■ 引き摺る過去が足に絡まっていく

 テーブルランプの明かりに浮かび上がった二つの影は、どちらともなくやがて重なり合う。この夜の下で今まさに無数の普通の恋人たちが過ごしているようなありきたりな行為への導入としては随分と面白みの無いことではあるが、案の定この部屋の二人もこうしてありきたりな行為へとなだれ込むことにしたようだった。これからこの部屋でどんな滑稽な接触が行われるのかなど、どんな甘ったるい時間が流れるのかなど、誰が確かめるまでもなく明らかなこと──かのように思われた。女が甲高い声を上げるまでは。
 その叫びはごくごくありふれた喜びの声などではなく、ありきたりな夜にはどうしたって不釣り合いな……苦痛に歪む"悲鳴"であった。



「ちょ、ちょっと待っ……痛い、痛いって! 力、入れ、すぎぃ!」

 わ、わりぃ……慌てて掴んだ手を離せば、濡れた瞳に睨み付けられる。さすがにこの後に及んでも、目尻に浮かんだ涙粒を快感の証と受け取る程おめでたくは出来ていない。バスローブに包まれた身体に先程からびくりびくりと力が込められることには気付いていたけれど、まさかそんなに痛がっていたなんて思いもしなかった。
 不快のサインを見逃していた自分の鈍さに泣きたくなるが、正直なところ今この場においては"そんなこと"よりもずっと気になることが出来てしまっていた。視界がぐんにゃりと歪むように、浮かんだばかりの思いに囚われていく。
 わ、わりぃ……。
 そう繰り返して、たった今離した手をゆっくりとなまえに伸ばす。そして再度、今度は意図を込めてぐっとその身体を掴んだ。指が、爪が、柔肌に食い込む感触に身体が熱くなり呼吸が上手く出来なくなる。

「こらぁ! だ…っから、そういうのが、痛いん……だって!」

 悲鳴を聞いても、残念だが今回は素直に止めてやれそうに無い。
 鋭さの増す瞳も、苦痛に歪む表情筋も、離せとばかりに向けられる手のひらも、罪悪感よりももっと甘い疼きを運んで来てくれる。イヤイヤと抵抗する女に構わず、か弱い両手を捻りあげて一思いに組み敷けば──そこにはもう見慣れた光景が広がっていた。
 ここからどうすればいいのかも、どうなるのかも、自分はよく知っている。初めにあるのは不快感と敵意で、それを殊更に手酷くへし折ってやれば、次は怯えと混乱が顔を出す。それでもどうにかして最善を選び取ろうという根性だけは立派なもので、この辺りでだいたいの女はぐずぐずに壊れた頭で懸命にそろばんを弾いて涙ながらの命乞いを始める。誰にも言わないから。ごめんなさい。どうか許して。それだけは。命だけは。殺さないで。お願い。お願い。お願い。どうか。そして自分はいつだってその可哀想で浅ましい願いを、女たちに相応しい形で切り刻んできた。
 ああ、なんということだろう。ただ忘れたふりをしていただけで、衝動も狂気もいつだってすぐ側にあったのだと気付いてしまった。骨の髄まで外道に染まった自分が、真っ当に生き直せると思っていたのだから愚かすぎて嗤えてくる。都合のいい夢がどれほど心地が良くても、所詮は夢でしかない。幸せな夢はいつだって途中で終わってしまうものだから、ならば今日この夜が夢の終わりだとしても……それは何一つ不思議なことではない。

「なあなまえ、わりぃな。やっぱりオレは、どこまでいっても結局──」
「……こっ、のっ! だから、この私を、甘く見てんじゃないわよ!」

 自嘲交じりに覗き込んだ先は、てっきり怒りと蔑みに満ちていると思ったのに。
 カッと見開かれた目にある色は知る限りのどれとも違っていて、思わず見惚れた瞬間に何やらシーツが引かれて腰に衝撃を感じ──くるりと立場が入れ替わっていた。
 つまり、ぱちぱちと目を瞬かせた時には既に何故かベッドに尻を打ち付ける形で押し倒されていた。信じられないことだが、この状態でそれをやれる存在など目の前の一人でしかないわけで……思考が現状に追いつくよりも早く、効きのいいバネに任せてなまえに体重をかけられてしまう。今ここで「重い」と言ったら怒られるだろうかと思ったのはただの現実逃避で、現実の自分は予想だにしなかった事態に何も言えず馬乗りのなまえを見上げながらただぱくぱくと口を動かすしか出来ないでいる。

