らかに動く尾まで使ってなまえを求めるくらいには自分だって余裕がないのだが、それでも素直で可愛い唇からあえて"聞くまでもない"言葉を言わせたいと思ってしまうのだから、とんだ色ぼけカメレオンである。
 連中には見せらんねェ姿だな。別れたばかりの元同僚(キメラ=アント)たちの顔と語り明かした夜を思い出し、ざまぁねェなと苦笑する。この場に彼らがいたのなら、にやりと口角を上げて見せつけてやれるのに──ほらな、ウチのなまえがイチバンだろ?



 ***



 その日なまえのメッセージボックスに届いた堅苦しく威圧的な文面を要約すると、今ではハンター協会管轄の自然保護区となっている元NGL自治区行きの飛行船にメレオロンを乗せないか、というものになる。
 現地での調査はとっくに終了したと聞くし、立ち会う必要があるならばもっと序盤に連絡が来ていただろう。なにより"蟻"の大半は今もあの地域から出ていないのだから、何事かを検証するにしてもサンプルには事欠かないだろうに。なぜ今この時期にこんなメールがと首をかしげて顔を見合わせた彼らだったが、そこから更に数十分の間に相次いだメールとコールの山を片付けた時には疑問は疑問ではなくなっていた。
 比較的変わり者が多いハンターたちの中でも"キメラ=アント"と契約しているような物好きはそう多くはない。だからこそ、該当するハンターたちは"なにか"あればすぐに情報を回し合う。今回のこれも例外ではなく、早々に連絡を取り合ったハンターたちは彼らの持つツテと頭脳を総動員し直ちにこの高圧的な要求の解読にかかり、やがて揃って呆れた叫びをあげた。なんてことはない、これもまたある種のくだらない実験の内なのだろうと見当をつけたのだ。
 高度な文明社会でヒトと生きることにした"蟻"たちがかつての居城に集まった時どう行動するのか。あるいはもっと露骨に、ハンターの庇護下で生きることにしたモノたちが再び同種だけになる機会を得た場合、反旗を翻す可能性があるか否か、というような。

「……ほんっとに、聞いてりゃどこもここも"上"や"中"の奴らってのは性格悪りィな?」

 パソコン画面を前に溜息を吐くメレオロンの後ろに陣取ったなまえは、プリンターが吐き出した紙の束を何度もなぞっている。
 一般人からすれば万能の象徴と言ってもいいような輝かしいライセンスを発行するハンター協会ですら、蓋を開ければ他勢力との危うい均衡を保ちながら存在しているのだ。自由なようで結局しがらみからは逃れなれない組織の更に内部ともなれば当然のことながら一枚岩ではなく、中を覗けば煩わしい派閥争いや個人間での諍いなどごろごろ存在している。結局、いくら先人が素晴らしかろうとも成長した集団とはそうなってしまうのだろう。
 というわけで、顔見知り以上の人間にハンターが多いとはいえ、メレオロン自身のハンター協会に対しての印象は必ずしも良いものばかりではない。実際、あの"魔獣"宣言が公布されてもなお一部の過激派は執拗に種そのものの殲滅を訴えていたし、混乱に乗じて実力行使に出た輩もいた。腹を割かれ四肢をもがれた姿でホルマリンのプールに沈められていた哀れなキメラ=アントたちの中にメレオロンや彼の友人たちが含まれていなかったのは、ただ単に運が良かっただけのことだ。
 だからてっきり、苦笑いを浮かべているなまえの口からも当然の如く反発の声があると期待したのだが……椅子の背越しに回り込んできた腕に振り返る間もなく「行ってみればー?」と囁かれて拍子抜けする。

「あそこって、行こうとすると上が煩いんだよね。あの生態学者のローズリーでも弾かれたらしいし。だから、せっかくだからさ、そんな難しく考えず"お墓参り"のつもりで乗ってみてもいいんじゃないかな」

 一瞬どころか数秒間、なにを言われたのか理解出来なかった。

「……ああ。そっか、墓まいり、なぁ? まぁ墓なんて大層なモンもねェけど。でもま……そういやあれっきりあの巣にゃ戻ってなかったっけな?」

 これが他の誰かならば「それ、普通なら"里帰り"って言うとこじゃねェの?」と突っ込むか、被害者と加害者を経験した存在に向けるには随分と皮肉めいた物言いだと眉を顰めるところだが、なまえの場合は勝手が違う。
 確かに、あの地では多くの命が消えた。けれど今さらりと"墓参り"という言葉を選んだ彼女の頭にあるのが誰のことか、分からないような浅い付き合いではない。
 師団長の"ジェイル"が築いた立場も、女王の兵隊蟻という役割も、忠誠という本能も、王になるという野心も、"メレオロン"として生き直すことを決めた時点で全て捨てたものだ。だから、つまり。

 今の自分にとって、あのNGLという場所は──

 養い親のことは随分と前に話したきりだというのに、特に思い出したふうでもなくこうして極めて当たり前のような顔でさらりと口にしてくれる辺りがなまえのなまえたる所以だろうか。などと、今日もまたガッチリと掴まれた心臓をきゅううんと乙女チックに鳴らすメレオロンの傍らで、これまたどこまでも平常運転のなまえがいつものように首筋や耳元をめがけて軽いキスを降らせ始める。


