王都脱出


 緑溢れるエクバターナの中でも、王宮の薔薇園はパルス随一と名高い場所で有名である。

 朝露に濡れた真紅の薔薇の傍で戦死者へ鎮魂歌を歌っていたレイシーは、旅の楽士ギーヴに王宮から脱出しないかと手を差し伸べられた。
 王宮の外からは今もパルス軍とルシタニア軍による戦いが繰り広げられ、耳を塞ぎたくなるような叫び声もこちらに聞こえてくる。

 アトロパテネへと向かった王太子と姉の安否すらわからない中、楽士の提案はまたとないチャンスであり二度とない好機なのだが、レイシーはただ一人で玉座に座る王妃を思い戸惑っていた。

 言い淀んでいると、薔薇を掻き分けて一人の宮女がギーヴを見つけて声をかけてきた。

「ギーヴ様、宰相様がお話があるとお部屋でお待ちでございます」

「宰相……?」

 面識のない宰相が自分を呼んでいると言われてギーヴが首を傾げる。隣で聞いていたレイシーが考え込むように目を細めた。

 現宰相フスラブはレイシーの父が宰相をしていた折から見知った人物であり、能力のある父が亡くなった後釜にまんまと入れた男である。政を鑑みない王の意見を聞くだけの飾りの宰相が、何故旅の楽士なぞに用があるのか、何故かとても嫌な予感がした。

「……私も同行していいかしら」

 レイシーの言葉に宮女が困惑しているとギーヴが快く了承し、宰相の待つ部屋へと向かった。


 部屋に入室すると猫背で痩せ細った男が待っており、レイシーを見て驚いた顔をした。

「こ、これはこれはレイシー……何故そなたがここに……」

 せわしなく指を動かして目をキョロキョロしている男に微笑みを浮かべる。

「フスラブ様が旅の楽士さんに用があるとお聞きしましたので、少し興味が湧いたのです。……お邪魔でしたか?」

「い、いやとんでもない! ……こちらとしても都合が良い」

 慌てながら宰相フスラブがレイシーとギーヴに席を進める。優雅に着席したレイシーを横目で見ながらギーヴは意外そうに二人を見た。

「そ、それでなんだがギーヴ。タハミーネ様に聞いたぞ、そなたは弓だけでなく才知も優れておると」

 フスラブがレイシーを気にしながら本題を言うとギーヴは耳を澄ませながら頷いて笑みを浮かべた。

「子供のころからさんざんそう言われておりました、宰相閣下」

「そなたのその才知を見込んでのことなんじゃが、頼まれてくれるかな?」

「…………」

 宰相の言葉を聞きながら後ろにある幕の気配を探り、剣と甲冑の気配に気づく。レイシーは気づいているのかいないのか、微笑を浮かべて二人の会話を聞いているままだ。

「正当な理由と報酬、それと成功の可能性があればお引き受けします」

「理由はパルス王国の存続、ひとえにそのためじゃ。報酬は充分につかわそう、なにせタハミーネ様の御意であられるからな!」

「王妃様自らの!?」

 王妃の名にギーヴが驚いていると、隣のレイシーも目を見開く。

「さよう、秘密の通路を通って王妃様を城外の安全な場所へお連れしてもらいたいのだ、ギーヴよ」

「王妃様は王都を脱出すると?」

「そうだ。そしてレイシー、そなたが王妃様となってもらう」

 頷いたフスラブが、レイシーへと視線を移して口元を三日月に歪める。驚くギーヴをよそにレイシーは冷静に口を開いた。

「私が、王妃様に成り代わって脱出する……身代わりということでしょうか」

 驚くでもなく、慌てもしないレイシーに逆にフスラブが額に汗をかいている。

「……驚かないのかな」

「腕が立つとはいえ、タハミーネ様が一人の楽士に己の命運を預けるはずがありませんわ。…………そうね、おそらく身代わりを使って時間を稼ぐつもりかしら、フスラブ様」

「……さすがリンドバーグ殿の娘御。だが、見破られようとも従ってもらおう。これは王妃様の命なのだからな。今まで王妃様に受けたご恩を返すときではないかね、レイシー」

「……ええ、それは貴方の言う通りです……」

 レイシーがドレスのスカートを握りしめる姿を見て、フスラブがほくそ笑む。
 本当は王妃の侍女を身代わりに立てる予定だったが、彼女を使えばより効果的に時間稼ぎができる。侍女では出せない王妃の高貴な佇まいもマルヤム王家の血をもつレイシーならば、王妃に仕立て上げることが容易だと。

