| ■ 嘘じゃないならせめて夢だと言ってくれ 前兆などまるでなかった。 ただ、いつもと同じように迎えた朝にふと感じた違和感……それが最初の記憶だった。何か妙だと感じながらも、とりあえず顔を洗ってから考えようとベッドを抜け出して、そして、違和感の正体に気が付いた。 これは、なまえの身体だ。 *** 若い女の手を見つめながら、ビノートルとはどくどくと落ち着かない心臓と気怠い肉体を持て余していた。 確かに、あんな風に生きられたらと羨んだことは一度や二度ではない。けれども、それにしても、こんなのはあんまりだろう。さすがに冗談が過ぎるのではないか。勘弁してくれよ。何度目になるのかわからない溜息を吐きながら頭を抱えれば、絹糸のような髪がさらさらと指の間をこぼれていく。知らない感触ではなかった。むしろ、よくよく覚えのある感触だ。この髪を間違えることなどあり得ない。むしろ覚えがあるからこそ困ると言ってもいい。今のこれが、夢でも幻覚でも嘘偽りでもなく真に手に負えない事態だと思い知らされてしまうから。 「まあまあ。そうしてたって状況は好転しないよー?」 いいからこっちおいでよ、お風呂湧いたよ。 ベッドに埋まったビノールトの耳にやけに能天気な声が飛び込んでくる。顔を上げれば脱衣所からひょっこりと顔を出す男と目があった。その男こそまさにこれ以上なく正しくビノールトの知る"自分"の姿をしている。ビノールトにとって自身が陥っているこの異常事態よりも頭の痛い問題がこれだった。 つまり、この状況にありながらまるで危機感のないなまえという運命共同体についてである。 ビノールトが、自分の身に起こっている事態を正しく理解できないまま、それでもなんとか懸命に震える手を伸ばして隣に眠る男を揺り起こしたのは数時間前のことだった。 払いのけても払いのけても嫌な想像が止まらず、気はすっかり動転し奥歯がガチガチと音を立てていた。彼女の意識が"そこ"にあればまだいい。けれども、もしも、目を開けた男の中身が全くの別人であったならば、或いは目覚めすらしなかったら? 自分の精神と肉体が乖離していることへの衝撃よりも深いだろう喪失の恐怖に青ざめていると、男の瞼がゆっくりと開かれた。焦点の合わない瞳が微かに揺れ、かさついた唇がひゅうと息を吸い込む。男の第一声を聞き逃すものかと集中すればするほど、早鐘を打つ心臓が耳障りに思えた。 「……あ、たし?」 ぽわんと未だ夢から覚めやらぬ眼差しで呟いたその人は、すぐに違和感に気付いたようで勢いよく起き上がった。ぱちぱちと瞬いて目の前の女の身体を凝視し、そのまま顔へと視線を動かした後しっかりと目を合わせる。見つめ合った瞬間に、彼の硬く鋭い眼差しは少しだけ柔らかくなった。そして最後の確認とばかりに自分の身体を見下ろして、いつのまにかぎゅっと寄っていた眉間を指で伸ばしながら低く唸る。 「差し当たっての問題は、これが事故と攻撃のどっちだろうってことかな」 ビノールトの目から怯えが消える。ああよかった。姿も声も本来の彼女とは違うものの、目の前にいる相手は望んだ通りの人物で間違いはない。それがわかっただけで、華奢な身体いっぱいに張り詰めていた緊張の糸があっけなく切れる。 安堵の吐息をこぼしながらへろへろと倒れ込みそうになったところを受け止めてくれたのは広い胸板だった。自分の顔を真下から見る日が訪れるなんて思いもしなかったし、これはこれで妙に気恥ずかしいものがある。けれど、さすがに感動を感動のまま口に出していられるほど悠長な状況ではないという自覚があったので気にしないふりをする。代わりに、言わなくてはいけないことをたった一言。今口にするには随分と間の抜けていることだけれど、それでもやっぱり、念のため。 「……なまえ、だよ、な?」 「あなたはビノールトで間違いなさそうね」 そう返した男はすぐに居心地悪そうに口元を掻くと「今の言い方はなかったね」と恥ずかしそうに呟いた。ビノールトとしても、なまえの言わんとすることはよくわかる。"彼"の声帯で"彼女"の言葉を発することへの違和感はなかなか強烈だった。 ──と、そこまでは良かったのだが、ビノールトにとっての問題はある意味ここからだった。 なまえの順応は凄まじく、人脈を駆使して早々に幾つかの心当たりと接触を図り「とりあえず悪意ある攻撃ではないと思って良いだろう」と安堵する頃にはすっかり男の身体に馴染んでいた。ちなみにこれはほんの数時間の事である。 そんな"彼の姿をした彼女"は現在「今出来ることはやりきったから」と大変にいい笑顔を浮かべてビノールトを追い詰めにかかっていた。男として、未だに女の肉体に戸惑う恋人を愛でたいのだと言われたところでビノールトにとっては堪ったものではない。 「か、可愛い!? そ、そうは言っても、一応は自分なんだから別になんてことねぇ……だろ?」 「ほーらまたそんな可愛い顔する。わかってないなあ、ガワが私だとかどうだとか、そんなのは関係ないんだよ」 真面目な話をしていた筈がじりじりと壁際に追い詰められ、しまったと慌てる時にはもう遅かった。檻に閉じ込めるように壁に手をついて立ち塞がる男の身体は、そう簡単には退かないぞというたちの悪さを隠しもしない。そんななまえから少しでも距離を取りたいビノールトだったが、いつしか背中は壁にぴったりとついてしまい逃げ道を見つけられずにいる。 