聞こえる会話が遠い世界のもののように、或いは目に見えない壁に阻まれているかのように、ノイズが混じり合って思考からかき消していくように響いていく。全身から血の気が引いていく気がするのは──どうしてだろう。

「やっぱり、ホメロス様よりグレイグ将軍だよな!」
「あぁ、やはり男はこの腕で戦ってこそだ。武勲を立ててこそ、騎士としての誇りになるのだからな」

 彼らはグレイグの隊の人たちだ。だから彼らの言葉に他意はない。ホメロスと比べているのはわかりやすい比較対象だからで、ホメロスを貶める意図がないことがその声音から伝わってくる。きっとあの言葉を他の誰かが──例えばグレイグやホメロスが聞いたらどう思うかなんて、微塵も考えていないに違いなかった。
 ──けれど。
 彼らを見つめる視界の端でさっと銀の髪が翻り、白い鎧が暗がりに消えていく。すっかり陽の光が消えた時分、明かりが灯っていても城内はどこか仄暗い。揺れる光に映し出される背中がその先に続く闇に飲まれてしまいそうで、はっと息を飲んだ。

「あっ、イア様! こ、こんばんは! グレイグ様の元へ行かれるところですか!?」
「イア様! 本日もお美しくあらせられて!」

 気さくに声を掛けてくれる彼らにどんな反応を返していいのかわからない。開きかけた口をぐっと噤んで、渇いた口の中を潤そうと僅かな唾液を飲み込んだ。

「口にする話題は、場所を選んだ方がいいと思うわ……」

 口の中に苦みが広がる気がして、え? と首を傾げる彼らに精一杯の笑みを向ける。すっとその前を通り過ぎて、床を蹴った。

 ──ホメロス!

 駆け出した途端、頭の中にガツンと声が響く。ホメロス。ホメロス! まるで暗闇に飲み込まれてしまいそうな、そんな恐怖が、こしらえたばかりの傷口のようにずくずくと疼いた。
 誰もが少なからず抱く、心の闇。眠ってしまえば忘れてしまえるような小さなものであっても、それすらホメロスの白さをあっという間に飲み込んでしまいそうな気がして。
 彼らの言葉を聞いたホメロスの瞳に浮かんでいたのが、悲しみでも怒りでもなかったことが胸を刺す。静かに凪ぐ色は、ただ、ただ、事実を静観していた。そうだ、ホメロスは、グレイグと比べられることを──もう、諦めてしまっている。
 私のことではないのに、どうしてこんなにも胸が痛いんだろう。自分のことを言われたわけではないのに、どうしてこんなにも心が苦しいんだろう。わからなくて、ただ、それでも今のホメロスをひとりにしてはいけない気がして──ホメロスはゆっくり歩いていたはずなのに、その姿が見つからない。どくどくと弾む鼓動が痛みを孕ませて、嫌な予感が冷や汗となって額を流れた。
 ホメロス、どこにいるの。ホメロス、……ホメロス!

「……ックソ!」

 心の中でホメロスの名を叫ぶと怒気を孕んだ声が聞こえ、次いでドンッと鈍く響いた音に思わず足を止める。はっとして横を見れば、曲がり角の向こうでホメロスが横の壁に拳をぶつけていた。
 は、っは、と乱れた私の呼吸の音は、ホメロスの耳には届いてないようだ。

「クソ、……ックソ!」

 ドンッ、ドンッ! と音を立て、苛立った様子で壁に拳をぶつけるホメロスの後ろ姿に足が竦んだ。
 胸が痛い。急に立ち止まったから? 喉が苦しい。口の中が渇いているから? 違う、と首を振る。
 大きな通路と通路の間に挟まれた小道に明かりはなく、ホメロスの影はくっきりと黒く切り取られていた。真っ白い鎧さえ、闇の中では黒く重く沈んでしまう。

