すっかり夜の帳が落ちた時分、宵闇の中で揺れる蝋の光は優しい明かりを辺りに落としていた。かすかな風が頬を撫でる度に火は揺れ、鼻孔をくすぐる煙の香りはどこか心地好い。仄暗く照らされ、けれど流れる空気には優しさが孕み、穏やかに時間は流れている。
 そんな時分に男の部屋に寝着姿でやってきているというのに、交わされる会話に男女の色香は微塵も含まれていなかった。

「これは“将軍”だ」
「はぁー……なるほど……」

 ホメロスに教えてもらいながら文字を読み進めていく。今読み進めているのは『将軍グレイグ』の文字列で、将軍、は二文字で記述がされている。“しようぐん”ではないのだ。
 ホメロスに教わってなんとなく気づいたのだけれど、この世界の文字はどうやら表記が違うだけで基本的な作りは日本語と同じらしい。確かに考えてみれば一文字を一音として発しているし、それ自体に意味を持たない言葉だけでは手記をまとめるのが大変だ。意味のある言葉は漢字と同じようにまとめられ、ひらがなのような言葉とは別個体として存在するというのは当然のことだといえる。
 ……つまり。

「覚えなきゃいけないってことだぁ……」
「そう嫌そうな顔をするな」

 がくりと肩を下ろし机の上に額をくっつけると、くっとホメロスが喉の奥で笑う。その顔をじろりと睨むと、はっと鼻で笑われた。……むかつく、なまじ顔がいいだけに。
 あーあ、と顔を横に向けて斜めに見える文字を追いかけながらため息をつく。小学生の頃は柔軟性があったからよかったけれど、大人になってから文字を覚えるのは相当に大変だ。なぜなら目の前に広がるものは文字ではなく記号の羅列で、記憶の中から知識を引っ張り出し統合させ、一文字ずつ読み上げなければならないのだから。これでは内容が頭に入ってこない。

「別に、無理して覚える必要はないぞ。書物に使われる言葉など、日常ではほとんど使われないからな」
「そうだけど……でも、読みたいんだもの」

 顔を上げてむぅと拗ねるように唇を尖らせながら、記号の羅列にしか見えないページに目を落とす。
 この本には、ユグノア国が魔物の手に落ち、王女マルティナが攫われてからのデルカダール国の歴史が綴られている。16年前の悲劇から、この国は一度生まれ変わったのだ。ユグノア国に裏切られ、最愛の娘を失った王の悲劇――しかしそれを乗り越え、多くの功績を刻み続けるデルカダール国の軌跡を讃えるために。
 だから、この本には。グレイグとホメロスの名前が、必ずどこかに出てくる。

「グレイグのことが知りたいのなら、“一騎当千の将軍”を読めばいいじゃないか。あれなら庶民向けも出回ってる」
「でもそっちには、ホメロスのことが書いてないでしょ」

 なにを言うの、と返せば、ホメロスはぱちぱちとまばたきした。虚を付かれたような顔をするので、なぁに? と首を傾げる。

「オレのこと? そんなものを知って、どうする」

 心底理解されなかったみたいで、なんだか悲しいなぁと思いつつ本の羅列を指先でなぞった。

「だって、グレイグがこれまで無敗を誇ってきているのは、ホメロスの存在があるからでしょ?」

 この国の兵士さんたちが討伐や戦争に赴いても、最小限の被害で戻ってくるのはホメロスの作戦があってのこと。作戦がなければ軍の統率は取れず、的確な指揮を執ることはできないのだから。グレイグの功績があるのは、グレイグの手腕だけじゃない。――いくら将軍の腕が立っても、兵が動かなければ戦には勝てない。兵を動かすのはグレイグでも、その後ろ――グレイグが辿る指揮は、ホメロスの策だ。

「グレイグがいつも無敗で戻って来れるのは、ホメロスの作戦があるから。デルカダールのふたりの英雄は、この国の象徴の双頭の鷲と比喩される程の意味を持ってる。どっちが欠けても、双頭の鷲にはならない。……でも、英雄である前に、ふたりは私の大好きな友だちだから。自分の目で、知りたいの」

 陽が落ち、静かな夜に落ちる暗闇は静かだ。灯りが揺れては手元に影を作り、壁に伸びる私とホメロスの影はひとつに重なっている。

「確かにグレイグの活躍は、読み物としてとっても華やかで素敵だとは思うんだけど。……私は、デルカダールの軌跡とふたりの英雄の功績がわかる、この本がいいの」

 どちらかを知るだけじゃいけない。グレイグの傍には常にホメロスがあって、ホメロスの傍にはいつもグレイグがあった。だからこのふたりは今もこの場所にいて、この国をそれぞれのやり方で守ってる。それはどちらが欠けてもいけなくて、どちらかだけでは成り立たないものだ。
 ホメロスの反応が来ないので顔を上げると、ホメロスは呆然とした顔をしていた。何度かまばたきを繰り返し、顔の前で手を振るとはっとした様子で顔を背けてしまう。口元を押さえ、ぼそぼそとなにかを呟いたようだったけれど……なにを口にしたのか、聞き取れない。