そして実のところ、大変困ったことにビノールトは力任せに拒否するほどこの状況が嫌ではなかった。ただ、こうして覗き込んでくるのが自分の顔であるという現実が受け入れ難いだけで。見慣れた自分の顔が、なまえのように笑うことに抵抗を覚えるだけで。 「わーちょっと待って、すごい。ねえねえ、すごいよ。身体中を巡って血液が集まってくるのがよくわかる。私、今、すっごく興奮してる」 とんでもないことを言ってくれる。子供のようにはしゃいで見せながらも、瞳だけはしっかり鋭さを増しているのだから尚更たちが悪い。言葉通り"その気"になっているならば、ここから先は雪崩だろうとビノールトは悟ってしまった。元来思い切りの良すぎるなまえの精神がこの先ますます男の肉体に引き摺られるだろうことは明白だし、そうでなくとも普段から主導権を握られっぱなしなのだから、体格差が加わった今では勝てる見込みがまるでない。しかしまあ、なんて素直な身体だろう。 熱い眼差しに居た堪れなさを覚えて目を逸らしたビノールトだったが、不意にその頬にかっと火が点く。逸らした先に、もっと恥ずかしいものを見つけてしまったのだ。その場所はまさになまえが言った通りの事態になっていた。布地の上からでも大きく硬く立ち上がったその場所がどんな風になっているのかを、その時の欲がどれほど激しく辛いものなのかを、ビノールトはよく知っている。 反射的に経験者としての同情や労いを浮かべたものの、しかし口にする前にその思考は大きくねじ曲がった。どくりどくりと先ほどまでとは別の感情が湧き上がってくる。今の肉体には無い筈の器官が疼くような奇妙な感覚の後、今の肉体だからこそ持ち得る器官がぎゅうっと収縮する感覚に襲われる。まるで腹の奥からもどかしさが溢れてくるようなこの感覚の意味することなんて、わざわざなまえに確かめるまでもないことだった。 自嘲の為の溜息は、それよりずっと熱く湿り気を帯びたものとなって唇から零れていく。なんだ、結局は自分も同じではないか。本来の自分ではなくとも、相手の外側が違っていても、触れ合う肉体が自らのものであったとしても、確かに向けられる感情がなまえからのものであればそれでいいのだ。そんな場合じゃないとかなまえの身体でこんなことを望んでいいのかとか、いざその瞬間となった際に本当に自分の身体を"受け入れる"ことが出来るのだろうかとか不安は尽きないけれど、それでも。警笛を鳴らす理性や戸惑いを押し退けて、今はただなまえを欲しがる自分を認めよう。 背筋を駆け上がる衝動にぞくりと身を震わせて、ビノールトは改めてなまえを見つめ返した。 もういいよとどうすれば伝えられるだろう。ああ、駄目押しの言葉さえ貰えればすぐに頷いてみせるのに。この角度では普通に口付けるには少し遠いから、なまえがよくやるように首に腕を回して引き寄せようか。 出方を探るビノールトが答を見つける前に、かさついた指がやってくる。薔薇色の肌の柔らかさを確かめるような優しい力加減で目尻から頬へと進み、そっと首筋を撫でていく。その手の大きさも質感もいつものなまえとは程遠いものなのに、触れ方だけは確かになまえのものだ。たったこれだけでも、ビノールトの身体にはぞくりぞくりと疼きが広がっていく。 知っているような知らないような、いつもとは微妙に異なる刺激をぎゅっと目を瞑って受け止める。すると、くすりとなまえが笑う気配があった。 「ごめんごめん。大丈夫だよ、さすがにこの姿で無理やりどうこうってのは洒落にならないってわかってるから」 「なまえ?」 「あー……でも男の感覚に興味があるのは本当だから、ちょっと個室に行ってくるね」 少しだけ乱暴な手つきでくしゃりと髪を掻き乱されて、慌てて目を開ければもうビノールトを閉じ込める檻はなくなっていた。壁から離れた腕は未練を振り払うかのようにひらひらと軽く揺れて、それっきり。期待していた展開とのあまりの落差に愕然となった喉は明瞭な言葉ではなくひゅうと乾いた音を零す。ギラギラと熱を帯びる瞳を笑みの形で封じ込めたなまえがひらりと身を翻すのを認めるに至ってようやく、ビノールトの頭の中で何かが吹き飛んだ。 「あの、ね。これでも初めての刺激に結構いっぱいいっぱいなので、そんな風にされると勘違いしちゃうんだけど。ねえ、聞いてる? ビノールト?」 咄嗟に伸ばした手はなんとかなまえの裾を捉えることに成功した。本当はもっとちゃんと腕を掴むイメージだったのだけれど、現実が追いつかなかったのだから仕方がない。引っ張られた裾がこれ以上伸びないようにと数歩分近付いたなまえが、大きな身体を窮屈そうに捻じ曲げて自分を見下ろしていることを感じながらビノールトはまたぎゅっと目を瞑る。 「別に嫌なんじゃなくて…オレも……」 意を決して告げたならば、今日一番の歓声で迎えられた。 *** 「ただ、あの、一応"初めて"だから…その……優しく、」 「OK! 優しくする! 初めてだから早いかもしれないけど、いっぱいきもちよく出来るよう頑張るから!」 そんなわけで。抱き上げてベッドまで連れて行くという初めてにしては随分と堂に入った紳士っぷりを見せつけたなまえの妙な食い付きの良さに若干「早まったか?」と不安を覚えるという一幕もあったものの、ビノールトは無事、有言実行の恋人によりぐずぐずに溶かされベッドに沈んだのだった。 (2018.05.28)(タイトル:fynch)(管理人しか楽しくないシリーズ開始) |