00.ベイントン令嬢誘拐事件



 これは六年前、アメリカであった出来事。
 大学で知り合ったイギリス人の友人宅でお茶をしていたリンは、資産家の娘である友人の豪邸の窓から見える雨に気がついた。

「あれ、雨が降ってきた。……陽も落ちてきたし、そろそろお暇しようかな」

 雨が本降りになる前に買い物をして帰らないと、と言うリンに友人が名残惜しそうにしながらティーカップをソーサーに置く。

「あ、傘忘れてきちゃった」

 走ればいいか、とリンが考えていると、友人が風邪を引くといけないからと、綺麗な傘を貸してくれた。

「ありがとう、今度来た時に返すね」

 あげるのにと言う友人に絶対返すよと答え、ショルダーバッグを肩にかけて友人に手を振る。

 やってきた屋敷の執事さんに玄関まで見送られ、雨の中赤い傘が広げる。

(傘を返す時に、お菓子でももって行こう)

 友人の好きな紅茶に合うお菓子を考えながら、角を曲がる。考えごとをしていたリンには背後から近づいてきた人物達に気がつかなかった。

「君が、ベイントン家のお嬢さんかな」

「え?」

 振り返った瞬間、胴部に激しい痛みがはしる。思わず傘を取り落すと、首元に同じくビリビリとした物を押し付けられた。

「!!?」

 肩に掛かったバッグが落ちると思った瞬間、リンの身体が傾ぐ。
 振り向く前に、意識は途切れた……。


 * * *


「ん……」

 重たい瞼をあげると、身体中が痺れているのと同時に動けないことに気がつく。はっきりと意識が覚醒すると、自分の体が縄で縛られ壁に寄りかるように床に座らされていた。

「ここは……どこ……」

 倉庫だろうか、薄闇の中シャッターが見える。屋根に落ちた雨の音を聞きながら、目覚める前のことを思い出す。
 確か、ベイントン家名前で呼ばれていたような……。

「まさ、か……」

 嫌な予想が頭にチラつくと、ガラガラと目の前のシャッターが開いた。

「っ……」

「おっ、お嬢様が目覚めたようだ」

 視界いっぱいの光が眩しい。
 しだいに目が慣れると、目の前に複数の屈強な男がリンを取り囲むように歩いてきた。自分がいたのは小屋のような場所だったようで、目の前はただただ広い倉庫だった。

「なっ……あ、貴方達は……」

「はっ、俺らのことを聞く前に、お嬢様にはやってもらわなきゃならないことがある。お前は俺らに連れさらわれた。ベイントン家のお父様に助けてもらうように電話で喋ってもらうならな」

(ベイントン家のお父様って……!?)

 頭から血の気が引いていく。今、この男らはリンを連れさらったといった。だがベイントン家は先程行っていた友人の家……リンはベイントン家の娘である友人と間違えられているのだ。

 震え出すリンに、男達はただ恐怖しているだけだと解釈しながらスマホを取り出す。リンはただの恐れているのではなく、自分がベイントン家の娘ではないとバレた時の恐怖が沸き上がっていたのだ。

「いいか、今からお嬢様の父親に直接電話して、お前の身柄の引き換えに大金を要求する。お嬢様はただ泣きながら助けを乞えばいいんだよ」

 下手なことを言ったら殺すからな、と言う男にひっと息を呑む。

(そんな、どうすれば……!)

 赤の他人の自分が助けを求めても、ベイントン家は助けてくれるのだろうかと、リンの胸に恐怖が渦巻く。しかも娘本人は自宅にいるのだ。

 男がスマホをタップして電話を掛ける。
 直ぐに繋がったのか、威圧的な声で電話の相手に話しかけた。お前の愛娘を誘拐した、身柄の解放と引き換えに金を用意しろ。できなければ娘の命はない、と。

「娘を誘拐した証拠として、自宅近くに娘の赤い傘とカバンが落ちてるはずだ」

(そうだ、傘にカバン!!)

 男の言葉に、リンの頭に友人の傘と自分のバッグを思い出した。もしも、父親が傘とカバンを友人に見せて貰えれば、リンが拐われたとわかるかもしれない。

(なら、私が打てる手は一つしかないっ)

「ほら、喋ろ」

 男がスマホをリンの耳元に寄せる。
 はやる鼓動を落ち着かせようと一つ息を吐いて、唇を噛みしめる。目元に涙が浮かんだ。

「おい、さっさと−−」

「おと、さん。アリスを……アリスを、助けて……!!」

 ベイントン家の令嬢・アリスだと男達の前で演じきる。そう決意したリンは涙をこぼして必死に電話越しのベイントンに話しかけた。相手が娘の声だと気付いて余計なことを言わせないようにまくしたてると、誘拐犯の男が満足したようにスマホをリンから離した。

「娘の声がわかったな。あとは金を明日の夜までに用意しろ、受け渡しは深夜だ。いいか、この事を警察に言ったら娘を殺して終いだからな。また電話する」

 誘拐犯も相手に余計な情報を与える前に連絡を切って、スマホをポケットに押し込む。
 今のところアリスではないとバレなかったことに内心安堵すると、男がにやりと笑ってリンを見た。