「ふん。そりゃ、単純な力勝負じゃあなたには勝てないけど……やり様によっては"負けない"ことも出来るのよ?」

 そうか、この女は念能力者だった。ちゃんと"見て"おくべきだったと気付いたところで遅過ぎるし、仮に"見て"いたところでまさか手足ではなく胴体やリネンを使って反撃されるとは思えなかっただろう。

「押し倒されたくらいで観念してたら、命が幾らあっても足りないでしょ。フリーの女ハンターを舐めないでよね」
 豪快にはだけてしまっているバスローブにも、まるで隠されていない……裸体を晒すこの体勢にも、僅かも頓着する様子はなくなまえの瞳はただこちらだけを見ていた。まっすぐ振り下ろされる糾弾から視線を逸らすことも出来ず、ただただ報復の拳がいつやってきてもいいようにといっそ穏やかな思いでその時を待つ自分は明らかに狩られる側に立っていた。
 先程の凶悪な衝動はすっかりなりを潜めてしまい、もはや抵抗しようという気にもなれない。それどころか、罰するなら早くしてくれとすら思ってしまう。いや、その程度の発作的な爆発だからこそ"衝動"と呼ぶのか。ひとたび我に返ってしまえば、なぜあんなことをと呆れてしまうようなつまらない行動だ。
 変わりたいと思っていた筈なのに、変われると信じていた筈なのに、結局は同じことを繰り返している。何度光を感じても、ふとしたきっかけで簡単に闇へ戻ろうとする。自業自得の行いは、けれどもいつだって自身以上に彼女こそを傷付けると解っている筈なのに。

「すっごーく、痛かったんだけど」

 顔面を殴られることならとっくに覚悟していたが、まさか鼻をつままれるとは思いもよらなかった。
 堪らず空気を求めた唇に噛み付くようなキスを落としたなまえは、去り際で本当に噛んでいった。鈍い痛みと血の味と自分のものではない唾液の味を乗り越えて見上げた顔は、相変わらず不満そうに歪んでいる。目は覚めた?と問われて頷けば、なぜか彼女の眉間のシワが一層深くなった。

「もったいないでしょーが」
「……へ?」
「あなたに"そういう"傾向があることは知ってるけどさぁ、でも、そろそろいい年だし損得でものを考えよう? "こういう"ことならいつでも出来るでしょ?」

 痛めつけるなら、酷いことをするなら、いつだって出来るでしょう?
 たった今その歯で傷付けた唇に触れながらそんなことを言う。そんなふうに触れないでくれ。今更そんな温もりは望まないから。そう切り捨てたいのに、決して言い張れないのだから本当に自分が嫌になる。けれど、こんなふうに窮することすらなまえにとっては瑣末なことなのだとやがて気が付いた。気が付いてしまった。彼女が言おうとすることはその前の部分で全てであり、自分の意見や同意なんてものは最初から求められていないのだ。

「──でもね、"それ"はいつでも出来るけど……一度でも"それ"をしちゃったら、そこでお仕舞い。せっかく、今ならこんな感じでラブラブいちゃいちゃのとっておきのフルコースが味わえるってのに、そういう機会をみすみすぶん投げて残飯を漁ろうってのは……大損だと思わないかい?」

 言葉も忘れて見上げるしか出来ない先で、なまえはぺろりと唇に付いていた血を舐め取る。バスローブを申し訳程度にひっかけただけの彼女は挑発的で扇情的で、どうしようもなく綺麗だった。
「……け、けどよ、その、痛かっただろ。普通は、こんな野郎にはもうチャンスはやらねーぞ」
「だから、甘く見ないでって言ってるでしょ? これくらいでいらないって思うんなら、最初から欲しがったりしないから」
 てっきり力任せに抑えつけたことに対してだと思っていた言葉が、まさかそこに掛かっていたとは今の今まで気が付かなかった。もっと言えば、聞いた今ですら信じ難いし、きっと何度聞いても理解に苦しむだろう。

