■ 難攻不落の真偽を問う

「いやいやいやいや、ダメだろこれ。さすがにダメだろ」

 あれだけ自分で動いておいて。楽しんでおいて。
 それで何かの間違いだなんて、一体どの口が言えるというのか。そんな愚かさはもちろん自覚している。当事者としてとてもとても言えた分際ではないけれど、しかしこの場でそれを言えるのは自分だけなのだから仕方がない。言うしかない。だってもう一人の当事者は、この状況の異様さなどまるで気にしていない様子でのんびりとストローをくわえているのだから。ちゅーっと吸い上げられるグラスの中身はもう殆ど残っていないけれど、信じられないことにそれには初めから一滴のアルコールも存在してはいなかった。つまりこの「酒が入った勢いで」という定番の言い訳すらかなわない現状は、あまりにもお粗末で、掛け値なしに最悪で、どうしようもなく陳腐だった。

「うっわー。ヤったあとに女のコ放り出してひとり頭抱える男って本当にいたんだ」

 ひどーい、というのは言葉だけで表情も口調も余裕に満ちている。すっかり血の気が引いてあたふたするばかりのこちらを見つめる眼差しは、極力好意的に捉えようとしたところで……面白がっている者のそれでしかない。やはり最悪だと思いながらも、どうでもいい事柄ばかりに口が滑る。

「……"女のコ"?」
「そこ突っ込まなくていいから。あ、これ洒落じゃないからね」
 ……ああ、聞かなかったことにしたい。
 突っ込んだり突っ込まれたりしていたのはまさに先程までの……なんてうっかり卑猥な感触を思い出してしまう前にブンブンと頭を振れば、何を誤解したのかなまえが不満の声を上げた。この後に及んで、手近なクッションを抱えて拗ねてみせるというあざとさを発揮する女に眩暈がする。お前それ絶対、似合うと分かってやってるだろう。
「もー、そんなに落ち込まなくてもいいじゃない。むしろ、ちゃんと"出来た"んだから喜んでおこう?」
 ……頼むから、いちいち妙な言い回しをするのはやめてくれ。本当に、聞こえなかったことにしたい。
「ひょっとして一人脳内反省会中? やだなあ、別にそんな問題はなかったよー。力加減とかタイミングはさ、まあ、ほら、別に失敗って程じゃないし。ああいうのは何度も回数重ねて合わせていくってのが醍醐味のうちっていうか、ね? 気にするようなことじゃないって。はじめから完璧目指すのはよくないよー……って私が言えたことじゃないか。しょっぱなで痛がったのは、うん……まずかったね、ごめん。でもでも、アレでへこまず持ち直して、最終的に三回ってのはすごいと思って──」
「だあーーー待てって! 今! そういう話はしてないから!」
「じゃあ何が問題なの」

 ひとり明後日の方向へ突き進むなまえを無理やり遮った筈が、悪びれもしない口調とクソ生意気な視線に反撃されて呼吸を忘れる。わざと言ってやがったなと気が付いたところでもう遅過ぎだった。
 何がって問題か、だなんて。だって、そんな、決まっている。こうして生かされている身であんたに手を出すだなんて、許されるわけがない。
 誰にと問われて苦々しい思いで協会の名を出すと、今度は沈黙を返された。そして、いい加減に沈黙の辛さに耐え切れなくなった頃に、ようやくその唇が音を紡いでくれた。しかし、なぜだろう。深く長い溜息とともに響いたのはそれまでとはまるで違う、やわらかく穏やかな声だった。

「あなたって、やっぱりって言うかなんて言うか。そういうとこ凄く真面目よねー」

 困ったように眉をしかめて(ほんの少しだけ泣き出す直前にも似ているような気がした)、クッションの向こうから腕を伸ばしてくる女の意図など自分にはまるでわからない。
 けれど場を保たすための戯言を吐く前に、彼女の身体に巻きつくリネンの白が今更やけに眩しく見えてしまい息を呑む。艶やかな髪と滑らかな肌と清潔な布地を纏った女の姿にふと、先日の仕事で見た絵を思い出したのだ。清らかな白を纏った天上の女。屋敷の主人が誇らしげに告げたタイトルも画家の名ももう忘れてしまったけれど、罪を許し安らぎを与えるという女が纏っていた白だけは印象に残っている。
 そんな記憶の輪郭をぼかすように現実の女の指が頭に触れていく。どうしたと問うことすら出来ず、慣れない感覚をただただ身を硬くしてやり過ごす。彼女の髪とはまるで異なる、短くて硬い髪……触り心地なんてちっとも良くないだろうそれを何度も撫でるように梳きながら、なまえがそっと唇を開いた。やわらかさの中に色を含めた、先程までの濃密な時間を引き摺るような甘い声が鼓膜を震わせる。
「あんまり考えすぎるとハゲちゃうよー」
 ……ああそうだ、これはこういう女だった。
 うっかり開いた記憶の扉を、連想した光景ごと慌てて閉じる。ついでに強固な鍵もかけてしまおう。
 感傷に浸りかけた数秒前の愚かな自分のことはこれ以上は振り返らないことにして、目の前の"現在"に集中しなければと息を整える。けれども、今も触られているせいでざわつく心がなかなか落ち着いてはくれない。
「うん、今のところは大丈夫かな。 ……でね、あなたは深く難しく考え過ぎなんだって。ああいうのは軽ーく聞き流してたらいいって言ったでしょ。それに、使用人でも下僕でも道具でもなくて、"友達"なんだから。くれぐれもそこのところ、お間違いなく」
 とりあえず頭皮の心配から離れろと言うべきか、おまえは本当に脳天気に考え過ぎているぞとたしなめるべきか。けれども結局のところは、最後の部分が何より衝撃的だった。おまえ、そこの部分の自覚があったのか、という事である。
 普段の言動を鑑みるまでもなく、なまえの言う"友達"が世間一般でのそれと幾らかずれた意味を持つことなど明らかであり今更なことだった。むしろ、使用人と下僕と道具との間を彼女の気分次第で行き来するような都合のいい存在という認識に落ち着いてさえいたのだが……そうか、本人的には別格のつもりだったのか。
 うん、全く納得がいかない。


