■ ここまでをあとどこまで

「じゃあ出てくるね。今日も食べてくるから」

 ひらひらと手を振るなまえが扉の向こうに消えたことを確認し、ほっと息を吐く。今日もちゃんと見送れた筈だ。
 いってらっしゃいとかける声に不満が滲んでいないか、見送る顔が引きつっていないか。
 醜い本心を何重にも覆い隠して、何の詮索もせずに送り出そうとする自分自身が嫌で仕方ない。どこに行くのか。誰と会うのか。何をするのか。最初の日に尋ねてしまえばよかったのに、「友達と会ってくる」とだけ告げた彼女が戻って来た時にはすでに日は沈みきっていた。いつもよりも危なっかしい足取りで、頬を染めて目元を潤ませて、すっかり酔っ払ったなまえは寝室には辿り着けたものの昼まで起きて来なかった。
 そんな日が二夜三夜と重なり、それでも問わずにいたのはビノールト自身だ。今更、何をどう尋ねられると言うのか。



「……入るぞ」

 ベッドルームどころかこの客室のどこにも応える者など存在しないのだが、ほんの僅かに残った罪悪感を宥める為だけに空に向かって声をかけた。
 二つのベッドは、いつもどおり一方しか乱れていない。夜をソファで過ごすことについてなまえには不満を唱えられたが、いくらベッド自体は別だとしても……最初の頃ならまだしも、寝息を聞きながら眠れる自信はもうなかった。
 どうも夜は眠りが浅くてな、あんたがいない時に寝なおしてるから気にするな。
 そう言うことで(不摂生は咎められたものの)なんとか納得させることが出来た。本当に、いっそ嫌になってしまう程に気を許してくれている。そして、あれは別にまるっきり嘘という訳でもなかった。現に今、こうしてシーツに刻まれた皺を撫で、数時間前の彼女がいた場所を覗き込んでいるのだから。


 ──ああ、今日もあった。


 よくよく目を凝らして見つけた髪を一本一本摘み上げ、そっと指先に絡めていく。
 なまえの髪。彼女の無防備さの象徴。艶やかで健康的な髪。けれど彼女を感じるにはこれだけではまだまだ足りない。いつものように大きな枕に顔を埋めて、深く深く息を吸い込むと嗅ぎ慣れた香りが肺いっぱいに広がる。
 そう。この匂いだ。
 トリートメントと皮脂が混じった芳香が、下半身を痛い程に刺激する。すっかりおかしくなった頭でベルトを緩め、荒い息でベッドに飛び乗れば後はもう……特筆に値するようなことは何一つ起こらない。ただただ、いつもと同じことを繰り返す。なまえの香りに包まれながら、なまえの身体があった場所で、なまえの名を呼びながら、なまえのかたちを思い描きながら、なまえの髪を巻きつけた指を一心不乱に動かすという、それだけだ。


 こうして、欲に身を任せていられる間はいい。けれど波が過ぎて我に返ってしまえば、途端に死にたくなるような虚しさに襲われる。なのに、それが解っていながら何度もこんな愚行を繰り返している。特に、今日のように出て行くだけでなく遅くなるとまで言われた日には。今この瞬間を、どこの誰とも知れない男と過ごしているだろう日には。知らない臭いに包まれて、疲れ切った足取りで帰ってくるだろう日には。

 まさか自分の留守中に連れがこんなことをしているなんて、頭の中で何度も何度も手酷く身勝手に犯されているなんて、彼女は思いもしないだろうし気付くこともない。
 たった一つしか使われないベッドのことを知るのは、掃除に入るメイドくらいなものだ。そして、片方だけが使用されているなんてことは男女の客室においては珍しくもないだろう。さながら、ありふれたバカンスと映っているのだろうか。

 ──本当のことを知る者は、たった一人しかいない。周囲から見れば何の問題もない日々にあって、たった一人。このオレだけが、どうしようもなく歪んでいる。

 込み上げてくる嗚咽のような笑いを垂れ流しながら、気怠い身体をバスルームまで引き摺り歩く。着いたところでまた、彼女の残像を見付けては懲りもせず縋ることになると解ってもいるけれど。


  ***


 こうして利用するようになり知ったことだが、ホテルのジムは随分と便利な存在だった。
 毎日入れ替わる利用者たちは基本的にお互いに不干渉を貫く。顔見知りもいなければ作る必要もない空間というのは存外楽なもので、少なくとも室内清掃の時間を潰すにはうってつけと言えた。まあ、ロッカーでぎょっとされることはあったが、言い換えれば不自由はそれだけで済んだ。そんなわけで、頃合いを見て汗を軽く流して部屋に戻り、後はまあ、ただただ適当に身体を鍛えたり念を練ったりして過ごしていればやがて待ち望んだ夜が戻ってくる。

 だが、その夜は望む形をしているばかりとは限らない。そして、どちらかといえばそんな時の方が多いのだ。



「ただいまー! お仕事取ってきたよー」

 見るからに上機嫌のなまえは、ソファまでやってくるとごくごく当たり前のように隣へと腰を下ろした。ふわりと空気が動いて肩にぬくもりが伝わる。鞄を開こうと動く肘も当たっているのだが、盗み見たところで一向に変わりそうにない顔色に気にしているのが自分だけなのだと思い知らされた。頭の中では好きなだけ彼女を淫らで愛らしい生き物として扱えるが、現実のなまえは身勝手な勘違いすら許してはくれない。

 取り出した書類を並べ始めたなまえからアルコール臭がしないのは好ましいことだったが、それを喜ぶより先に漂ってくる別の臭いに胸がきりりと痛む。
 また、この臭いだ。そういえば最初に気が付いたのはいつだっただろう。ホテルの設備とはかけ離れた系統のこの臭いを、いつもいつも、おまえは一体どこで付けているのだ。いっそ問いただすことが出来れば楽になれるのだろうか。けれど、そんなことを追求できるような日が来る気配はまるでない。せいぜい、気付いていない振りで身を固くしてやり過ごすのが関の山だ。

 外で髪を洗うような場合など限られている。おまけにいつも同じ臭いで帰ってくるなんて、誰に聞いたところで答えは幾通りも出ないだろう。蛇しか出ないと解っていながら藪を突ける程に自分は道化にはなりきれない。
 だから今夜もまた、分不相応な感情を持て余しながら極めて何事もない風を装って声を掛けてみる。

「まあ……詳しくは後で聞かせてもらうとして。どうせ長くなるだろ。先に一風呂浴びて来たらどうだ」
「あ、じゃあ乾かすのやってくれる?」
「ったくしゃあねーな。ツヤツヤにしてやるよ」

 途端に瞳をキラリと輝かせて駆け出していくのだから、こういう時のなまえは扱いやすいと苦笑してしまう。
 しっとりと水を含んだ洗いたての髪を喜んで差し出す彼女は、無防備な姿を晒しているという自覚がまるで欠けている。普通なら、ドライヤーの風に目を閉じる自分の後ろで、全てを任された殺人鬼が何を考えているのかと警戒するだろうに。それどころか、背後すら取らせないだろうに。
 けれど、初めての時から"こう"なのだ。念を押すことも不安な顔をすることもなく、あまりにもすんなり身を任せてくれたから、こちらの方が参ってしまった。「やっぱりプロにやってもらうと違うね!」なんて嬉しそうに微笑んでくれたから、どう反応すればいいか解らなくなった。


 ──ああ、だから、どうか。
 そんな臭いはさっさと洗い流して、オレの知るあんたでここにいてくれ。



(2016.10.01)(タイトル:いえども)
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