■ 02

■五臓六腑事件簿■


「うわーもふもふ。いいわー、ベルゼブブさんの羽毛最高だわー、気持ちいいわー」

 所詮は人間。それも若い女性の華奢な腕だ。
 ぎゅぎゅーっと衝動に任せて抱きしめられたところで痛くも苦しくもないのだが、かといって肉の柔らかさを意識せずにいられるかというとそれはまた別問題だったりする。
 これが職能:淫奔の某悪魔であれば、背中に押し当てられる膨らみと女体に腰掛け踏ん反り返るこの体勢に大興奮した挙句、とんだ痴態及び暴言を垂れ流していたところだろう。しかし今この場所に君臨しているのは、その辺りの自制心はしっかりしている方であり魔界の貴族としての分別と有り余る程の紳士さを売りにするベルゼブブ優一なのだ。

 今の自分にあるものがソロモンリングの影響で大きく削られた力と肉体だということを、彼は認識してた。
 もちろん、鏡が教える自身の姿についても冷静に分析済みである。すなわち、可愛いものが大好きな女性がとりこになるのも無理はない程に完璧にプリチーな器だということもしっかりと理解していたし、事実若い女性にこうして愛玩される現状に自尊心をくすぐられてもいた。だから芥辺の知人であるということしかわからないこの怪しげな女が、何かにつけてベルゼブブを膝の上に乗せたがることにも別段腹を立てはしなかった。せいぜい、悪魔ってわかってねェだろテメェ、つーか俺様のことオスだとも思ってねェだろビッチ女がァ!と思う程度のことで。

「ええなぁ、つーかベーやんばっかズルないか? なぁなまえはん、ワシも抱っこしてぇなぁ〜〜」

 ねえねえとなまえのスカートを引き小首を傾げてアピールするのは、猫とも犬ともつかない姿をした生き物だった。そんな彼を見下ろしながら、ベルゼブブはフンと鼻を鳴らす。
 精一杯の仕草は、なるほど、見る者によっては可愛いと受け取られなくもないだろう。けれどもおねだりにかこつけて持ち上げたスカートの隙間から少しでも生足を、そして叶うものならその奥を覗き見たいという薄汚い思惑がだだ漏れな辺りで全てが台無しになっている。案の定、ベルゼブブを膝に乗せたまま巧みに足を直したなまえは困ったように微笑んでいるではないか。どう拒絶すればましかと考えている顔だ。

「だってアザゼルくんってふわふわしてないしー」
「酷い! そりゃベーやんみたいな羽毛とちゃうかもしれんけどなぁ、ワシだってふわふわやで! 見て! ほら! お肉!!」
「んー贅肉はちょっと……あとほら、ベルゼブブさんっていい匂いするしー」
「ちょい待ち!! 騙されたらアカン!! そりゃさくが消臭剤と芳香剤ぶっかけてるからやで!? なあ、さく!!」
 机に向かっていた佐隈の肩が、びくりと震えた。
「あんなァこの際やから教えたるけど、なまえはんは騙されてんねんで! こいつはこんな可愛い格好してっけどほんまはウンコ好きのクソ蝿やねぎゃぁぁぁ死ぬぅぅぅ」

 アザゼルに飛びかかるためのバネとしてベルゼブブが身体の下にあるその柔らかな太ももを蹴り跳躍しようとする直前、佐隈が放った呪文がアザゼルを捻り上げていた。いや、身体を動かそうとしたという実感は実のところベルゼブブの思い込みに過ぎず、客観的に見ればベルゼブブに跳躍のそぶりなど見つけられなかっただろう。

 暴露の職能を持つ悪魔は、衝撃のあまり固まっているだろう彼女の腕の中から飛び立つことを躊躇したのだ。この温もりを自ら振りほどくことに躊躇したのだ。

 だって、聞こえなかった筈がない。いくら無害かつプリチーな見た目に騙されている馬鹿女でも、さすがにあそこまで言われて理解できない筈がない。回されているこの腕が今この瞬間振りほどかれていないのも、ベルゼブブの身体が床に叩きつけられていないのも、彼女が混乱し、状況に追い付けていないだけだ──他の可能性を考慮しようなんて淡い期待を持つことも叶わない。このバイオレンスからかけ離れた息抜きは今日限りになるのだと、ベルゼブブの優秀な頭は否が応でも理解してしまう。

「ああああ、あの、さくちゃん、さすがにそれはちょっと可哀想だと思う」

 けれど、少しだけ慌てたなまえの声が相変わらずの位置から聞こえたから。
 数秒前と何も変わらず回されたままの腕と、ゆるゆると身体を撫でる手の平──硬直していたのが彼女ではなく自分だったのだと気が付いてしまい、慌てて身体を捻って彼女の顔を窺えば……彼女の顔に浮かんで見える感情はいつもとさして変わらない。何らかの呪文によって捻り上げられてひぃひぃ呻くアザゼルと、怒りと焦りに顔を歪ませる悪魔使いという、"よくあるバイオレンスな光景"に"いつものように"困った顔を向けているだけではないか。彼女の口から飛び出た言葉は、思わずベルゼブブの方が呆れる程に彼女自身が口にした言葉の通りでしかなかった。希望的観測というフィルターを無しにしても、ベルゼブブへの困惑や嫌悪は見受けられない。明らかに生物としての限界を超えているアザゼルの姿を前に「ちょっと可哀想」で済ますあたりの薄情さまでも相変わらずだ。

「ち、違うんですよなまえさん! アザゼルさんが言ったのはあくまでも悪魔としての本質って言うか性癖って言うか、あの、確かに、消臭剤はぶっかけてますけどでも別にそれは無いと我慢できないくらい臭いとかじゃなくて身嗜みって言うか、あの、歯だってちゃんと磨かせてるし──」

 あたふたと手を振る佐隈の前方で、術者の暴走に合わせてアザゼルがいっそう激しく捻り上げられていく。
「……どうしようアクタベくん、さくちゃんがテンパってる」
「知らん。おおかた諭吉の行方でも心配しているんだろう」
 側で聞く分には理解不能でしか無いやりとりだが当事者的には充分だったようで、なまえはああなるほどと呟いた。
「安心してさくちゃん、クーリングオフだとかまけろとか言わないから。ていうか最初から知ってたし」
 ぱちくりと佐隈が瞬き、拘束の解けたアザゼルの身体もぼとりと床に崩れ落ちた。
「もぅ、さくちゃんは慌てん坊なんだから」
 でも芳香剤のセンスはなかなかいいよね。ちょっと強過ぎて鼻が馬鹿になっちゃう量ってのが惜しいけど。
 などと呟きながら相変わらずぎゅうぎゅうと抱きしめてくるなまえの腕の中で、蝿の悪魔はただ一人おいてけぼりの当事者としてこれからどうしたものかと思考する。

 ──とりあえず、人身売買的な何かがあったことに対しての追求及び抗議くらいはしてもいいだろうか。



(2015.08.30)(タイトル:亡霊)
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