「──ホメロ、ス」

 声を掛けようとして手を伸ばし、それでも私の足は動かない。ねぇ、こんな場所から手を伸ばしても、ホメロスには届かない。もっと近付かなきゃ、あの背中に寄り添わなきゃ、手袋を外して壁にぶつけている拳を止めなきゃ。そう、思うのに。
 きゅうっと胸が熱を持ち、鼻の奥がツンと響く。頬を伝う熱いなにかを、拭う余裕はなかった。

「ホメ、ロス……」

 微かな音は、ホメロスの耳には届かない。
 あなたはこうやって、……そうやって自分を傷付けて、自分を痛め付けて、自分の中にある悔しさを押し殺そうとしているの? 諦めたような顔をして、本当は誰よりも諦めてはいなくて、本当は誰よりもグレイグの功績に憧れているのに。きっとこの国に兵として志願する人たちよりもずっと前から、ずっと長く、ずっと、ずっと。
 私になにが言える? 私になにができる? 私にホメロスの苦しみはわからない。ホメロスの悔しさはわからない。私に、……私に、なにができるの?

「──ックソォ!!」

 ガツン! と一際大きく響く音に、気付けば足が床を蹴っていた。もう一度振り上げられた腕に目がけて、それが勢いよく振り下ろされ壁にぶつかってしまう前にホメロスの腕に抱きつく。

「ダメ!」

 例えホメロスが力ではグレイグに及ばないとしても、その力は確かに将軍のものだ。私の体なんて、ホメロスには到底敵わない。
 ガツン! と大きな衝撃が全身に走り、目の前が大きくぶれた。急に息を吸い込んだみたいな悲鳴が喉を引き裂いて、子犬みたいな声が響く。

「……イア!?」

 驚いた声を上げるホメロスを見上げて、ぐらぐら揺れる視界の中、口を開く。抱き締めた腕が壁に届いていないことに胸を撫で下ろし、後になってがくがくと体が震えた。

「だめだよ、ホメロス……こんな風に、自分を傷付けちゃだめ」
「……な、」
「だめだよ、だめ……だめだよ。お願い、自分を傷付けないで……こんなこと、しちゃ、だめだよ……」

 ふらふらと回る視界が気持ち悪くて膝を折ると、そのままずるずると体が沈んでいく。はっと息を飲む音と共にホメロスが体を支えてくれた。そっと労わるように背中に触れてくれる手は、こんなにも温かいのに。

「どうして、こんなところにいる」
「……だって、」

 呟かれた声は擦れ、震えている。その声がどうしようもなく切ない。──だってあなたが、自分の意思で、その足で、孤独を選ぼうとするから。
 きっとホメロスはこれまで何度も、こうやって人気のない場所で行き場のない悔しさや怒りを吐き出して、ぶつけることのできない苦しみを痛みで誤魔化してきたんだ。それが悲しくて、痛くて、苦しくて、胸が締め付けられる。
 どうしてそうなの、どうしてあなたはそんなにも不器用なの? この国の誰よりも聡明で、きっとどんなことでも知っているあなたは、どうして他人に甘えることを知らないの。
 顔を上げて、ホメロスの目をじっと見つめる。ねぇ、どうして──今のあなたは、こんなにも優しい目をしているのに。

「どうしてお前が、そんな顔をする。どうして、泣いてるんだ」
「……っだって、ホメロスが」
「オレのことで泣くのか、お前は」

 ふっとホメロスが浮かべた笑顔は、なんて言えばいいのかわからなくて。呆れるような、悲しんでいるような、……とても、寂しそうな。その笑顔にきゅうと胸を締め付けられて、苦しくなる。
 どうしてあなたは、そんなに寂しそうにするの? 私の問いかけは全部、声にはならずに消えていく。

