■ 04

 いつものように買い取った時間を楽しみに事務所に行けば、あいにくアクタベくんは不在でさくちゃんも出掛けるのだという。
 すみません急ぎの案件で。少しだけお留守番してもらってもいいですか、なんて。申し訳なさそうな顔のさくちゃんには悪いけれど、お目当のペンギンさんさえいれば私はなんだっていいのである。

 ……なんて思った私が甘かった。
 煩いセクハラ悪魔が居ないとこうも静かなのかという事務所内では、ただもふもふするだけでは場が持たない。と言うより、私は問題ないのだけれど相手の方が露骨に暇そうに振る舞うので胸が痛いのだ。
 そんなわけで共通の話題をと考えてみても、さくちゃんの話はネタ切れだし、アクタベくんについては箝口令が敷かれているし、かと言ってアザゼルくんは別の意味でどっと疲れが押し寄せてくるし。さてどうしたものだろうかと悩んでいると、いつから異種族に興味があるんですかとベルゼブブさんの方から話題をいただけた。


「初恋、ですかね……」


 かくして。
 幼少の頃の記憶を、ひとつ、ふたつ。


 それは例えば、美しい母と、母に寄り添う大きな翼と獣の頭を持つ悪魔のこと。
 母親ばかり見ている悪魔の注意を引こうと、幼い私はその尻尾を掴んだり抱っこをせがんだり随分とわがままを言ったものだ。
 小さな小さな私を抱きあげながら母に向かって「これは父親が恋しいのだろうか」と訪ねた彼に、無邪気な恋心はぎしりと痛んだけれど……けれども。「人間の父親は確かこうするんだよな」と更に高くなる視界に癇癪の機会を逃した。降ろされた場所はふわふわの毛に覆われた広い肩の上で、いつもとは全く違っている世界に私は夢中になったのだ。
 そして……そうだ。確かその日は結局、他の誰も通らない道をずっと肩車のまま帰ったっけ。道中ちらりちらりと悪魔の顔を覗き込んだけれど、いつだってその瞳は母にだけ向かっていた。けれどこの肩の上だけは私専用だと悪魔が言ってくれたから、それで勘弁してやることにしたのだ。「わたしがもっとおおきくなったら、そのときは……」なんて。いつか私を見てくればいいと思いながらも、そんな日は来ないだろうとも幼心に思っていた。だって私はあの王子様みたいな悪魔が好きだったけれど、王子様が選ぶのはお姫様で、それはつまり母だったから。鋭い爪が生えた毛むくじゃらの手で撫でてもらいながら、いつか必ずなまえの王子様を見付けてやるんだという決意を固めたことも、そんな私に何も言わないままただ困ったように笑い返した母の顔も覚えている。


「──それは思い違いでしょう」

 胸の一番大事なところに置いた宝箱。そんな気恥ずかしさを覚えるような記憶をそっと取り出して見せたというのに、キラキラと虹色の輝きを放つ思い出は悪魔によりばっさりと否定された。

「ちょっと、話はまだ途中なんですけど。っていうか、自分から聞いた癖にそういうぶった斬り方って無いと思いますけどー」
「あなたの話があまりにも有り得ないからですよ。その、あなたのお母様が使役していたという翼の悪魔には心当たりがないこともないですが……それが彼らだとするとますますおかしい。あの種族はただでさえ扱い難く悪魔内でも持て余していると言うのに。まして人間などそれがグリモアの契約者であろうともほんの僅かな綻びを作ったが最後、直ぐさま喰い殺されるのがオチですよ」

 ですから人間に好意的に振る舞うなど、まして子連れの母親という賭け根なしに面倒な存在とだらだら契約を続けるなど有り得ない。
 眠そうな目のまま肩を竦めたペンギンは「お話になりませんね」と鼻で笑う。

「大体、グリモアの消失とともに使役の記憶も消えたと言うのでしょう? 悪魔と悪魔使いの契約はとっくに破棄され記録も証拠も何一つ残らず、残ったのはあなたの記憶だけ。しかしそれすらもオネショ時代のものなれば、最早信憑性の欠片も認められません」

 さて。温厚かつ悪魔贔屓を自覚しているこの私ではありますが、「真面目に聞いて損しましたよ」とまで言われてはこめかみがピキピキと痙攣してしまいます。いけない、いけない、さあ深呼吸をいたしましょう。
 けれど、思いっきり気分を害している私のことに気付いているのかいないのか、悪魔の口は思い遣りの欠片も見せずに更に動き続ける。

