| ■ 下 「チッ。なるほどなァ。そんでアンタは晴れてこの女の奴隷ってわけだ……クズが命拾いしたなァ、俺ならそんな犬っころみてぇなマネはゴメンだぜ。そんなにテメェの命が惜しいかねェ。つーか俺なら、頼まれてもいらねーけど。さてはよっぽど上手く取り入ったんだなァ?」 正直なところ、こんなことを言われるのは今更だった。むしろ、他の誰に言われるまでもなく自分自身が一番よく理解していることだった。吐かれた唾にはさすがに眉を顰めたものの、概ねいつものことなので差し当たってどうこう言うこともない。それ以前に、まあ、ごろつきの間では挨拶のような挑発だから。 けれど、そんなありふれた挑発でも、なまえの逆鱗に触れてしまったら別である。 実のところ、こう見えてこの女は意外な程に好戦的なのだ。いや、時折見せる妙に偉そうな態度を思えばプライドの高さは簡単に想像がつくから、意外でも何でもないのかもしれない。無闇やたらと突っかかるわけではないが、ある種の意識には恐ろしく敏感だ。 「──それともなぁに? あなたは私の持ち物を踏みにじれるような権利をお持ちなのかしら? この私を全否定できるようなご立派な人間なのかしら?」 それにしたって今日はよく燃えている。これは簡単には収まらないだろう。 尖ったオーラを纏いながら、浮かべた笑みはそのままに怒涛の勢いで唇を動かすなまえを見てあーあと天を仰ぐ。こういう時の彼女は、ある意味とてもわかりやすい。いや、"下々に対して"わかりやすくあろうとしている。だからこうして何に憤ったのか、どこが不快だったのかを丁寧に告げる。けれど、こういう理由で今からあなたを叩きのめしますよという講釈自体が偉そうなので、大体の場合において火に油を注ぐかたちにしかならない。 この後の展開が手に取るようにわかってしまう自分が悲しい。 同時に、少しだけ嬉しくもある。たとえ彼女の怒りがビノールトという人間への侮辱についてではなく、彼女自身を愛おしむ故のものだとしても、それでも。 そんな風に悠長に思考している間にも、予想だにしない相手からの挑発にすっかり逆上した男が迫ってきていた。 「──おっと。残念ながら、おまえの相手はオレなんだよな」 なまえに向かって振りかぶられた拳を叩き落としながら、愛用のハサミですかさず髪を一房切り落とす。男の髪など美味いものではないから本当に必要なほんの僅かな量だけを口に含むのだが、そこまで意識が回らないらしい目の前の男はただ食われたという事実に青ざめて身を強張らせた。まあ、無理もない。わざわざ当たりを付けてやってきたということは食人鬼の評判など当然調べていただろうから。けれど聞き齧った筈のそれを今の今まで失念していたとしたら甘過ぎる。 今更警戒してみせたところでなまえが言ったように「でも残念もう遅い」んだよ。そんな程度の気構えで向かってくる連中なんて、今まで散々返り討ちにしてきたんだからな。 けれどこうしている間も肝心の彼女はといえば、間一髪で守られた身のくせに微塵も狼狽えていないのだから……この図太さが時々羨ましくなる。あくまでも自分のペースを貫くなまえは不遜な態度を崩すどころか凄みの増した笑顔を貼り付け、慄く男を前におそらく今日一番の悪癖を披露していた。 「あーあ。せっかく分かりやすく"わたしのモノ"って書いてあるのに、暴力まで振るおうとするなんて本当に付ける薬もない残念さだこと。仕方がないから、愚かなあなたにもわかるように"主人と奴隷のルール"でその鼻をへし折ってあげましょう」 あでやかというか、何というか。こういう時の彼女は本当に生き生きとしていて、しかもそれが怖いくらいにきれいだからタチが悪い。 「"奴隷"ってのはね、"主人"の手足であり剣であり盾でもあるの。だから──あなたが侮った"私の剣"がいかに有能かを、今からたっぷりと教えてあげる」 「……ま、そういうわけだから。あっちを殴らせるわけにはいかねぇんだよ」 ほら、やっぱりこうなった。