デルカダール城の書物庫でうんうん首を捻り、自家製のいわゆる『あいうえお表』と睨めっこを繰り返す。この世界に来たばかりの頃に、グレイグと一緒に町を見て回ったことがある。それ以来城下町に降りることに抵抗がなくなって、たまに城下町をお散歩しては町中で見かける文字をメモして発音と合わせ、こっそりひとりで文字の練習をしているのだ。
 私の出自については、グレイグが「恐らくあの村の生き残りではないか」とホメロスに報告をしてくれていた。そして、デルカダール王が「彼女は唯一の生き残りだ」という理由でこの城に住むことを許してくれたおかげで、今は不自由することなく生活が送れている。
 デルカダール王からの直々に受けた、手厚い待遇。それは恐らく、今の私の見た目が理由だ。
 さらりと視界の端に零れる髪に目をやって、ようやく慣れてきたかなと苦笑を零す。初めて自分の髪の色を――というより、鏡を覗き込んだときは本当にびっくりした。なぜなら耳の先が少しとがっていて、髪は赤みがかかった金色、瞳の色も記憶にある自分のものではなく、なんなら顔立ちも違ったのだから。
 一体なんの冗談なんだろうと、目にした時は眩暈を覚えた。けれど不思議なことに、それでもその姿を“自分”なんだと自然に認識できたのだ。記憶の中にある、“現代”を生きていたはずの私とは似ても似つかないはずの容姿だったのに、これは紛れもない私なんだって、当然のように。

 この世界で生活をしていると、鏡を見る機会が実はあまりない。だから自分の姿を見る機会もあまりなくて、そのおかげで違和感なく生活できているけれど、それでも視界に入る髪の色には慣れないものだ。
 服についていたリボンをしゅるりと解いて、髪を結い上げてしまう。ついでに、大きなため息をひとつ。

「あぁー、わかんないぃ……」

 嘆きを零しながらがくりとうなだれる。ある程度文字は覚えたつもりだったので気になっていた本を読んでいるのだけれど、やっぱり町中で見かける文字と本に書かれている文字じゃ種類が違う。
 多分推測するに、普段町中で見かける文字はいわゆるひらがなといったもので、書籍という形になると記号だったり漢字のようなものだったり? が含まれているんじゃないかと思うのだ。
 推測の域を出ないけれど、町中の文字はどれも一文字を一音として発音するから。英語のように単語綴りでない、ということは確かだと思う。……たぶん。やっぱりこれも憶測だ。

 自分の身の上を話せなかった私は、この世界の人間という設定だ。……設定ってなんだ。ともかく、それが周知されている環境下でこのお城に住んでる。
 あと、私のような人種はすごく貴重らしくて、だから魔物に狙われたんじゃないかと言われたんだけど……当然、記憶にも知識にもないのでわからない。ここは正直に、そんなものはわからないと答えた。その上で、保護という形を取ってもらっているわけで。
 つまり、私は文字が読めません、と言い出すタイミングが掴めなかった。文字が読めない、というのは当然だけれどとても不便で、おまけにこの世界のとある村が出自である認識になってしまったおかげで文字がわからないとも言い出せず、独学で勉強せざるを得なくなってしまっているわけだ。
 ふー……。と、深くため息をつく。文字を覚えるのは結構苦労したのでいい時間つぶしになっていたけれど、いい加減独学も限界だ。本を読めるようになれば、もう少しひとりの時間を楽しく過ごせるようになるだろうに。
 グレイグのところ、遊びに行こうかなぁ。なんて考えた。今日のグレイグの予定はなんだっけ。確か昨日グレイグの隊の人たちが、明日は鍛錬がどうのと零していたような気が……。
 鍛錬のときに私が顔を出すと隊の士気が高まるからいつでも顔を出しに来いとグレイグのお墨付きをもらっているので、たまにひょっこり遊びに行ってグレイグの姿をにこにこと眺めていたりするのだ。今日もそうしようかなぁ、とため息をついたときだった。