「……お前は、本当に」

 そっと口元から手を放したホメロスはそう言って、けれど続きを待ってもなにも言わないまま、結局なんでもないと首を横に振ってしまう。なにを言い出そうとしたのか気になって首を傾げれば、誤魔化すようにぐしゃりと髪を撫でられた。

「なんでもない、気にするな。それよりほら、続きはいいのか?」
「あ、うん」

 なんだろうとは思ったけれど、話を逸らされてしまえば食い下がることもできない。気になりはするものの、こっそりと覗き見るホメロスの目があまりにも優したかったから、まぁいいかと本に視線を落とした。
 このページになにが書いてあるのかはわからない。でも、このページを眺めるホメロスの目は、……どこか、懐かしそうで。
 いつかそれを、自分の目で知れる日が来るのかな。そうなると、いいな。さらりとページの表面を撫で、込み上げる愛しさに目を細めた。デルカダールが誇るふたりの英雄、双頭の鷲。その軌跡が綴られたこの本は、……きっと、ホメロスにとっても、大切なものであるはずだから。


 ◇ ◇ ◇


 見慣れた部屋だというのにやけに静かに感じ、ホメロスは先ほどまでイアが腰を掛けていた椅子に目を落とした。この静かな時間が嫌いではなかったはずだが、どこか物足りなさを感じる。――それはあの日から、度々イアがこの部屋に足を運ぶようになったためなのだろう。その自覚があるからこそ、ホメロスははっと自嘲を零した。
 イアに始めに教えた言葉は、町中ではほとんど見かけることのない、日常語の変形語だった。主な用途は書物として記す際に名称と区別するためで、先ほどのイアが読んでいた本の一説をなぞるならば『グレイグ将軍は』の“グレイグ”の部分に当たる。もちろん書物に記載されているホメロスの名も、同様に“ホメロス”と記載されている。
 それを、たったひと月ほどで一通りはなんとか覚えたと言うのだから驚きだ。イアは本当に、あの本を自力で読みたいらしい。飲み込みの早い子どもですら、変形語は複雑で覚えるのに数か月は要するというのに。
 変わっていると、ホメロスは思った。自分の力で目を通そうが誰かに読み上げられようが、同じものではないのか。どの道与えられる情報量は変わらないのだから。

 だが、イアのあの前向きな姿勢は嫌いではない。自分の目的のためにまっすぐ前を向き、人の手を借りるのは最小限に済ませ、最後には自分の力だけで目的を果たそうとする。――それは、過去の自分を思わせた。ホメロスがまだ、純粋に夢と憧れを抱き、友と共に肩を並べていた頃のことを。
 騎士としてまっすぐに、己の信念を貫く姿。イアの姿はまさしくそんな騎士のものだった。
 騎士道などひとつも学んでいないであろうイアの方が、よほど騎士に相応しい志を持っているなど。そんな彼女に文字を教えているのが国を裏切りを続けているホメロスなのだから、まったく笑える話だ。自分はあまりにも、騎士からは程遠い。浮かべる笑みは乾いたままで、部屋の中に流れるかすかな風が頬を冷やしていく気さえする。
 揺れる燭台の火をぼんやり見つめ、ベッドに背を預けたホメロスは目元を腕で覆い隠した。途端に広がる闇は、ずく、とその心に浸食していく。

「……デルカダール国が誇る、二人の英雄。双頭の鷲」

 口にしたその言葉に笑ってしまう。あぁ本当に、笑える話だ。双頭の鷲など、いったい誰が言い出したのか。
 武勇を上げるのはグレイグで、脚光を浴びるのもグレイグ。どれほど緻密に知略を練ろうとも、その功績がホメロスの手に渡ることなどない。そう、当然だ。イアの言葉は正しい。軍事の策とは、本来そうあるべきだ。
 将軍と軍師の肩書きを持つホメロスが、なぜ軍師としての姿を公表しているか。それは偏に、この国が誇る軍事力のためだ。
 本来内に隠すべき軍師の存在を表に出すことができるのはデルカダール国が最高峰の軍事力を誇っているからで、言い換えれば《落とせるものなら落としてみろ》という圧力でもある。通常、国は軍師の存在を隠すものだ。軍師の存在が明るみになればその存在は他国の手にかかりやすくなり、軍師が落ちれば国の存亡を左右することになりかねない。時には王にすら言葉を発する権限を許される軍師とは、そんな存在だ。
 常に王の傍に立ち、その上で効率よく最小限の軍事力で戦争を終わらせる。それこそが、将軍でありながら軍師の肩書を持つホメロスの持つ使命であり、役割である。