溜息ものの展開な筈なのにやはりというべきか、そう悪い気分ではない。 なまえの期待に沿うように踏み出せば、男がなけなしの闘志を振り絞るように睨みつけてきた。けれど、ぶれぶれのオーラが男の心中をしっかりと表してしまっている。だからきっと今日は、我儘な"ご主人様"を待たすことなくすぐに終われそうだ。 かくして。 予想通り、徹底的に戦意を喪失させるまでそう時間はかからなかった。 へし折られた鼻を地面に埋めながら浅い息を繰り返す男の元に、すっかり気が晴れた様子のなまえがしゃがみ込む。 「でも残念。私の"これ"は奴隷でも犬でもないの。仮にあなたが泣いて犬にしてくれと請うたとしても、私はあなたなんていらないけれど……このひとなら犬じゃなくても欲しいのよ」 これからは喧嘩の売り方には気を付けてね。そう追い打ちをかけるなまえの顔は、もういつもの飄々としたそれである。本気を多分に含んだごっこ遊びに満足したらしい彼女が立ち上がったのを合図に、握っていたハサミをしまう。 並んで歩き出せば、もうそれきり男を振り返ることはない。 今もまたあの小っ恥ずかしい文字が自分を差しているのかと思うとなんとも言えない気持ちになる。けれどわざわざ"視て"確かめる気にもなれないし、何か言う気にもなれない。何を言ったところでなまえが無自覚なのだから。そして、無自覚のくせにあんなことばかり言ってくれるのだから。 ……いや、嘘だ。本当はわかっている。本当は、無自覚というのは間違いではないが正確でもない。いちいち言葉にされるような場所よりももっと根源的な場所で、この女はとっくに腹を括っているのだから。そんなこと、もうずっと前から知っていた。抱いた覚悟のかけらも見せないまま狂人相手に手を伸ばしてくるような肝の据わった女を相手に、上澄みをつついたところで何になるだろう。敵うわけがない。 「さて、ひと仕事したらお腹すいちゃったね。何食べよっか」 「……あんたは何もしてねえだろ。オレばっかり働かせて踏んぞり返りやがって。せっかくやり過ごそうとしてたってのに」 「だってあーいうのって本当に腹が立つんだもん。気安く奴隷とか言っちゃうしさ。私、持ち物は大事にするタイプだし、見る目にだって自信あるのに」 やはり論点がずれている。「そう拗ねるなっての」ぷうと膨れてみせるあざといなまえの頭をぽんぽんと撫でればくすぐったそうに微笑まれた。やっぱり、あざとい。けれどもきっと、そのあざとさにあっさりと釣られてしまう自分こそが一番始末におえない。 「あー……腹減ったっていうより口直しがしてえな。まあ、あっちの通りまで行けば何かあるだろ」 橋の向こうを指差して言えば、嬉しそうになまえが頷く。いいね、じゃあ早く行こうよ。せかすようにするりと腕に触れたなまえが放った言葉は相変わらず自由で我儘で、年長者に対する敬いや遠慮なんて全く感じられないのだけれど、代わりとするには十分過ぎる程の肯定がそこにはある。ずっと得られなくて、いつしか求めることすら諦めていたものを、ごくごく当たり前の顔をして彼女は与えてくれるのだ。それどころか、ビノールトという個人を欲しがってくれるのだ。 柔らかい腕が絡められた場所があたたかくてくすぐったい。オーラだけならまだしも、こんな風にされたらもう……念能力者どころか、道行く人の目にも「mine」の文字が見えてしまいそうだ。熱くなった頬を持て余して言葉を探していると、なまえがまたくすくすと笑みをこぼした。何もかもお見通しとでも言うかのように、触れ合う箇所にぎゅっと力が込められる。 実のところ、先ほどはついうっかりと「こんなふうに言ってもらえるなら奴隷や犬でもいいなぁ」なんて思ってしまったのだけれど撤回しよう。せっかく許されたこの距離を、今更どうしたって手放せるわけなどないのだから。 (2016.11.22)(タイトル:いえども) [ 戻 / 一覧 / 次 ] top / 分岐 / 拍手 |