■ 01 ■甘ったるい常套句■ その日、芥辺探偵事務所の扉を叩いたのは確かに客ではあったが、探偵事務所における本来の客である依頼人ではなかった。 決して新しいわけでも清潔感に溢れているわけでも大手テナントが入っているわけでもないビルの階段を臆することなく登りきった挙句、躊躇する素振りも見せずノックを響かせ、出てきた大学生のバイト事務員に愛想を振りまき、極悪人という言葉が似合う所長にひらひら手を振る女性。そんな彼女の目的がありがちな浮気調査や失せ物探しでないことなど誰がどう見ても明らかだろう。 勧められたソファに腰をおろしながらも、彼女の視線は右に左にと忙しい。けれども期待に満ちていたその表情は、みるみる落胆のそれへと変わった。 やがてお目当の姿を見つけることを諦めた彼女は、傍らの探偵助手にもの言いたげな瞳を向ける。 「さくちゃん……」 確実に年上である筈の女性からの、年長者の貫禄も威厳も感じさせないおねだりだ。 うるるんと見つめられて探偵助手こと佐隈りん子の顔には苦笑が広がるが、けれどもそれは決して嘲笑や侮蔑によるものではない。 ああもう、可愛いらしいなぁ。彼女の膝の上を狙い死角からにじりよらんとする悪魔・アザゼルをぐしゃりと潰しながら、佐隈ははいはいと朗らかに応えた。 「今日も来てもらう予定だったから、大丈夫ですよ」 ちょっと早いですけどいいですよね?という言葉を込めて佐隈が振り向けば、視線を受け止めた上司からこくりと小さな頷きが返される。 「すぐに呼んできますから、ちょっとだけ待ってて下さいね」 やったぁと歓声を上げる彼女のすぐ横、再生したての肉体を引きずって懲りずに彼女に近寄ろうとする悪魔をもう一度ぷちんぶちりと潰してから、探偵助手であり新人悪魔使いである佐隈は召喚部屋へと歩き出した。 *** 「まったく毎度毎度、これだからあなたという人は。私の方にも支度が必要なのですから、これでは何の為に連絡手段があるのかと……って聞いているんですかこのビチグソ女がァ!」 「はいはい。仕方ないなぁ、カレー大盛りにしておきますからそれでいいですよね」 「お、大盛りですか……それならまあ、仕方ないですね、うむ。いい心がけで──」 いい心がけですねと続く筈だった声は不意に途切れ、同時に絶えず鳴っていたぶぶぶという羽音も止む。 ──ぽふん、ぽて。 重力に従い、小さな悪魔は事務所の床で不本意なひと跳ねを経験する羽目になった。 「……なまえさん」 「やーん今日もプリチーですねぇ! こっちこっち、早く早くー!」 ああなるほど。だからですか。 どうりで予定よりも早い召喚なわけだ。どうりで歯磨きについてしつこく尋ねられたわけだ。どうりで消臭剤をぶっかけられたわけだ。どうりでこの女がいつになく機嫌がいいわけだ。 じゃあカレー用意しますねとコンロに向かう佐隈の後ろ姿を追うこともせず、ベルゼブブ優一はソファに向けて平たい足をゆっくりと踏み出す。 まったく。悪魔に向かって、それもこの高貴な自分に向かって気安く「抱っこさせて」とは何様のつもりなのだろうか。 契約者でもないくせに、そんな安心しきった顔をして、そんな嬉しそうに笑って……本当に、滑稽を通り越していっそ腹がたつほどに能天気な顔をして。 見開いてしまった目を誤魔化すように殊更に半眼を意識して、出来る限り面倒臭そうに聞こえるように言葉を吐き出す。 「おやおやなまえさん、一体何かと思えば急な呼び出しはあなたのせいですか」 「だって待ちきれなかったんですもん。ねえねえ、早く、ほら」 ソファの上で両手を広げる彼女の膝の上。柔らかそうな太ももが事実柔らかいことはもう知っているのだけれど、それでも取るに足りない人間風情とはいえ仮にも女性なわけで。まして、ここは事務所で、生憎なことに所長も助手もしっかりいるのだから……そうだ、こんな状況で「おいで」と望まれたからといって気安く乗りに行ける程に安い自尊心は持ち合わせていない。けれどもこのプリチーな見た目でそんなことを気にしている自分の方が、側から見れば滑稽なのかもしれない……などと迷惑そうな顔の裏で思いを巡らせている内に彼女の口からトドメの独り言が漏れ出した。 「お土産に、カレーパンを持って来たんだけどなぁ」 「それはいい心がけですね。褒めて差し上げましょう」 けれど。 ベルゼブブが逸る心を隠しながら"あくまで気乗りしないんですけどねぇ"というポーズで距離を詰め詰めし、ついにその膝まであと数歩……というところで突風が吹き荒れた。 「やあぁぁぁん! なまえはぁぁぁん! そんな可愛気ないウンコ狂いなんて放っといてワシを抱っこしたらええやんかぁぁぁ!」 背景に花を撒き散らしながら乙女走りで駆けて来たアザゼルが、勢い良く彼女の膝目掛けて飛び上がったのだ。 しかし愛らしさを装いながらも舌だけはしっかりべろべろびらびら卑猥に動かしていた淫奔の悪魔は、その下品な本懐を遂げる直前で呆気な過ぎる程に呆気なく地に落ちる。 床に頭をめり込ませてぴくぴくと震えるコウモリ羽を尻目に、誂えられた"専用席"にしっかりと収まったベルゼブブは一仕事終えた翼をひと拭いしてやれやれと肩をすくめた。 「さあなまえさん、存分にもふりなさい。そしてカレーパンをお寄越しなさい」 (2015.08.30)(タイトル:亡霊) [ top / 分岐 / 拍手 |