「まあでも、食べ慣れてないなら無理はしないことね。食卓に花を添える談笑も批評も、食べ合わせを気にするのも、テーブルマナーを知ってからで充分だし。そりゃ勿論いっぱい求め合って与え合って、混ざり合えたら最高だけど……ああそうだ、優しく出来そうにないって言うのなら、とりあえず"酷くしない"ようにだけ留意してみたら?」

 あんた、一体何の話をしているんだ。思わず立場も忘れて呆れてしまう程に場違いで能天気なことを言い放ったなまえは、驚くべき切り替えの早さで有言実行をと急き立て始める。

 すりすりと頬が胸に押し当てられ、彼女の重さが腰より上にも伝わって来る。ぴったりと密着した身体は暖かくて、その熱と漂ってくる香りに女の生を再確認する。おそるおそる促されるまま、今度は充分気を付けながら見るからに脆い身体へと腕を回せば、なまえが小さく微笑み吐息を漏らした。お返しとばかりに柔らかな唇で腹や胸部をくすぐられて、それだけで充分堪らないというのに更に、醜い傷跡の上をしっとりと濡れた舌が這っていく。時折ちゅうちゅうと音まで鳴らされ、慌てて見下ろせば驚くほど優しい瞳と目が合ってしまった。
 くすぐったいのだがともごもご口を動かした自分の顔は、きっと情けないものだっただろう。けれどそれを笑う声はいっこうに聞こえず、代わりにリップ音が執拗に繰り返され、しかもだんだんと近付いてくる。胸板に手を当てながら鎖骨に何度も、肩に腕を回し抱き付きながら首筋にも。そして、更に身体を伸ばして耳元に。そうなればもうなまえに完全に抱き付かれている体勢なわけで……どうしようもなく跳ね回っている心臓のことは、ぴったり触れ合う柔らかな乳房を通じて彼女に伝わっているに違いない。
 けれど、本当に"それどころではない"場所は他にあった。何を隠そう、彼女の腰が置かれた腹より僅かに後ろで、身体中できっと今一番正直な男の部分が先程からずっと熱をもっている。はだけてもおらず触れてもいないというのに、すでに痛い程に張り詰めてしまっているそこをどうか知られませんように、という思いも虚しくなまえの太ももがそっと掠めていった。
 ……たまたまだ。身体を捻った拍子に、ふと当たったに過ぎない。ばれてなどいない。
 そんなふうにとっさに上擦りそうになった息を懸命に耐えたところまではよかったが、一度、二度と何度も続けて、しかもだんだん太ももだけではなく際どい部分で触れるようにされてしまえば、意図的だと気付かないわけにはいかなくなる。

「ッ……本当に、あんたって女は!」

 本当に、求めてくれる気なのか。与えてくれる気なのか。
 ──ならば、オレも試してみよう。傷つけるのでもなく、痛めつけるのでもなく、泣かせるのでもないやり方を。うまく出来るかわからないけれど、それでも。あんたがオレを欲しがってくれるように、あんたを欲しがってみたい。あんたが与えようとしてくれるように、あんたに与えようとしてみたい。
 だって壊すことはいつでもできる。終わらせることはいつでもできる。だったらあんたが言う通り、この好奇心や自己愛にも似た悪意はもっと後に残しておこう。どうしようもなく修復不可能なところまで壊れてしまってから試すのでも、遅過ぎはしないだろうから。

 髪を梳いていた柔らかい手を絡め取って、首筋へのキスを繰り返していたなまえをそっと引き放す。けれど不満げに見上げてくる女を安易に宥めるわけにはいかない。今度こそ自らの意思で、その唇を迎えに行くのだから。
 今度は力加減を間違えたりはしない。なまえがしていたように、指の腹で丁寧に肌を……どくりどくりと命を巡らせる血管やほどよく筋肉の付いている肉や滑らかな皮膚の感触を確かめながら、どこもかしこも柔らかい女の中でも一等柔らかい唇を味わう。そうして湧き上がる欲求のままにその身体を掻き抱けば、拒まれないどころか彼女の方からもより一層の熱が返された。


 この手で何をしてきたか、この手が他の女をどう扱ったか、知らないわけではないだろうに。漏れる甘い吐息にすらみっともなく喰らい付くこの口が、何を食べてきたのか知っているだろうに。それでもいいのだと求めてくれるこの熱に、いっそのことぐずぐずに溶かされてしまえれば楽になれるのだろうか。



(2016.10.18)(タイトル:いえども)(この後ももちろん失敗続き)
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