 まるでそれを言い訳のようにして、同じく将軍という地位に立つグレイグの功績から目を逸らす。イアの言う通りだ。グレイグの『何百回と魔物の討伐に赴くも、未だに無敗を誇っている』と称賛される功績は、ホメロスの策があってのもの。ホメロスの策のもとグレイグが戦場に出れば、王国の兵たちは天下無双の舞台と化すのだと。
 それが、この国で栄光として謳われる内容だ。ふ、と、乾いた笑みが浮かんだ。
 同じ将軍でありながら、将軍と呼ばれるのはグレイグだけ。ホメロスの肩書きは『軍師』であり、将軍とは名ばかりなものだ。どれほど手のひらに血を滲ませようとも、どれほどこの肉体を痛めつけようとも、グレイグのように強固な体を手に入れることはできなかった。

 同じ立場にいながら、常にグレイグは上に立つ。それは天性が与えたものだ。グレイグは体に恵まれた。その上で剣技の腕に優れていた。そのふたつを併せ持ち、僅か二十という若さで王の側近としてユグノア国へ赴き、あの場を襲った魔物をひとりで屠り去ったのだ。
 将軍の称号を手に入れたのもグレイグが先だった。やっとの思いでホメロスが将軍の地位に上り詰めたときにはグレイグは英雄と呼ばれ、同じ立場に並んだはずだというのに、その強大な功績の前に凄まじい劣等感が彼を襲った。
 剣を握り始めたのはホメロスの方が早かったというのに、力があるというだけであっという間に歯が立たなくなった。それでも立場が対等であったからこそ、胸に疼く痛みより友と共に国の未来を担っていく希望を持つことができていたのだ。
 ――それも、そんな友情すら、グレイグがこの手を取らなかったあの日から、徐々に薄れていってしまった。

 人の心はあまりにも弱く、あまりにも脆い。小さく秘められていた妬みは月日を重ねるごとに大きくなり、逸らせないほどの痛みとなり、いやでもこの心を締め付け苦しめるようになった。他人を妬むなど心が弱い証拠だと何度も自分を叱咤し、努力が足りないせいだと血が吐くほど鍛錬を続け、それでも決して埋めることのできない絶対的な身体能力の違いが、更に闇を深くした。
 その愚かな妬みを消し去ろうと、皆が静まり返った時分にどれほど剣を振るっても。知恵と技術だけでは勝てないのだと、圧倒的な力を前に思い知らされた。

 幼い頃、互いに剣を交じり合い、いつか国一番の騎士に贈られるという盾を王から賜るのだと誓った思い出が胸を締め付けた。デルカダールのふたりの英雄、軍師ホメロスとして讃えられる今、ホメロスの手にあの盾が贈られることはないだろう。あの盾を持つに相応しい武勇を重ねる将軍は、この国にはひとりしかいない。
 胸の奥がずくりと痛む。暗闇に沈んだ視界の中に闇の影が見え隠れし、ホメロスは眉をひそめた。なぁ、イア。こんなオレの気持ちを知ってなお、お前は笑うのか? 陽だまりのような瞳で、闇すらも包み込んでしまうような慈悲の瞳で、お前はオレを包んでくれるのか。
 イアの顔を思い出すと、暗闇の中に伸びる影が鳴りを潜める気さえした。そんなはずはない。闇の王の手から賜った宝玉は日に日に禍々しさを増していく。その度にこの心は小さなことで苛立つようになった。兵たちが囁く二人の英雄を比較する声に、心がかき乱されるようになった。諦めているはずだった事柄に、心が波立つようになった。

 それでも。――それでも、なぜだろう。彼女が傍にいると、あの宝玉を手にしたことなどなかったかのように心が凪ぐ。まるで、彼女ならばすべてを受け入れてくれるのではないかと、愚かな願望を抱いてしまいそうになほどに。
 しかしそれは駄目だとホメロスは視界を塞ぐ。駄目だ、彼女に触れては。彼女は陽の光の下にいるべきで、闇に下ったホメロスの傍にいるべきではない。彼女はグレイグの傍にいるべきで、光は光と共にあるべきなのだ。
 だというのに、イアの光はまるで強烈に放つグレイグとは違った。すべての闇すらも溶かしてしまう、優しい日差し。雪空に降り注ぐ、淡い光のように。色濃く作り出される闇すらも、ふわりと溶かしてしまう。強烈な光は色濃く影を生み出すが、淡い光には静かな影が潜むばかりだ。――イアの放つ光は、そんな、世界中のすべてを包み込んでしまう、穏やかなものだった。
 だからこそ、焦がれるのだろう。闇に染まったからこそ、惹かれるのだ。手の届かなかった場所、手にすることのできなかったもの。それを、彼女自身が放っているから。
 ホメロスの色濃い影は、グレイグの放つ強烈な強い光によって生み出されたものだった。ならば、――ならば、イアの傍で作り出される影は。そんなものは結果論だと知っている、どれほど浮かべたところで机上の空論に過ぎない。それでも、思う。