「イア? お前、こんなところにいたのか」
「ひゃあっ」

 突然声をかけられ肩を竦め、慌てて広げていた紙を重ねて本の下に置いた。振り向くと不思議そうな顔をしたホメロスが立っていて、あわわ、と動揺してしまう。

「ほ、ホメロス! ど、どうし、どうしたの」
「なにを慌てている? いかがわしいものでも見てたのか」
「見てません」

 失敬な! じと、と睨むとホメロスはくっと喉の奥を鳴らして笑う。あまりにも穏やかな顔で、ついこの間見た光景がまるで夢だったんじゃないかと錯覚してしまいそうだ。

「なにしに来たの?」
「あぁ、もうすぐ軍事会議の時期だからな。資料を取りに来た」
「軍事会議……」

 さすが軍師様だ。ほぇー、という感じで思わず間の抜けた頷きをすると、ホメロスはくつっと喉を鳴らす。その視線が机上に移り、ん、となにかに気付いたように手を伸ばした。

「なんだ、この本を読んでいたのか」
「あっ」

 さっきまで見ていた本をホメロスがひょいと手に取ってしまい、思わず慌ててしまう。本の下に隠していた自家製のあいうえお表が丸見えで、本を取り上げるべきか表を隠すべきか迷っていると「へぇ」と感心した声を上げられて、ぴた、と動きを止めた。

「お前、これが読めるのか。この本の字が読めるのは、貴族の子どもくらいなものだぞ」
「……え、」

 ホメロスの言葉にぽかんとした。え、え? ぱちぱちとまばたいていると不思議そうな顔で見返され、ホメロスの視線が机上の上に落とされる。

「……もしかして、字の勉強をしていたのか?」
「あー……」

 見つかっちゃったー、という気持ちですすすと視線を逸らす。あぁどうしよう、字の練習が見つかったときの言い訳を何も考えてなかった。
 普段鍛錬に明け暮れている兵士さんが多いデルカダール城では、書物庫に訪れる人はとても少ない。その上私はいつも少し奥の机で練習をしていたから、これまで誰かに見つかるということはなかった。私としてもすっかり住み慣れた部屋でやるよりも静謐な空気が漂う場所の方が捗るので、これ幸いにと勉強を進めていたのだ。なんせ、こんなにも周りに文字が溢れているのだから!
 ……なので、誰かに見られるなんてまったく思っていなかった。油断してしまった。どうしよう、文字が読めないなんて絶対不審だ……!

「お前な、こんな難しい文字をひとりで覚えられるわけがないだろ」
「へ?」
「なぜもっと早く言わなかった? これくらいならオレが教えてやる」
「……え」

 思ってもみなかった反応に、さっきから眼球磨きが終わらない。
 まばたきばかり繰り返していると、ホメロスがこつんと私の額に本を置いた。

「あんな辺境の村に住んでたんだ、文字を使う機会もそうなかっただろう。自分の生まれ育った環境を恥じる必要はどこにもない」
「……えっと、」
「それよりも、その歳で文字を覚えようとやる気になる心意気の方が立派だと思うが? グレイグの隊の一部の馬鹿どもにその姿勢を見せてやりたいくらいだ」

 ホメロスの思わぬ言葉に声も出ない。え、あれ? ホメロスが優しい。てっきりなぜ読めないんだと不審に思われて眉間に皺でも寄せられると思っていたのに、むしろ感心の目を向けられてむず痒くなった。

「だ、だって、部屋にいても暇だし、でもお城のお仕事は手伝わせてもらえないし……。だったら、本くらい読みたいなって、思ったんだけど……」
「ここに置いてある本はこの国の歴史や政治、軍事、他国の資料諸々が中心だからな。娯楽の本はほとんどないぞ。どれも読めないんじゃないか?」
「……う」