「あとは神に祈ることだ」

 父親が助けてくれるように。そう言い残して、男達はシャッターを下ろしていく。
 リンは下りていくシャッターを見つめながら、俯く。

(お願い、誰か私を助けて……)

 涙が溢れて頬を伝う。
 身動きが取れない状態というのは嫌な想像ばかりしてしまう。もしもアリスじゃないとバレてしまったら、もしもベイントン家が自分を見捨てたら……と。

 誘拐犯は受け渡しは深夜だと言っていた。夜の闇に紛れて金を持って逃げるつもりなのだろう。この夜という提示時間までに警察がこの場所を突き止めて助けに来てくれればいいのにとリンは願った。


 だが、朝になって誘拐犯がベイントン家に連絡を取ると、明日の朝にならないと金が揃わないから待ってくれと言われたという。必ず金は用意するというベイントンの話に、誘拐犯達はこれを一回きりの要求としてのみ、引き渡しは明朝と変更された。

(まさか、警察が動いてくれている……?)

 リンの期待が希望への膨らむが、誘拐犯の仲間が要求の内容に不信感を抱いたのか、警察の動向を探った。だが警察は一切動いていないとわかり、希望が萎れていく。

「ふん、言う通りに警察には連絡してないみたいだな。お前の親父は娘想いらしい」

 リンを見ながらそう笑う男だったが、彼女は全然笑えない。警察を手配していないということは、ベイントン家はどうするつもりなのか。
 警察に連絡していないというのはブラフで本当は手配しているのか……それとも金を用意すると言うだけで何もせずに見捨てたのか……。

(一体、どうなるの……)

 不安だけが募る中、翌朝縄で縛られたまま引っ立てられ、小屋から出される。倉庫の中央で男に縄紐を掴まれると、まもなくベイントン家の使用人が金を持って現れる約束になっていた。

「来たぜ」

 男の声に倉庫の入り口を見ると、一人の男性がアタッシュケースを抱えて怯えながら現れた。

「ケースを奪え」

 仲間に指示を出した男が「サヨナラの時間だ」と縄を解こうとした時、閃光が辺りを包んだ。

「なんだ!?」

「動くな!!」

 倉庫の外から無数の人が突入してきて、一瞬で騒然となる。とにかく男から離れなければと身をよじると、男が拳銃を頭に突きつけてきた。

「ひっ!!」

「ちいっ、FBIかよ!!」

 男の言葉に侵入してきた人達の背を見ると、全員FBIと名が入ったジャケットを着ていた。

(警察じゃなくて、FBI!?)

「おいてめえら!! この娘が見えねえのか!!」

「きゃあ!!」

 男が大げさに怒鳴りリンを盾にして、その場にいる全員に拳銃を見せつける。

「動くんじゃねぇぞ! 動いたらこの娘の頭に鉛玉をぶっこんで−−」

 瞬間、拳銃をもつ男の手から血が噴き出した。

「うぎゃああああ!!」

「!!!」

 血飛沫がリンの金の髪に降り注ぐ。

 どこからか銃弾が撃たれたと理解した時には、男はFBIに取り押さえられていた。

「貴女、大丈夫!?」

 眼鏡を掛けたFBIの女の人がリンに駆け寄ってくる。縄を解かれると、ホッとしたように笑いかけてきた。

「リン・グレイで間違いないかしら」

「……は……はい……」

 間違いなく、アリスではなくリンの名前を呼んだ。張り詰めた緊張が解かれて床に座り込むと、女性は慌てたように手を握ってくれる。

「大丈夫。もう、大丈夫よ」

「よ、よかっ、良かった……」

「誰かこの子にタオルを!!」

「これを使うといい」

 ふわりと、頭に白いタオルが掛けられる。顔を上げると、長い黒髪の男性が大きなケースを肩に背負って立っていた。

「シュウ! さっきのは良い一発だったわ、流石ね」

 良い一発ということは、この男性が誘拐犯を撃った人物なのか。食い入るように彼を見ると、流れるように鋭い瞳がリンを捉えた。

「よく、ベイントン家の令嬢を演じられたな」

「え……」

「君がこいつらを騙せられなかったら、君は殺されて本物のベイントン令嬢がまた誘拐されていただろう。もっと酷いやり口でな」

「っ……」

「良くやった」

 男性の言葉にぼろぼろと涙が溢れてくる。ただ自分の身を守るためだけだったのに、本来誘拐される筈だったアリスのことも守れたと知って涙が止まらなくなる。

「あ、ありがとう、ございます」

 良くやったという言葉がなによりも嬉しい。この人に助けられたから、命を永らえられた。せめてしっかりとお礼を伝えなければいけないと、涙を拭って男性を見つめた。

「助けてくださり、ありがとうございました……貴方のお名前は……」

「…………赤井秀一」


 腰に流れる黒い髪が揺れて、赤井さんが背を向ける。ゆっくり立ち去って行く彼に女性が苦笑した。

「ごめんなさいね、シュウ−−あの人はいつもああだから気にしないで」

「いえ……」


 こうして、ベイントン令嬢取り違え誘拐事件は幕を下ろす。

 リンの心に残る傷として刻まれたそれは、赤井秀一との出会いでもあり、一生忘れられない出来事であった……。


「また、会いたい……」

 髪を揺らしながら去る後ろ姿を見つめながら、そう呟いた。


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