「なァ、こっち来てくれよ」

 椅子の背越しの僅かな距離すらもどかしい。
 後ろから回されていた腕をほどき、指先に口付けて誘えばなまえは素直にメレオロンの腕の中へと収まりにやって来た。警戒の欠片もなく寄りかかってくるぬくもりと、腿に感じる重さが心地良い。甘ったるく香る襟元とその先で主張する谷間が容易く覗き見れてしまうこの体勢は眼福極まりないものなのだが、それはまあ今はいいだろう。捕まえたままの指の付け根のひとつひとつに丁寧に唇を寄せれば、くすくすと零れる吐息が胸を湧かせる。
 こうしていると、触れている部分と触れていない部分の境目がどんどんあやふやになっていく気がするのだ。頭の中から尻尾の先まで、中も外も関係なく全身になまえの温もりが広がるようで、堪らない。今すぐ溺れてしまいたいとか食い尽くしてやりたいとか、乱れさせたいとか、そういった衝動より幾らか緩やかでこそばゆい幸福感に目を細める。夢見心地とはこのことか。

「なあ後でよォ、本を一冊選んでくんねーか? ……どうせなら、花よりそっちの方が"らしい"っつーかな?」
「ああ。そういうことなら任せて頂戴。どんなのがいいかな、まずはお好きだったジャンルとか傾向とかなんでもいいから情報を──」

 やはりと言うか、なんと言うか。後でという言葉など聞かなかったように司書モードに入りかけたなまえの口を慌てて塞いだメレオロンは、あのなァと語気を強めた。けれども口にしかけた続きは飲み込むしかできず、あのな、そのな、だからな、と溶けていく。とろんとしていた瞼はすっかり開ききり、夢のような気分はすっかり吹っ飛んでしまっている。
 あまりの幸福感に少々ぼんやりしていたとはいえ、思わず否定したのはまずかった。むしろ思い違いでもそれはそれでよかったのに、どうして否定してしまったのか。どれほど恥ずかしい意味を口にしたのかを自覚してしまったというのに、この上解説しろだなんてどんなひどい罰ゲームなのだろう。いっそもう、なかったことにできないだろうか。情けない期待を胸に恐る恐るなまえを窺う。
「うん?」
 無理そうだ。加えて、腰を捻り辛抱強く見上げられれば彼女に夢中な男としては根負けするしかない。これ以上なまえの目を見てしまわないよう試みながら、ぼそりぼそりと口を開く。

「……だからそのな? 確かに供えモンなんだが、そのよォ、どうせならお前の好きなタイトルっつーかお前らしい本っつーかな? いやまァ、結局はオレの自己満足なんだがな? どうせならお前って女を連れて行きてェっつーか見せてェっつーか……あー……なに言ってんだろな、悪りィ。要はよ、オレの区切りつーかな?」

 話せば話すほどドツボに嵌った。
 押し寄せる居た堪れなさに顔を覆ってみるものの、なまえの視線から逃れきるには少しばかり足りない。
 広げた手でも隠しきれない目玉をぎょろりぎょろりと彷徨わせかけたところで、嬉しそうに頬を染める恋人をうっかり捉えてしまったから大変だ。うっかり発言を誤魔化したかっただけなのに、うっかり目を奪われて、うっかりもっと顔が熱くなるなんて。いっそのことロマンチックが似合わないと笑い飛ばすなり、死後や幽霊の定義に注目するなりして話自体を明後日の方向に投げ捨ててくれたらマシだったのだが、生憎とその辺りの線引きが出来ないような女ではない。結局そのまま、言葉を忘れてただただ赤い顔のままでなまえと見つめ合う形になった。
 最終的には、怒らせることを承知の上で"姿を消す"という強引な手段に出て絡んだ視線のリセットには成功したものの、膝に乗せたままではこっそり立ち去ることは出来ない。決して逃さないんだからとムキになったなまえに抱きつかれた状態でいつまでも呼吸を止めていられるわけもなく、吐息に乗せて姿を戻せば子供のように頬を膨らませたなまえに鼻をつままれた。
「うお、ちょっ、やめっ、悪かったって!」
 予想よりは怒っていないらしいパートナーに内心ほっとしながら、じゃあまあ参加っつーことでとパソコンに向き直る。膝の上のなまえもくるりと向きを変えたのだが、彼女が見ようとするのは電脳の世界ではない。かといって、彼女が愛する紙とインクの世界でもないらしく……おい、オレの手元なんて見てて楽しいか?
「気付いたんだけどさ、こうやって打つとこ見てたらプリントしてもらわなくても読めるよね」
「ああ……なるほど。じゃあもっとゆっくり打つ方がいいな。初めからやり直すか?」
「ううん、このままで大丈夫」
 相変わらず恐ろしい目をしている。
「なあなまえ、これが済んだらあっちで休憩しようぜ?」
 どうせ聞こえないだろうと予想しながら、たった今浮かんだばかりの思い付きを口にする。案の定、カタカタ動かす指先に夢中の彼女からは僅かな反応も返ってこない。
 けれどきっと、送信ボタンを押してこの指を止めれば、またこちらを向いてくれるから。そうしたら、改めて誘えばいいのだ。今までだってずっと息抜きのようなものだったと笑われるかもしれないが、それはそれ。

 紅茶を淹れて菓子を広げて、ふたり並んでソファでのんびり過ごす午後。
 ああ、なんて平和で贅沢な時間だろうか。



(2016.06.24)(タイトル:White lie)
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