7.オレンジの香り
「……よし、こんなものかな」
ひと通りリビングの掃除を終えたリンが顔を上げる。
気になるところを少し掃除する予定がなぜか気合が入ってしまって、想像以上に時間をついやしてしまったらしい。
彼女が時計を見れば約束の時間まであと少しだった。
急いで部屋着から着替えて化粧をする。
鏡を見ながら髪を整えていると、リンはじっと鏡を見つめて視線を下げた。
なんとなく気恥ずかしい……。
「なんでこんなに気合いはいってるんだろう……」
今日は沖矢を家に招待した日。
いつも工藤邸にお邪魔してばかりだから、リンの方から声をかけてお茶でもしないかと提案をした。
最初は前に言ったように料理でもだそうかと思ったが、出会って間もないのに家に招待して料理を振る舞えるほど、積極的で口が上手いような性格ではない。
だから蘭や園子達にしていたように、ケーキを作ってお茶でもしようと思ったのだ。
「……ケーキ、沖矢さんの口に合うといいな……」
昨夜の内に作ったケーキは冷蔵庫で眠っている。今回のケーキはなかなかうまくできていて、これなら彼も喜んでくれるだろうと考えれば、思わず彼がケーキを美味しそうに食べる顔が浮かんだ。
「って、なに想像してるの! これじゃあまるで、恋する女みたいじゃない!」
ぶんぶんと頭を振って鏡を見れば、ほんのり顔が赤い。
「……なんてことを自分で言ってるんだろう」
鏡に頭をぶつけて目を閉じる。
自分でも分かっていた、きっと彼に恋をしていると……。
出会ってそんなに月日が経っているわけでもない、頻繁に話しをしたり連絡しあっているわけでもないのに、沖矢の事を思い出すだけて胸が高鳴ってぎゅっと苦しくなる。
「とりあえず冷静になろう。こんな緩んだ顔、沖矢さんに見せられない」
鏡から離れてぱたぱたと手を顔を扇ぐ。
一、二回深呼吸していると、タイミングよくチャイムが鳴った。
「来た!」
急いで玄関に出てドアを開ける。
玄関前にいた沖矢を見るだけで、自然と笑顔が浮かんでしまう。
リビングに案内して、ソファーに座ってもらう。
「少し待っていてくださいね、今お茶を淹れるので」
内心ドキドキしながらキッチンに向かう。
案内している間まともに沖矢の顔を見れなかったリンは、なんの話しをしようかと考えを巡らせながら冷蔵庫からケーキを取り出す。
慣れた手つきでお茶の用意をすませてリビングに戻ると、沖矢が棚の上にある写真立てを眺めていた。
「おまたせしました」
じっと写真を見つめる沖矢がこちらに振り向く。
「この写真の方、とてもリンさんと似ていますね。前に言っていた妹さんですか?」
「はい、双子の妹なんです」
テーブルに、ティーセットとケーキののったお皿を並べながら頷く。自分と妹が並んだ写真を見られるのがなんだか恥ずかしくて、まだ彼の顔を直視することができなかった。
「リンさんに似て綺麗な人ですね。是非一度お会いしてみたいです」
「えっと……今度、機会があれば……紹介します……」
唐突な沖矢の言葉がリンの思考を停止させた。どうしてか胸が痛い。
それは妹が綺麗だと褒めらたからか、それとも会いたいと言われたからか。
(きっと、両方ともだ……)
やっと沖矢の顔を見れば、彼は妹のうつった写真をまだ見つめている。
「あのっ、ケーキ作ったので食べていただければ……」
何故か妹の写真を見て欲しくなくて声をかけたが、途中でどんどん声が小さくなってしまう。
「ああ、ありがとうございます。とても美味しそうですね」
ケーキの存在にやっと気がついたのか、沖矢の視線が写真からケーキに移る。
「これは、オレンジのレアチーズケーキですか?」
色鮮やかな黄色と白のケーキにフォークをいれて口に運ぶ。
ただ一口食べるのがスローモーションのように見えて、リンは膝の上で手を握った。
「……これは……とても美味しいです、リンさん」
「良かった……沖矢さんに喜んでもらえるように頑張った甲斐がありました」
沖矢の微笑みがなによりも嬉しくて、緊張して固まっていた肩の力が抜ける。
「今度レシピを教えていただけますか? ちょうどスイーツにも挑戦してみたいと思っていたんです」
「はい、なんでもお教えします!」
お互いに笑いあってケーキを食べる。
他愛のたい話しをしながらケーキを食べて、紅茶を飲む。それがとても楽しくて、リンは先程の胸の痛みを忘れて話に花を咲かせていた。
「へぇ、アメリカの大学に通っていたんですか」
「はい。幼い頃はイギリス暮らしだったんですが、両親が亡くなって日本の叔母夫婦に引き取られたんです。でも二人に迷惑かけたくなかったのと、やっぱり違う家族に慣れなくて逃げるようにアメリカに出ちゃったんです」
アメリカの話しをすると、どうしてもあの人のことを思い出してしまう。
ティーカップを手にしながら、リンは遠いアメリカの空を思い出した。
「二人に迷惑をかけたくなくて出たのに、あっちで誘拐にあってしまって……逆に叔母夫婦に怒られちゃいました」
海外で姉夫婦を亡くしたのにさらに姪を亡くすなんて耐えられないと、叔母に泣かれたのを思い出す。
「それは思い出したくない記憶ですよね……すみません、嫌なことを」
「いいんです! 嫌だったら話しませんし、それに嫌な記憶だけじゃないんです。助けられた時の記憶が一番大きくて」
「アメリカの警察は優秀だったんですね」
「いえ、警察じゃなくて、私を助けてくれたのはFBIだったんです。しかも日本人」
「……日本人」
「長い黒髪の男の人で……多分スナイパーだったんだと思います。人質として誘拐された私を、銃で助けてくれました」
アメリカの大学での話しは友人にも話すが誘拐のことはあまり話したことはない。それこそ蘭達ぐらいなのだが、どうしてかリンは沖矢に聞いて欲しいと思っていた。
「それがずっと忘れられないんです。それこそ夢に見るほど……。きっとあの誘拐は私の一生の心のキズですけど、あの人に助けられたことが一生の幸運なんです」
でも本人は忘れてると思うし、事件の一被害者でしかないと言うと、彼は何かを言いかけて口をつぐんだ。
「と、まあアメリカでの生活はそんな感じです! その後日本に戻って妹と暮らしながらアルバイトをして仕事を探したんです」
静かな沖矢にリンは話しすぎたかと少しだけ後悔する。いきなり過去の話しを聞かされて引いてしまっただろうか、幻滅されたかと思ってしまう。
なんとか話しをアメリカからそらしながら、喉を潤すためにティーカップに口をつける。
心の中で反省をしながら、次第に表情が柔らかくなって言葉数も多くなっていく沖矢にホッとして、リンはケーキの最後の一口を噛み締める。
甘いレアチーズに、ほのかなオレンジの香りが口に広がった。
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