 そして一旦聞いてしまえば王妃の命令を断ることなどできない。
 レイシーは王妃のために、ギーヴは報酬と王都脱出のために宰相の命を受けるのだった……。


 * * *


「王妃様と最後に一目会わなくてもよかったのです?」

 歩くたびに飛び散る水の音をぼうっと聞いていたレイシーはギーヴの問いに覚醒した。
 網のように広大な地下水路を火を灯したランプ一つで脱出をしている中、黒いヴェールを被ったレイシーがギーヴに導かれるように歩いていた。

「フスラブに止められましたわ……」

 本当は一目会って王妃と話がしたかった。
 別れの挨拶といままでの恩への感謝を伝えたかったが、それを良しとしなかったフスラブが護身用の短剣だけを渡して王妃の側に寄せつけようとしなかったのだ。
 人の顔色を伺うだけのフスラブにこんな行動ができるとは思わなかったが、それほど王都には時間がないのかもしれない。


「それにしても、結局は貴方とこうして逃げることになるとは思いもよらなかったです」

 クスリと笑うと、ギーヴが悪戯っぽく片目を瞑る。

「これもアシ女神の導きか、一緒に逃避行でもどうです姫。あのアホ宰相のいいなりになって馬鹿正直に囮になどなるよりも俺と一緒に逃げたほうが断然いい」

「ええ、そうですね。……ギーヴさん、私をこの王都から連れ出してもらえませんか?」

「おや、なんとも男心をくすぐる台詞か。このギーヴ、どこへだって貴女を連れて行きますとも」

 ギーヴの言葉に彼女が柔らかく微笑んだ気配がした。
 なんとまあ自然と男を悦ばせられる人だ。
 初めて名前を呼ばれて満更でもないギーヴであった。


 しばらく水路を道なりにそって進んでいると、奥から異様な集団が現れた。
 壁に掛けられた燭台の灯火に照らされたそれらはルシタニアの軍装を装い、各々手に槍を携えている。
 思わず二人が歩みを止めると、仮面を被った男が先頭に立ってレイシーを見た。

「これはこれは……光栄あるパルスの王妃様は民衆を捨て自分一人脱出なさるおつもりか」

 地を這うような声が王妃に扮したレイシーに注がれ辺りに緊張が走る。
 ギーヴがレイシーを守るように立ちはだかると、銀色の仮面が憎々しいように吐き捨てた。

「あのアンドラゴラスと似合いの夫婦と言うべきだな。片や兵を捨てて戦場から逃げ出し、片や人民を放り出して地下へもぐる……王座に座る者の威厳はどこへやら」

「……そなたは何者です」

 一歩一歩距離を詰めてくる銀仮面に、レイシーが動じた風もなくタハミーネ王妃のように問いかける。

「パルスにまことの正義をしこうと志す者だ」

 男の言葉にレイシーが眉を寄せていると、ふと彼の後ろに控えた騎士に見覚えがあった。

「カーラーン様……?」

 見覚えがないわけがない、かの騎士は自分の慕うカーラーンだったのだ。

「まさかその声……レイシー殿か!?」

 呆然とカーラーンが呟くと、ゆっくりとレイシーが顔を隠すヴェールを脱ぐ。
 金の髪がこぼれ、薄闇に輝くその容姿を一瞥して銀仮面が大きく目を見開いた。

「なっ……!?」

 美しいかんばせに愛しの少女と面影が重なる。欲する女とあまりにも瓜二つの顔に動揺が拭えず思わず手を伸ばした。

「おっと、美しい花を手にしたい気持ちは分かるが、無理やり手折ろうとするのはいただけないな」

 すかさずギーヴが後ろに下がるようにレイシーの腰を引く。
 食い入るように女の真紅の瞳を凝視しているが、女は銀仮面ではなくカーラーンを見つめて悲しそうに目を伏せた。