「とんだお人好しだな、好きでもない男のために涙を流すなんて。それならいっそ、体で慰めでもしてくれ」
「いいよ」

 するりと口から零れた言葉にホメロスは瞠目して、それから悲しげに目を細めた。バカか、と、呟かれた声は小さい。

「好きでもない男に抱かれていいなんて、馬鹿なことを言うんじゃない。お前が愛されたいのは、グレイグだろう」
「ホメロスが、言ったくせに」

 零れる涙を堪えようと唇を噛み締めると、ホメロスはふと口端を上げ、寂しそうに目を細めた。くしゃりと髪を撫でられて、思わず目を瞑る。瞳にたまった涙が押し出されて、ぽろぽろと頬を滑り落ちていった。

「なんなんだ、お前は……。本当に、なんなんだ」
「ホメロス……」

 はは、と乾いた笑いを浮かべるその姿が悲しくて、涙は堪えようとしても零れ落ちて止まらない。その涙をホメロスの指先が優しく掬うから、余計に止められなくなってしまった。
 ねぇ、本当に愛されたいのはあなたでしょう? 認められて、必要とされて、愛されたいのはあなたなんでしょう? それなのにどうしてあなたは憎まれ口ばかりを叩いて、自分から全部手放そうとして、自分にはなにも手にする資格がないみたいな顔をして、すべてを諦めようとしてしまうの?
 本当はなにひとつ諦められないくせに、欲しくてほしくて仕方がないくせに、その気持ちを抑えることができないくせに、どうして平気なふりをして自分の気持ちから目を逸らそうとするの。
 ホメロスが立っている場所はあまりにも遠い。私が手を伸ばしても、声を掛けても、きっとなにも届かない、遠い遠い場所にいる。誰もいない場所にひとりきり、その心を置いてけぼりにして、寂しい寂しいと泣く心から目を背けて、耳を塞いで、あなたは自分の心から目を逸らそうとする。──ねぇ、あなたの心に忍び寄る闇の足音は、どんどん近付いて来ているのに。
 きっと、私がかけられる言葉なんてなにもない。きっと私がどんな言葉をかけたって、それは空虚に乾いて風船みたいに軽く飛ばされて、大事なことはなにひとつホメロスには届かない。全部諦めた顔をして、なにひとつ諦めることのできないホメロスは、あまりにも不器用で、あまりにも甘えることを知らない──まるで、小さな子どもみたいで。

「どうして泣くんだ、イア。どうしてお前が、オレを見つけるんだ……」
「だって……っだってホメロスが、泣かないから」

 あなたの代わりに、なんて、そんな大それたことは言わない。私にあなたの心はわからない。
 でも、ねぇ、あなたの心を思うと、まるで自分のことのように苦しくなる。まるであなたの心と私の心がくっついてしまったみたいに、その痛みが全部伝わってくるみたいで。──そんなの、おこがましい自惚れだ。なにもわからない。わかった気になって、勝手に想像して、勝手に傷付いているだけ。これは私のエゴで、ただ私が救われたいだけなんだって、知っている。
 それでもホメロスは呆れたみたいに笑って、ようやくその顔にいつもの優しさを浮かべてくれた。
 あぁ、私の知っている、いつものホメロスだ。その事実がうれしくて、なのにどうしようもなく悲しくて、涙はいつまでも止まらない。

「オレが泣くわけないだろ。そんなもの、意味がない」

 くしゃりと髪を撫でるホメロスの手つきはあまりにも優しくて、そのせいで涙が止まらないのよと責任転嫁しながら、どうして私が泣いていて、ホメロスは私を慰めているんだろうと不思議になる。逆なはずなのに、本当に泣きたいのはあなたの方で、慰めたいのは私のはずなのに。
 ねぇ、ホメロス。どうかこの手を覚えていて。どうかその温もりを覚えていて。あなたの手はこんなにも大きくて温かいんだって、どうかそのことに気付いて。ねぇ、私を慰めてくれるその心を、どうかどうか覚えていて。

