新しい家

「良いか、お前は今日から尾形なんだから俺の家族の事は覚えておけ。
ここに居る以上俺の上官と顔を合わす事もあるだろう、その時にボロが出たら困るのはお前だ」
「まあ、そうですね」

尾形さんの名義で部屋を借り、同居人として私が登録される形となった。
同居人とは言え何か突っ込まれるのかと思ったが契約者は軍人様である尾形さんであるからか、上手くいったらしい。
もしかしたらどこかで尾形さんが手を回したりしていたのかもしれないが、今日から私は尾形としてこの部屋に住む事が許されたのだ。
とは言っても部屋は小さく、布団も辛うじて二つ敷ける程度のものだが私は荷物が少ないし、尾形さんも基本は兵舎に住むのだから問題は無い。

しかし部屋を借りるにあたり、私たちは念入りに設定を練った。
尾形さんは身寄りの無い親戚が部屋を借りたいが難しく、自分の名を貸して良いかと上官に相談したらしい。
何時どこで尾形さんの上官と会うか分からないのだから辻褄が合うよう、違和感の少ないよう、また信憑性を高める為にも真実を織り交ぜながら。
その為にも尾形さんの家族構成は重要だ。

「まず俺の父親は第七師団団長、花沢幸次郎だ。その妾との間に俺は生まれた」
「ちょっと待ってください。出生から特殊ではありませんか?」
「この位はよくある話しだろ、まあ俺と親戚と言ったら花沢の話しをされるかもしれんがそこはよく知らないで通せ。自分はあくまで尾形の者だと主張しろ」
「はぁ…」
「それと、花沢幸次郎には正妻との間に子供がいた。俺の腹違いの弟に当たる花沢勇作というが…これもよく知らないで通せ。
と言っても、この二人はどちらも故人だから何か言われるかもしれないがその時は適当に残念でしたとでも言っておけ」

ここまで聞いて尾形さんが私に手を差し伸べた理由が少しだけ分かった気がする。
その妾であった母親も既に故人であると言うのは昨夜酒に酔った尾形さんが話していたし、彼は私と自分を重ねているのかもしれない。
私のように天涯孤独の方がいっそ気楽だったのかもしれないとすら思った。

子供は親を選べないが、彼も少なからず苦労をしたのだろう。

「その二人は優秀な方だったんですか?」
「そうだ、だからよく知らなくても敬う姿勢だけ見せておけば良い。
…ちなみに、どうやって死んだか聞きたいか?」
「…別に。私が本当に尾形の人間だったとしても興味無いと思いますよ」

とにかく敬う姿勢だけで良い、というのはそれさえしておけば評価が下がる事はない妥当な対応だからだ。
それでも他人の事なんて興味は無いし、例え親戚と言えど遠縁ならば尚のこと他人同然だと思う。
自分が生きるのに精一杯だというのに他人の生き死にまで気にしてる余裕は私には無かった。

「そうか、なら良い。
ああ…それとお前に宿題だ」
「はい?」

尾形さんの口ぶりからするに、二人の死について話したがってるのかと思ったが私の反応を見て満更でも無いようだった。
細かい事を気にしない性格が気に入られたのだろうか?
追求するつもりもないがそれによって尾形さんの身の上話しは終わり。
私はまさかの生まれて初めて宿題を課せられそうになっていた。

「ロシア語を覚えろ」
「はー?!」
「良いだろ、冬の宿代も浮いて焦って稼がなくて良いんだ。
その時間を勉強に当てろ、お前読み書きは出来るんだから」
「確かに私は読み書きは出来ますよ?!でもロシア語なんてどうしてまた?!」
「役に立つからだ。お前はアイヌ語も分かるしロシア語も喋られるようになったら稼ぐ手段も増えるぞ。
安心しろ、俺も教えてやる。ただで語学を身につけられるなんてこんな良い機会を逃すのか?」

私が読み書きを出来る様になったのはその方が生きやすかったからだ。
かと言って決して簡単な事ではなく、これを身につけるのも必死だったと言うのに大人になった今また新たに言葉を覚えろと?

「こ、こんな落書きみたいな文字を覚えろって言うんですか…。
英語の方がまだ覚えられそうな気がする…」
「実際ロシア語は難易度が高い、その分需要がある。
良いから覚えろ」

さっきから尾形さんは私には選択権が無い物言いしかしない。
そうか、覚えるしかないのか…。
でも確かに狩りは何時迄も出来るものでもないし、北海道でのロシア語は需要が高いだろう。

弱々しく承諾の返事をし、私は分厚い本を開いたが
勉強を開始して早々に、これなら必死に山で狩りをしていた方が楽だったかもしれないと思ったが尾形さんがそれを許してくれなかったので渋々机に向かう事とした。