「あなたの記憶はせいぜい都合のいいまやかしと言ったところでしょう。または、それすらもグリモアの置き土産の内かもしれませんがね」


 ……うう。まあ正直その可能性は考えなかったわけじゃない。
 あの日、白い翼の男たちがやってきて全ては変わった。父代わりの悪魔は姿を消し、目を覚ました母の頭にすら彼は残っていなかった。

 あのひとがいないのに毎日は滞りなく過ぎていく。おかしいのは、周りか、自身か、それとも両方か。彼自身には勿論、似た存在にも出会えないまま過ぎる年月は私を虚構(ファンタジー)に駆り立て、その結果益々過去に霞がかかっていった。
 けれど、私の運はそこでは終わらない。なんたって、再び悪魔使いに巡り合えたのだから。


「ふふ、それアクタべくんにも言われました。でもねぇ、ずーっと……それこそ存在自体疑いたくなる程に縁遠かった"悪魔"と、今まさにゼロ距離スキンシップ中なんですよ。私の妄想でなく"悪魔"が実在するとわかったのだから、少なくとも彼があの場所に存在したっていう記憶も、思い出の内容も、まだまだ期待出来ると思いません?」

「……有り得ないと言ったでしょう。まったく、悪魔に夢を見るのは勝手ですが少しは現実も見なさい。他の悪魔にそんな愚かさを晒せばタダではすみませんよ。単純でおめでたいあなたなどあっという間に付け込まれて、『殺された方が幸せ』というような酷い扱いを受けるのが関の山です」

 あ、それも昔アクタベくんに言われた。思わずクスクスと笑いを零せば、小さな悪魔にぺしりと額を叩かれる。

「何がおかしいのですか」

 だってそんな、他人事みたいに言うんだから。あなただって悪魔なのに。

「ベルゼブブさんは付け込まないんですか?」
「フン、自意識過剰もそこまで極まるといっそ見事ですね。あなたに何が出来るんですか。仮に付け込むにしたって、もっと利用価値の高い個体を選びますよ」


  ***


 なまえの膝の上で踏ん反り返りながらムカムカを押し隠していたベルゼブブは、こっそりと彼女の顔を盗み見る。

 いくら見た目がプリチーだからといっても、正体は悪魔である。そうと知っている癖にやけにスキンシップが多いとは思っていたが、先程の思い出話でようやく合点がいった。
 彼女が事あるごとに、ベルゼブブの丸っこい胴体をぎゅうと抱きしめるこの体勢を好むのは、恐らく刷り込まれている思い出によるものだろう。何度も何度も縋るように反芻しただろう記憶の中で、なまえにとって重要なものが高みからの光景ではなく、抱きつく事を許された獣頭の方だったことは想像に難くない。だとしたら、これはきっと──肩車の再現だ。

「……処女の癖に処女性は皆無で、しかも痛々しい程に夢見がちの変態で、極め付けはファザコンですか」
「ちょ、ちょっとベルゼブブさん!? いきなりなんてこと言うんですかっていうかこの純情純白の私のどこが処女ビッチで──」

 弁解のしようもないだろう事柄をいちいち否定し始めたなまえを他所に、テーブルの上のカレーパン齧り付く。
 いつもの生贄である手作りカレーには遠く及ばないが、これはこれでなかなか美味ではある。愚かで哀れで馬鹿馬鹿しいほど夢見がちなビッチ女だが、毎度律儀にカレーパンを用意してくるところだけは評価してやってもいい。さりげなく毎回違う店のものを選んで来るあたりは、特に評価してやってもいい。


 もしゃりぐしゃりと食い散らかしながら、なまえの言葉を噛み締める。

「ベルゼブブさんは付け込まないんですか?」

 ふざけるな。旧知であるおまえに手を出せばアクタベが黙っていないだろうことくらい、馬鹿でも考え付くだろう。
 いやそもそも、この高貴な私をそこらの三下悪魔と一緒にする時点で既に救えない程に愚かなことだと、何故気が付かないのか。


 ──この私が、気取られるような下手を打つ筈がないだろうに。



(2015.09.04)(タイトル:亡霊)
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