 ──いや、待て。そこじゃない。


「"友達"でもやっぱり、こういうのはまずいだろ!?」
「えー……でも、こーいうことこそ"友達"としかしたくないじゃない?」
 また、わけの解らないことを。
 しかしそれよりも反射的に「いやいや、そこは普通は恋人とか好きな相手とか……」と返してしまった自身に嫌悪感が湧き上がる。こんな狂人が"普通"を語るだなんて、まるっきりタチの悪い冗談だ。
 けれども、上には上がいた。「恋人だったらからだが合わないと致命的だけど、"友達"だったらそれでも続いていられるでしょ?」「してもいいし、しなくてもいい関係なんて最高じゃない?」などと言い切る女こそ、なんて悪趣味なのだろうと今度こそ言葉を失う。別格どころではない。おまえにとっての"友達"ってのはなんでもありの万能ワードなのか。それとも免罪符か何かなのか?

 何から何までおかしいけれど、中でも一番の問題を挙げるとするならば、それはきっと。


「だいじょうぶ、だいじょうぶ。私も結構丈夫な方だし。でさぁ、それはいいとしてどうだった? 尤もここまでやって『やっぱり死体の方が良かった』って言われたらへこむんだけど。あ、22歳のからだと比較するのは論外だから」
「おいこら……って、えっ……待てよ、それはつまりだな……あんたとしてはまたヤらせてくれる気があるってことで……?」
「だーかーらー、そういう言い方しない。お互い気持ち良くなるって事でいいんだから、変に自虐的な言い回ししないのー」
「けどダメ出ししまくってたじゃねーか。それに、その……実際のとこ良く…なかっただろ……タ、タイミングとかも、その、全然……」


 つい"今まで"のように扱いかけて、何度悲鳴を上げさせたか。今は白に隠されている腰や肩にも、赤黒い痕が幾つも残っているだろう。もともと自分は"こういうこと"自体が久しぶりで加減なんてろくに……いや、そうじゃない。そもそも、どうしようもなく間違っているとだけは自覚しているけれど、かといって"正しい"ヤり方なんて最初から知らなかったのだから。壊していい女しか、知ろうとしてこなかったのだから。
 生きた女を無傷のまま扱うことの難しさに落ち込む自分以上に、彼女の方こそこんな性根からいかれた男に付き合う馬鹿馬鹿しさを実感しただろうに。なのに。
 いやー…確かに最初のアレやコレは本当に痛かったしフォローのしようもないね。ほらほら今もこれ以上肩が上がらないのよ。冷やす程じゃないけど、この状態でシャワー浴びるのはまずいかなぁ。
 首をさすりながら苦笑する女は、それでも懲りた様子を見せはしない。
「せっかくだし次は、もっと……ふわぁ、ねむ。ああ、けどさすがにもう寝たいかなぁ……」
「ならさっさと寝ちまえ」
 朝になればあんたの気も変わるだろう。冷えた頭でなら、この夜の愚かしさにもすぐに気が付けるだろう。
 言いたい言葉を飲み込んで「ほらよ」とブランケットの端を投げれば、なまえはすぐさま広げて嬉しそうにくるまった。……なんとなく、白に包まれたなまえを見ていたくなくて壁際へと視線を逃がす。いっそ、この白であんたこそが救われたらいいのに、なんて感傷的なことを思った訳ではない。ただ、なんとなく胸が苦しくて、見ていられなくなっただけだ。何から何まで、おかしいことだらけで嫌になる。こんなふうにただの他人に向けて伸ばせる腕があるのなら、誰より先に傷付いた自分こそを抱きしめればいいだろうに。

「それによぉ、あんたのその理屈で言えば……そもそも二度目なんてない筈だろ?」

 すうすうと聞こえる寝息に安堵しながら、返事が無いことをいいことに一度は呑み込んだ問いをそっと口にしてみた。
 からだが合わないと致命的、だから恋人とはしたくない。そんなふうに言いながら、合わなかった筈の"友達"とはより良い"この先"を模索出来るのか?


 一番の問題を挙げるとするならば、それはきっと。
 平常運転からすでにどうしようもなく支離滅裂を突き進んでいるような、あんただ。



(2016.10.13)(タイトル:いえども)
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