■ あばくのでなくわかりたいです

 ゆっくりとそっと、けれど躊躇いが形にならないよう思い切りよく、なまえの髪にあてたハサミに力を加える。
 たったそれだけで、直前までなまえの一部だったものが切り離されていく。浴室の床にはらはらと落ちていくかつてのなまえの欠片には目もくれず、代わりに手の中に残ったままのひと房にそっと唇を近付けた。なまえが、むず痒さと好奇心を綯い交ぜにしたような顔でビノールトを振り返る。
 やがてゆっくりと目を開いたビノールトが何事かを囁けば、なまえはほっと肩の力を抜き前へ向き直った。ゆっくりと、そっと、またビノールトの手に力が込められる。ちょきん。ちょきん。


 髪を切ってもらえないかな。なまえの言葉を理解すると同時にビノールトは首を左右に振っていた。
 なまえの突拍子のない言動にはもう随分と慣れたつもりでいたのだが、さすがに今回ばかりは常軌を逸しているとしか思えない。しかも依頼の形をとりながらも彼女に譲る気などないことは明らかだ。相手の困惑などお構いなしに小首を傾げ続ける強請屋のような彼女に向かって「……ま、前髪くらいなら」とささやかな提案を絞りだせた自分のことを心底褒めてやりたい。
「そうじゃなくって、この辺も。ここのところをもうちょっとすっきりさせたらって言ったのはあなたでしょう?」
「だってバランス的にその方が……いや、そうじゃなくて、確かに言ったけど結構前だろ。それにオレに切らせるって正気か!?」
 逆の立場で考えてみるまでもなく、切り裂き美容師と悪名高い相手にわざわざカットを頼む必要性など見当たらない。あったとしたらそれはきっと、自殺願望の成れの果てか、自分だけは大丈夫という根拠の無い自信に基づいた暴挙だろう。けれどなまえはそのどちらも否定した。

「根拠なら十分あるでしょ。ドライヤーもアレンジも上手なら、きっとカットも上手だろうし。髪質とか癖だって、きっともうあなたの方が詳しいよ」

 当たり前だ。なまえに気取られないようにそっと自嘲する。他の誰かに抱かれるなまえを苦々しく思いながらも、どうしようもなく興奮し胸を掻き毟りたくなるような焦燥と、ともすれば彼女に向かいそうになる衝動を必死で押さえ込み、せめて"今だけは""これくらいは"許されてもいいだろうという思いで何度も何度も髪に触れてきたのだ。触り心地も、癖も、香りも、何だって知っている。それでも最後の砦のように、この手に握ったハサミを彼女に突き立てることだけはしてこなかったというのに。そんな哀れな男のなけなしの矜持すら、この女は"友情"や"信頼"などという甘美で残酷な言葉の元に踏み躙ろうとするのか。

 ビノールトが耐え難い仕打ちに叫び出す前に、それでね……となまえが言葉を続けた。彼女にしてはやけに勿体ぶった調子に我に返って覗き込めば、なんだかいつもより顔が赤い。なんというか、もじもじしている。

