――見てしまった。はっはと息を弾ませ廊下を走っていると胸が苦しくなり、胸元をぎゅっと掴んだ。見てしまった。見てしまった。ぐるぐると頭の中を巡っていく。
 ホメロスに用事があって、ちょっと顔を覗かせようとノックもせずに扉を開けてしまった。それがいけなかった。ぎゅっと目を瞑ると「っきゃ!」どんっと誰かにぶつかってしまい、体がぐらりと揺れる。

「っと。イア、大丈夫か」
「……っぁ、ぐれ、いぐ……」

 倒れる前に腕を引っ張ってくれたのはグレイグだった。手を取ってくれたことに安堵しつつ、急に止まったことで心臓がバクバクと音を鳴らす。思わずげほっと咳き込むと、慌てた様子でグレイグが背中をさすってくれた。

「ど、どうした、大丈夫か? そんなに慌てて、なにかあったのか」
「……っはぁ、は、はぁっ」

 ふるふると首を振り、胸元に手を当てたまま何度か深呼吸を繰り返す。口を開こうとすると喉が引き攣ってしまい、「焦らなくていい」というグレイグの言葉に頷いた。
 落ち着き始めるのには大分時間がかかって、それでもグレイグは私が呼吸を整えて話ができるようになるまで待っていてくれる。グレイグの、こういうところが好きだ。胸がきゅうと鳴る。
 いつもは甘くなるのに、今はそれが息苦しい。
 ――ホメロス。

「あ、なんでも、ないの……。グレイグの顔が、急に見たくなって……探してた、だけなの」
「……お前はまた、そういうことを言う」

 ふとグレイグは珍しく優しく笑んで、ぽんと頭を撫でた。意外な反応にぽかんとすると、グレイグは目を細めて苦笑を零す。

「あまり、無理をするな。言いたくないのなら、無理に聞きはしない」
「……うん」

 思わず頷くと、グレイグはやっぱりかと言った。はっとして慌てて口を噤む。――こう言うところ、グレイグはずるい。鈍感なように見えて、ちゃんと見ているところは見ているのだから。ただただ真っ直ぐなだけじゃない。いろんなことを見て、知って、考えて――その上で、グレイグは自分の騎士道を貫いている。

「グレイグ」
「なんだ」
「……大好きだよ」

 まるで祈りみたいに呟いた。グレイグはいつもみたいに驚いたり恥ずかしがったり、困ったりしない。――それが少し、寂しかった。

「そうか」

 グレイグ、私、どうしたらいい? 浮かびかけた言葉を飲み込んで、体を起こす。見た光景はまだ、頭から離れない。

「部屋に戻って、少し休んだ方がいい」
「……うん」

 こくりと頷いて、グレイグにお礼を言うととぼとぼと廊下を歩き出す。ぎり、と胸を掴まれるような気がして、思わず眉を顰めた。

 ――ホメロス。

 見てしまった光景を必死に振り払おうとする。きっとあれは見てはいけなかった。知ってはいけなかった。私はなにも知らないふりをして、この世界に干渉しないように生きていなければならなかった。
 ……だって。
 運命に抗う力なんて、私にはないのだから。
 わかっているのに、知っているのに、だから不必要に干渉しないようにふわふわとこの世界の運命に流されるままに生きようと決めていたのに。
 かたかたと体が震え、その光景を振り払おうとバルコニーに向かった。空を見よう。山を見よう。雲を見よう。外の風に触れて、この世界の美しさに触れて、――忘れてしまおう。闇に呑まれる、恐怖なんて。

「……ホメロス」

 きゅう、と胸が苦しくなる。忘れなくちゃ、いけない。
 ――まがまがしい宝玉をその手に持ち苦しむホメロスの姿と、そんなホメロスに手を向けている王様の姿。王様の手のひらからぞっとする闇のようなもやが溢れ、それがホメロスの体を包み込み、ホメロスは苦しそうに体を折り曲げその場で呻いていた。見開かれた瞳は充血し、開いた口からは唾液が零れ、全身はがくがくと大きく痙攣し、

 ――ホメロス。そんなに苦しんでまで、あなたは力がほしいの? それとも、それとも。
 あの力を手にしたのは、あなたの本意ではなかったの?

 ホメロスが心からそれを欲し、望み、あの結果を生み出したのなら、私が干渉することじゃないと思っていた。ホメロスの苦しみは私にはわからない。あの人が抱えているもの、その心内もなにも知らない私が、安易に手を出してしまっていいとは思えなかったから。
 ホメロス自身が何度も悩み、苦しみ、もがき、それでも自ら求め、その意思で下した決断なのなら、私はその覚悟に水を差すようなことはできない。今まで自分の手にあったもの、友も、温もりも、愛も、優しさも、国も、本当に忠誠を誓うべき敬愛の対象さえも手放して、そうまでして手に入れたいものがあるのなら。――その道を塞ぐ権利が、いったい誰にあるというのか。
 彼の人生は彼のもので、他の誰のものでもない。他人が安易に足を踏み込み、汚していいものじゃない。ホメロスの苦しみをわかったような顔をして、崩していいものじゃない。だってそこに、ホメロスの意思はないじゃない。あの人の望みを、気持ちを、踏みにじって、そうするだけの権利が、いったい誰にあるというの。
 そう、思っていた。ホメロスは自分から願って力を手に入れたんだって。そうなら、私には口を出す権利はないって。
 ……違うの? そうではないの? あなたはあの力を、自分の意思で欲し、手にしたのではないの?

 ――っやめ、て……くれ、おれは……ッおれは、もう……!

 ぎゅっと自分の体を強く抱き締めた。ホメロスの嘆きが、頭から離れない。
 ねぇ、もしも。もしも歪んだあなたの心が、志が、選択が――自分で選んだ道ではなく、他者に歪められたものだったとしたら。そうしたら、私は……思い違いを、していた、のか。

(……だめ)

 考えちゃいけない。運命は変えられない。世界は変わらない。なにかを変える力があるのは選ばれた者だけ、勇者だけ。私じゃない。……私、じゃ。
 だめなのに。わかっているのに。――ホメロス。あなたの嘆きが、苦しみが、頭から離れないの。

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