 どうりで、どれもこれも意味のわからない記号みたいな文字に溢れてると思った! がぁん、と思わずうな垂れると、ホメロスはくくっと笑う。

「今日の夕食を終えた後なら時間がある。教えてやろうか?」
「ほ、本当!?」
「あぁ。頭が働くやつは嫌いじゃない」

 ホメロスはなぜかどこかうれしそうな顔で、私の髪をくしゃりと撫でた。その反応が新鮮で、きょとんとしてホメロスを見つめる。――そっか、ホメロスは頭を使って隊を動かす人だから。なんとなく、会話でホメロスの心境を察してそわそわと落ち着かなくなった。
 グレイグとは正反対で、だからこそふたりで双頭の鷲だと謳われる。ホメロスが不得手なことはグレイグが、グレイグが不得手なことはホメロスが。そうやってお互いを補い国に尽くしているからこそ、デルカダールの軍は無敗を誇っているのだ。私はそれを人の話す噂でしか耳にしたことがないけれど――兵も国民も、みんながこのふたりを誇ってる。どちらか片方じゃない、ふたりが揃ってこの国の誇りなんだって。
 きゅ、と胸が苦しくなる。……私の知っている、未来は。あの悲しい未来は、今のこの穏やかな時間に触れていると、いつまでもやって来ないんじゃないかと思えてならなかった。勇者は現れなくて、ホメロスはいつまでもこの国にいて、王様もウルノーガに乗っ取られてなんかいなくて。あんなことは、起こらないんじゃないかって。

「あ、じゃあホメロス、あの……よかったら、なんだけど」
「なんだ、もったいぶって。お前らしくもない」
「どういう意味? えっと、……この本、読めるようになりたいの。だから、読めるまで付き合ってくれる?」

 額に本を乗せられたままだったのでそれに触れると、ホメロスはそうかと首を傾げる。

「どうせならグレイグに読み上げてもらえばいいじゃないか。ベッドの上で。ついでにいちゃつけるぞ」
「ばっ……!」

 グレイグとベッド!? なななにを言うんだこの人は急に! 火がついたみたいに顔が照り出して、ぱっと視線を上げるとホメロスは心底楽しそうに笑っている。ほんっとうにこの人は根っからの性悪だなと思わず睨み付けた。悪魔め!

「お前は……っ本当に、本人がいないと途端に初心になるな……っ」
「だあぁぁ! ううううるさいなぁ、純情な乙女の心を弄ばないでくれる!?」

 ばくばくばくと心臓が高鳴って痛いくらいだ。ううう、と呻いて顔を俯かせると、ひとしきり笑い終えたホメロスは手に持っていた本を机の上に置いた。そっとその横顔を盗み見ると細まった目は柔らかくて、――この人の心に渦巻いているであろう気持ちなんて、微塵も感じ取れない。
 今ならグレイグの気持ちがわかると思った。ホメロスの様子に、その変化に気付けなかったグレイグの気持ちが。だって、すべてを知っている私だって、あの光景を見てしまった私にだって、ホメロスがあんな欲望に塗れた野望を渦巻かせているなんてとても思えない。
 あの光景はなにかの間違いだったのかもしれないなんて思ってしまうくらい、目の前にいるホメロスは穏やかで優しくて――ただの、ホメロスだった。ここにいるのはただの人。一国の軍を軍師として束ねながら、笑ったり不機嫌になったりからかったりしてくる、ただのホメロスだ。

「わかった、わかった。付き合ってやる」

 背中を丸めくつくつと笑いながら目を細めるホメロスの横顔に、胸がきゅうと苦しくなる。これからあんなことが起こるの? ホメロスはあんな風になってしまうの? そんなのとても信じられないのに、信じられないからこそ、そう考えることが怖くなる。
 ねぇ、ずっと。ずっとこうしていたいよ。ずっとこんな風に過ごしていたいよ。向き合うことが怖くてグレイグに冗談みたいにしか気持ちを言葉にできない日々の中、それでも優しく笑ってくれるグレイグとホメロスの姿があって、ふたりが笑い合い、ふたりと笑い合えるこんな毎日を、ずっと過ごしていたい。
 ――それは、叶わない夢なのかな。
 今この時この瞬間が私にとっては夢のようなものなのに、その中でなお願うなんて私は欲張りだ。でも、願わずにはいられない。