「それで……えっと、あの、ね。よかったら、切るついでに能力使って"視て"ほしいなー……なんてっ……」
 渦巻いていた筈の怒りも悲しみも全てふっとんだ。
「……へ? それってあんたに向かって"切り裂き美容師"を使えっていう……?」
「ややや、そんな顔しなくてもいいでしょ! そりゃ確かに"視る"までも無いっていう弱さかもだけど、でも同じ弱いにしたってどの程度本当に弱いのかって知ってるのは大事でしょ!? これから先何があるかも分かんないんだし、これならいけそうだなーこれは任せられないなーって範囲がちゃんと判別できたらあなただって楽でしょ!? むしろあなたの方から言ってきてもいいような権利なんだから!」
 真っ赤な顔で詰め寄られ、ようやくビノールトは彼女の意図を汲むことができた。
 何ということは無い。一瞬甘いことを期待した自分が悲しくなるほど、なまえはなまえらしく明後日の方向を向いていただけだ。
「いや、おかしいだろ。そもそもあんた最初っから、物騒な場面はオレに全振りしてたよな。ちっとも動く気なかったよな?」
「だーかーらー最初の頃は本当に悪かったと思ってるの。で、色々頑張ってちょっと底上げできたから此処ら辺で情報開示しようかなーってね!」
「分かんねェな。底上げって何だよ」
「特訓に決まってるでしょうが、言わせないでよ恥ずかしい! 同じ"視られる"にしてもせめて始まりはマイナスよりゼロの方がましだと思ったのよ!」
「それでもゼロって自覚があるのかよ……つーか、特訓て」
「大変だったんだから。毎日のように道場通ってじーさま相手にひとり汗だくよ? そんでもって毎回毎回哀れみたっぷりの目で見送られるのよ? まあ、それでもなんとか及第点がついたから、こうしてあなたに言ってるわけだけど」
 最後にふふんと胸を張った姿だけで十分、その"及第点"を彼女がどれほど嬉しく思っているかを窺い知ることができる。そして仕事が無い日の彼女の行動、つまり意味深な外出の数々についても。
 道場で汗だくと言ったなまえが汗臭いまま帰ってきたことなどない。いつだって、知らないシャンプーのにおいをさせていた。ホテルのものとも違う、ビノールトの知らない──けれどいつも同じ香りを付けて帰ってきていた。パズルのピースがかちりとはまった後に現れた絵は、想定をはるかに超えた鮮やかさでビノールトの視界を眩ませる。
「……別にオレとしちゃ、ゼロもマイナスもそんな変わんねぇけどな」
「そんな身も蓋もないこと言われると立場が無いんだけど。あのね、これでも弱いなりに他でカバーする自信はあるのよ。でもだからって、あなた相手にマイナスをマイナスのまま差し出して踏ん反り返るほど顔の皮は厚くないつもりなの」
 途端に沸いた感情が、ビノールトの喉を震わせ吐息としてこぼれ出た。呆れたのではない。ただただ、胸がいっぱいで苦しかった。
 結局自ら下積みをばらしてしまうところも、頑張ったと素直に言わないところも、結果が誇れないものであると自覚している不器用さも、それでいてビノールトの欲しい言葉を残さず与えてくれるところも、何もかもがなまえらしくて眩しくて、堪らなく愛しく思えて敵わない。
 わざわざ省みるまでもなく、望まれて能力を使うことなんて初めてだし、"視る"ことを許されたケースだって初めてだった。いや、許しではない。彼女はそれを、許しを乞うまでもない当然の"権利"だと表現したではないか。全ては自由意志のもと。"視る"も"視ない"も自由とした上でなまえは彼女の"弱さ"を知ってみないかと提案してきたのだ。肝心のビノールトの胸中を置き去りにしているどころかまるで理解もしていないけれど、きっと彼女としてはフェアなつもりで。
 なんて身勝手で傲慢な女だろう。遥か高みに在りながら、さも相手も同じ高さに居ると認めるように振る舞うのだから。僅かの自覚も持たないままのあんたに甘やかされる身にもなって欲しい。
 抱きしめたい腕をぐっと我慢したビノールトは、代わりにくしゃりとなまえの髪を乱した。

「あんたってさ、見栄っ張りって言われるだろう?」
「あら失礼ね。あなただって、歯医者に行く前は念入りに歯を磨くでしょ?」

 だからそういうことじゃないだろ、とはもう言わない。
 日々の手入れの甲斐あって前以上につやつやと輝くようになった髪をひと房取りながら、「さてどうしてやろうか」と考えることの方が、体面を保つためだけの不毛なやりとりよりずっと有意義だろうから。



(2017.01.06)(タイトル:as far as I know)
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