 ──決して手放したりしないで。ホメロス、ねぇ、お願いだから。

 なにひとつ口にできない願いを、何度も何度も繰り返す。いつか星に届くように、いつか月に届くように、いつか──誰かに、届くように。


 ◇ ◇ ◇


 早い時分に寝静まった村の静寂に包まれ、少年はベッドの温もりの中で夢を見ている。優しい手を、祖父の温もりを、穏やかな声を。

「イレブンや。大事なことを教えてやろう」
「なぁに、おじいちゃん」

 静かに流れる川の音は心地好く、穏やかに時は過ぎていく。釣り竿の垂れる先に視線を送り、寄ってくる魚の影を探している少年の声はどこか遠い。テオは目を細め、愛しい孫の背中を見つめていた。

「いいかいイレブン、いい男になるための、とっておきの秘訣じゃ」
「うーん」
「泣いている女性の助けを、聞き逃しちゃいけないよ。どんな時でも女性の味方でいることが、いい男の秘訣じゃ」

 生返事な少年の背中に、祖父の声は遠い。まだ早かったかのうと笑う彼の手の中で、釣り竿が大きくしなった。

「お、これは大きいぞっ!」
「やったー! 今日はご馳走だ!」
「イレブン、網を取ってくれ!」
「りょーかいっ!」

 ぴょこんっと飛び跳ね敬礼を取った少年は、祖父に言われた通り大きな網を構える。ぐぐぐ、としなる釣り竿を引き上げる祖父にがんばれがんばれ! と少年が声援をかければ「ぬううぅ……っ!」孫にかっこいい姿を見せねば! と、彼の足元にぐっと力が入る。

「おりゃあああーっ!」
「おおおおおーっ!」

 ばしゃあっ! と上がる水しぶきは大きく、釣った魚の体躯はその音に見合った大きさをしている。ポーンと釣り上げられた魚のあとを追いかけて、少年は短い腕を懸命に伸ばした。
 見事網の中に納まった魚はびちっと大きく跳ね、少年の体が引きずられる。「わわっ!」少年は慌てて踏ん張り、全身に力を込めて思い切り網を引き上げた。

「よしっ! よくやった、イレブン!」
「やったー!!」

 釣り上がった魚は大きい。テオは陸に上げられびちびちと跳ねる魚の尾を掴むとそれを持ち上げ、胸を反らした。

「どうじゃ!」
「すごーい! おじいちゃんすごーい! かっこいい! かっこいい!」
「そうじゃろう、そうじゃろう」

 孫の称賛に、うんうんと満足げに笑い首を振る。そうじゃろう、じいじはすごいんじゃ。なんと言っても、イレブン、おまえのじいじじゃからの。
 ほっほっほ、と陽気に上がる笑い声。その横できゃっきゃと声を上げる幼い声は、やがてやってくる少女の声に重なり消えていく。

 ──ふ、と目を覚ましたイレブンは、まばたきを繰り返し体を起こした。外を見ればまだ暗く、星が煌めいている。随分と懐かしい日のことを思い出して、胸の奥が優しく痛んだ。

「……いい男の、秘訣」

 忘れていたどころか、覚えてすらいなかった記憶。なぜ今それを思い出したのか、イレブンはふあと大きく欠伸を零して再び布団の中にもぐりこんだ。懐かしい夢だった。優しく、温かく、愛情に満ち溢れた、世界一のイレブンの祖父。幼い頃に命の大樹様の元へいってしまったが、その葉は今、この世界のどこかで新しく芽吹いているのだろうか。
 再びまどろみに落ちる中、優しい声が聞こえてくる。──イレブンや。それはあまりにも優しく、彼の胸を締め付けた。

 ──イレブンや、人を恨んじゃいけないよ。わしはお前のじいじで、幸せじゃった。

 ボクもだよ、おじいちゃん。ボクはおじいちゃんの孫で、幸せだった。

 そして今も、少年の幸せは続いている。大気に揺れる星々がまたたき、風に揺れる木々がささやき、月明かりが優しく照らす山間で。少年の日常は、穏やかに繰り返されている。

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