「うん。ありがとう、ホメロス」

 笑いかけてお礼を言えば、ホメロスはふと息を吐いてぽんと頭を叩いてくれる。この優しい手のひらに、闇のオーブが握られるなんて……そんなの、いったい誰が信じられるっていうの?
 お願い、もしもこの世界に彼らを見守る誰かがいるのなら。どうか、どうか、この先に続く未来に、ホメロスの穏やかな姿があり続けますように。グレイグの大切な唯一無二の友が、どうか失われませんように。

 ――どうか誰か、この声が届くのなら。……私たちを、助けて。
 

 ◇ ◇ ◇


 きゃんきゃんと陽気に上がる犬の鳴き声と共に、顔に幼さを残した少年がのどかな村の外れを駆け回っている。少年の名はイレブン、数ヶ月後に迎える誕生日に執り行われる成人の儀式のために、体作りをしているところだ。――などと体よく言うものの、幼馴染の飼い犬とじゃれているだけだが。

「さぁ、ルキ! 取ってこい!」
「わんっ! わんわんっ!」

 少年が放り投げた木の枝は放物線を描き、青空に弾いてきらりとまたたく。その先に目を向けたイレブンは、赤いバンダナが目に入りあっと声を上げた。

「あっ! 待ってルキ! 止まって! ストップストーップ!」
「わんわんっ! わんっ! わんっ!」

 少年の叫びも虚しく、ルキは元気よく一直線に枝を目掛けて駆けていく。その先、大きな木の下で腰を下ろし本を読んでいた少女は、なにやら騒がしい音が近付いていることに気付き顔を上げた。

「……え?」
「わんっ!」

 どしんっ! と大きな音が聞こえ、その後ろを追いかけていたイレブンはひぇっと顔を背け肩を竦める。ややあって、恐る恐る顔を上げてそちらを見た。

「イレブンー!?」
「ご、ごめんエマ! わざとじゃないんだ!」
「もーっ! 人がせっかく気持ちよく読書してたのに!」
「ごめんってばー!」

 ルキに飛び掛かられた少女、エマはイレブンに怒声を上げる。しかし大きな体躯の犬が胸元に体重を掛けうれしそうな様子で顔をぺろぺろ舐めているため、体を起こそうとしても起き上がることができないのだ。

「もーっ! イレブン! 早く助け……っルキ! 退いてったら!」
「わんっ! わんっ!」

 ――助けて。

 騒がしい日常の、それはいつもの見慣れた風景の中。ふと、イレブンは歩き出そうとしていた足を止め振り向いた。誰かに呼ばれたような、誰かの声を聞いたような。
 しかし、ひときわ強い風が吹き少年の髪をさらったことで木々が大きくざわめき、なんだ風の音かとイレブンは駆け出した。早く幼馴染みを助けなければ、またエマが怒り出してしまう。 

「イレブンーっ! 助けてよーっもーう!」
「今行く! 今行くから!」

 少女の叫び声が木霊し、イレブンはわたわたと歩みを早めた。少年が駆けていく足跡を辿るように土煙が立ち、過ぎていく風に流されていく。さわさわと揺れる木々の音はあまりにも穏やかで、揺れる草花すら踊っているようだ。
 青くきらめく空を白く紡いでいく雲は穏やかに流れ、鳥たちの羽ばたきは澄んだ海を泳いでいく。木々の歌は子守唄のように優しく、花の香りは日差しのように温かい。のどかな村は魔物の脅威にさらされることなく、川のせせらぎのように静かな流れをもたらしていた。

 ――願わくば。いつかの願いが、命の大樹に導かれんことを。

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