13.月陽の女神
秋も終わる夕暮れの中、山道を馬が駆けていく。
女子供が混ざったその一行はたったの六騎で、後方から追いかけてくるルシタニア兵から逃走していた。
「追手の数は?」
「五百騎ということか」
「ちと多いな、四百騎までなら俺一人でもどうにかなるが」
追われる側のギーヴがそう言うと、並走する美しい女神官が眉を寄せた。
「ナルサス卿、ギーヴの戯言など相手になさらぬことじゃ」
さらに女神官、ファランギースは不安そうな表情をしている王太子に声をかけた。
「殿下、もうすぐダリューン卿が兵を連れてまいりましょう。ご辛抱くださいまし」
アルスラーンが頷いてちらりと隣に並ぶ己の護衛の顔を見る。硬い表情の奥で何を考えているのか察した王太子は、何も言えずに唇を引き結んだ。
「……レイン、顔に出ているぞ」
「ナルサス」
アルスラーンとレインを交互に見やったナルサスが小さく溜息を吐く。ダリューンと王都に潜入して助けることが出来なかった彼女の妹が脳裏をよぎった。
「レイシーのことを考えるなとは言わん、だがお前がそんな顔をしていると殿下にご心配をおかけすることになる。慎んだ方がいい」
「……ごめん……ナルサス」
小さくうな垂れていたレインが前を見据える。
さて、と追手の動向を気にしてナルサスが首を巡らせると、後ろでは弓の名手二人が次々とルシタニア兵を射落としていた。
風を味方につけ射落としては距離を離していく。
山道を曲がると援軍を連れてきた黒衣の騎士と合流した。
そして一行は五百のルシタニア兵から逃れ、カシャーン城塞に辿り着いたのだった。
カシャーン城塞の主、ホディールは質の良い絹の服を身に纏いアルスラーンに擦り寄ってきた。
王太子の安否を案じ、無事な姿に感激した風のホディールがまずは祝宴をと言い一行を大広間に促す。
絢爛豪華な祝宴は肉と酒がこれでもかというほど出され、選りすぐられた美しい娘達が給仕をしてくる。
ダリューンの向かい側、ファランギースの隣に座ったレインは酒ではなく紅茶が入った杯を手にとって一口すすった。
「おや、レイン殿あまり食が進んでいないようだが」
葡萄酒を飲んで上機嫌なギーヴがレインとファランギースの間に入るように声をかけた。
「紅茶では物足りないのでは?」
「私、酒に弱いの。飲もうとしても周りに止められるから飲まないようにしててね」
「ほほう、それは興味がそそられる。是非酔ったレイン殿を見ーー」
「なくていい」
ずいっと間近にダリューンの顔が現れる。
食台から身を乗り出すようにギーヴを睨みつけると、隣のナルサスが苦笑した。
「ね?」
こうやって止めるでしょ、とレインがダリューンを指した。
ダリューンから逃げるように元の場所に腰を下ろしたギーヴが、ふぅんと古馴染みという三人を見る。葡萄酒の入った杯に口をつけなかまらよほど酒癖が悪いのだろうかと考えた。
一方ダリューンはというと、酒に手を出さなかったレインを見てホッと胸を撫で下ろしていた。
「よかったなダリューン、レインが酒を飲んでいたら手を出さずにはいられなかっただろう?」
「…………」
無言で肉の串焼きに手を伸ばしたダリューンを見て、ナルサスがニヤニヤと小突く。
黙ってはいるがその顔が少し赤くなっているのは酒のせいではないだろう。まったく奥手すぎて笑えてくる。女性経験が無いわけではないのに惚れた女にこうも一途になれるのはある意味羨ましい。
そんな一連の場面を無言で見守っていたファランギースが、レインに視線を移した。
黙って紅茶を飲みながらアルスラーンとホディールの会話を聞いている姿を見て目を細める。
キラリと、首に下げた水晶笛が光った気がした。
* * *
祝宴が終わった後、レインとファランギースは一つの部屋をあてがわれた。
王太子であるアルスラーンは別の部屋で一人に、それ以下男四名は違う部屋に通された。
「ホディールは自分の娘を殿下の妃にしたいみたいね」
レインが部屋の窓を開けて外の空気を大きく吸い込む。
祝宴の際にホディールがアルスラーンにそう囁いたのは、自分の娘を新王の妃にして外戚として権勢を振るいがためだろう。
少年王子ももう年頃の男、そういった縁談話しは今後もあるかもしれない。
「ファランギース殿はホディールのことどう思う?」
「よく喋る男じゃ。舌に油でも塗っているのであろうがあまり質のよい油とは思えぬ」
「同感」
ファランギースの言葉に苦笑いしていると、ついと秀麗な瞳と目が合った。
「ときにおぬし、歳はいくつじゃ?」
「二十二だけど……」
「ふむ、ならば同い年じゃな。私に敬称などつけづともよい」
「!ーーうんっ」
初めて見る心からの笑顔にファランギースもつられたように微笑む。
王太子の傍を片時も離れようとしないこの護衛はいつも静かに皆を見ている人物だと、ファランギースは思っていた。
「レイン、
精霊がこう申しておる。”おぬしはもう少し素直になれ”と」
「え……精霊が?」
普通の人間には聞こえない精霊の声や姿を、ファランギースは見て聞く事ができる。
レインと出会ってから、精霊はずっとファランギースに彼女のことを囁いていた。
「”おぬしは何かに囚われておる。その悪夢が忘れられず、一歩を踏み出せない”……精霊は邪気を嫌う、悪夢に囚われずに己の思うままに行動するのじゃ」
ふと、レインの脳裏に赤く揺らめく炎が視えた気がした。
あの時助けられなかった存在をずっと忘れることが出来なくて……。記憶の底から聞こえる叫び声に耳をそらすことができなかった。
「レイン」
ファランギースの静かな声に沈んでいた思考が浮上する。顔を上げると、白く美しい手が頬に添えられた。
「おぬしは独りではない。それを決して忘れるな」
少ししか行動を共にしていないのに、その言葉がストンと胸に落ちて温かく満ちていく。なんでか無性に泣きたくなってきた。
「……ファランギース」
「なぜだろうな、私はおぬしに優しくしたくなる……」
切っ掛けは精霊の囁きではあったが、どこで出会おうと、心許せる友人になれるとお互いに思う。
金糸の髪に指を滑らせ思う存分撫でていると、ファランギースが視線を窓に移して艶然と笑った。
「そろそろ出てきてはどうじゃ? 盗み聞きとは趣味が悪いのう」
窓から赤紫色の髪がひょっこりと現れる。
目を丸くするレインに、バツが悪そうに顔を出したギーヴが頬を掻いた。
「お邪魔だったようで……。
月陽の女神へ軍師殿からの伝言を伝えにきた」
ずっと湖の底でもがいていた。
這い上がろうとしてもあの時の情景が忘れられずに、ずるずると皆底に沈んでいった。
『”おぬしは何かに囚われておる。その悪夢が忘れられず、一歩を踏み出せない”……精霊は邪気を嫌う、悪夢に囚われずに己の思うままに行動するのじゃ』
その言葉は湖の底を照らす月明かりのように導いていく……。
何かが吹っ切れたように、真紅の瞳が煌めいた。
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