 もしも彼女の愛情が、ホメロスに向けられることがあれば。闇に染まるこの心すら、彼女は掬い上げてくれるのか。

 あまりにも愚かな願いだ。しかし、愚かであっても願いだった。
 一度は自ら望み、自ら手にした力だ。しかし、それが常ではなかった。あの日から、王の正体を知り、闇の甘言に心を揺らしてしまったあの日から、徐々に闇に染まりゆく心の変化に怯えている。
 そうして今や、その怯えはそれだけに留まらない。いつか、彼女と過ごす僅かな穏やかさすら、失われてしまうのではないかと。ひとときでも闇の甘言に飲まれる前の穏やかな時間を取り戻せたからこそ、恐怖は一際大きくなった。もしもこのひとときの穏やかさすら失えば、ホメロスの心はもはや闇に染まっていくよりほかにない。
 闇に飲まれるのは早く、一度飲まれてしまえば照らされることすら叶わない。影となってしまえば最後、光に照らされ消えるしかないのだから。
 愚かだと、笑うだろうか。うずく胸の痛みは消えない。誰の目にも触れないよう部屋の隅に隠してある宝玉は、そうであってもなおその存在をホメロスに知らしめていた。

 ――我はここにいる、我の力はここにある。力が欲しいのだろう、軍師ホメロスよ。グレイグのように剣を手に、戦場を駆け、武勇を挙げたいのだろう。その武勇を、あの男以上に讃えられたいのだろう。ならば、さぁ、この手を取れ。この宝玉の力を受け入れ、お前の中に眠る真の力を呼び覚ますのだ。さすれば、グレイグのように強靭な肉体を手に入れることすら容易い。

 あれは、巧みに甘言を繰り返す悪魔の囁きだった。ホメロスの中に眠る小さな闇が顔をもたげる度に、その声は悪魔が囁くように甘く響き、彼の心に巣食う小さな闇が眠るほんの僅かな隙間に入り込んだ。
 どう足掻いても届くことのない功績に焦がれ続けてきたホメロスにとって、今や妬みと憎しみの根源でしかない友に匹敵するほどの力を手に入れられるという言葉は、あまりにも甘く、夢のような囁きだった。
 その、弱さを知ってなお。イアはホメロスの軍師としての功績を、讃えるのだろうか。ふっと浮かぶ笑みは歪み、自嘲にまみれている。
 なぁ、イア。傍にいない彼女に語り掛ける。なぜお前はすべてを知っているような静かな瞳をしている。まるでこの世界に起こる事柄のすべてを認知した上で、ただ見守り静観する命の大樹のように。なぜすべてを受け入れるような瞳で、この世界を――オレを、見つめるんだ。
 その瞳に、縋ってしまいたくなる。手を伸ばしてしまいたくなる。なぁ、知ってくれ、オレの罪を。知ってくれ、オレの弱さを。その上で、すべてを知って、闇に手を染めてしまった愚かな心を知った上で――どうかオレに、微笑みかけてくれ。この弱さも罪もすべてを許されてしまいたい。それでもいいのだと、そうだ、誰かに――誰かに、許されたい。

 手に入れたいと目指し続けてきた夢は無情な現実を前にあっけなく潰え、掲げてきた騎士道は歪み、それでも王者への忠義だけは失くすことができなかった。それはデルカダール国最強の騎士に与えられる盾を手にするという夢を失くしたホメロスにとって、唯一残った己の騎士道だ。例え人々に将軍として称賛されることがなくとも、例えホメロスの武勇がグレイグの武勇にかき消されても、この忠義心だけは消せはしない。
 例え尽くすべき相手が違っても、この心にはまだ、誰かのために尽くす忠義がある。それすらも手放してしまえば――彼の手には、騎士として生きてきた人生の、なにもが残らない。

 じりじりと、燭台の蝋が溶けていく音だけが静かな部屋に響いていた。闇の足音はひたりひたりとやってきて、ホメロスの背中を見つめている。
 ――にたりと、赤い笑みを浮かべながら。

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