「……パルスを裏切ったのですか、カーラーン様……」

「ああ、今はこのお方にお仕えておる……。幼い頃から成長を見守ってきたおぬしを斬り捨てることなどしたくない、こちらに来てはもらえないか」

 カーラーンの言葉にレイシーは静かだが怒りを孕んだ瞳で否と答えた。

「いいえ、私はパルス国前宰相リンドバーグの娘。この国を裏切ることなど出来ません」

「と、いうことだ!!」

 全員が凛とした瞳に魅入られる中、ギーヴが手にしていたランプを壁に掛けてある燭台に投げつけ、引火した火が噴き出すように銀仮面たちに襲いかかった。

「!!」

 なめるように燃え上がる炎に銀仮面が顔をおさえるように俯き、カーラーンが主の盾のごとく火を外套で払う。

「ご無事ですか?」

「…………おぬしら、こやつらを始末しておけ。俺は本物の王妃を追う」

「ははっ!」

 煩わしそうにそう言い捨てカーラーンと数名の部下を引き連れて銀仮面が去って行く。
 残った兵士達が剣を構えると、ギーヴが肩に掛けていた弓と矢筒を地面におろして不敵に笑った。

 まさか銀仮面が逃げていくとは思わなかったが、人数が減ればどうにでも動ける。
 一人のルシタニア兵が斬りかかってくるよりも速く動き、顔面に突きをお見舞いする。
 無様に倒れる兵に敵が動揺している中、ギーヴは剣を構えた。

「まずは一人!」

 素早い身のこなしにレイシーが感嘆していると、敵が女の自分に標的を変えてきた。
 迫り来る白刃に、懐に隠し持っていた短剣が重くのしかかるような錯覚に陥る。
 かわさなければ、この剣で身を守らねばと思っても深く心に刻まれたトラウマが蘇って地に縫いとめられたように動くことが出来ない。

 あわや斬り殺される寸前で、方向転換したギーヴが敵兵を屠った。
 目の前で倒れた兵士を見て心臓が早鐘のように鳴り響いている。ギーヴを見ると今まで見たことのない真剣な表情をしていた。

「!!」

 レイシーの視界にギーヴのガラ空きの背中を狙うルシタニア兵達がうつった。距離があるとはいえ体勢を立て直したばかりの彼には部が悪すぎる。

 思わず足を後ろに退くと何かとぶつかった。

「っ、これはーー」

 ごちゃごちゃと考えている暇などない。
 水路に浮かんだ弓を拾い、矢筒から矢を引き抜く。

 久しぶりに手にした弓に矢を番えて一つ深呼吸をした。


 ギーヴの耳に空気を裂くような音がしたかと思うと、自分に迫ってきた兵士の肩に矢が貫いた。
 痛みに剣を離した兵士を斬り、怯んだ残りの兵を次々と斬り捨てていく。

 最後の一人を倒し終え、ついでに金を巻き上げて息をつくと、バシャリと水が弾く音が背後から聞こえた。

「レイシー殿!?」

「……ごめんなさいギーヴさん。緊張の糸が切れたみたい……」

 水路の床に手をついて息を整えているレイシーを見てギーヴが手を貸す。レイシーの手には自分の弓が握られていた。

「まさかレイシー殿が弓にも精通しているとは、敵を射る姿はまさに天上の戦女神のようでしたよ」

「いえ、久しぶりすぎて打ち損じるかと思いましたわ……」

 あえて軽口を叩くギーヴに微笑んで立ち上がると、弓と矢筒を返そうとして止められた。

「また何かあった時に身を守るものがなければ不安でしょう」

 そう言われて仕方なしに弓をいれた矢筒を手にする。久しぶりの重みに感慨深く息を吐くと、ギーヴが大げさに口を開いた。

「では、我が麗しの弓姫よ、どちらまでお連れいたしましょうか? どこまでもお供いたしますよ」

 少し前に言った言葉と同じような台詞に思わず笑みが浮かぶ。
 願うはただ一つ、探したい人がいるーー。

「…………では、王太子アルスラーン殿下と、私のお姉様のいる場所まで」


 ギーヴに手を引かれて水路を走る。
 慕う王太子と、たった一人の姉と再会するために、暗闇を抜け出すように地下水路を脱出する。

 出会って間もないこの青年と共に駆け出す、第一歩だった。

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