薩摩隼人

はぁ…折角久々に屋根のある場所に住めると思ったのにロシア語は難しいし
何だかんだでいきなり尾形さんはやってくるしであまり気は休まらないかもしれない。

でも冬の間は金が掛かるのは事実であり、それが浮くだけで無く
ロシア語はアイヌ語よりも需要が高そうなのでもう少し安定して稼げるかもしれない。
手段が増えるのは良い事なのだから頑張ってみよう。
それに初めて机に向かって勉強するのはどこか嬉しいものがあった。

「ん?何だこれ?」

そう思案しながら街を歩いていると風に乗って一枚の紙が飛んできた、いやこれは写真か?
写真の人物は…軍服だ。
それもこれは…第七師団のものだな…。
この写真に写る方のご家族の物だろうか。

「こ、こん辺に鶴見中尉殿の写真が落ちて無かったか?!あやおいん大切な物なんじゃ!!」

写真を見つめていると遠くから聞き慣れない言葉が聞こえてきた。
…訛りがひどいが、今確かに写真と言った気がする。
もしかしてこれの事だろうか?
ご家族…にしては似ていないが…。
声の主も軍服を着ているし、恩を売っておくべきだろう。
そもそもあれだけ必死に探しているのならこれは彼の手に戻るべきだ。

「あの、もしかしてこれをお探しですか?」
「キエエエエエッ?!た、確かにこれだ!礼を言うぞ女!」
「大切な物みたいですね。良かったです」

こいつ、いちいち声がでかいな。
それに上背もある、遠目で見ても目立つその出立ちからはどこか育ちの良さも感じた。
いや、軍服の上に着ている物も上等だし実際育ちが良いのだろうな。

「ああ、これはとても大切な物なんだ。
そうだ、礼をしよう!腹は減っているか?」
「丁度これから食事処を探そうと思っていたところです」
「じゃあ丁度いい!奢ってやろう、私の名は鯉登と言う。女、名前は?」

こういう時、苗字があると言うのは良いな。
何時も適当に名乗っていたが、今の私には苗字があるのだ。
早速名乗ってみる事にしよう。

「…尾形です」
「…尾形?」

しかし、私の苗字を聞いて彼は眉をひそめた。

「おや、どうしました?」
「…いや、すまないが同じ名前の奴が知り合いにいてな。
下の名前を教えてくれないか?」
「なまえです」
「そうか、ではなまえあっちにおいのお気に入りん店があっで!行こう!」

折角苗字を得たというのに結局名前を教える羽目となってしまった。
しかし鯉登という男、内地の方言にしてはキツいな。
その褐色と彫りの深いハッキリとした顔立ちから恐らく遠くの者だろう。

だが訛りの強い言葉は道中少しずつ減っていった。
どうやら緊張すると故郷の言葉が出るらしい。
そんな彼に連られてやって来たのは庶民的な洋食屋だった。

「礼だからな、好きなものを頼んで良いぞ」

入店すると彼は慣れた手つきで私にメニューを差し出す。
嗚呼こいつ、やっぱり育ちが良いんだな。

「…」
「どうかしたか?洋食は嫌いだったか?」

自分の行いを疑いもしないなんて、恵まれた環境で育ち
私の様な人間がいるなんて彼は考えも及ばないのだろう。

そう思うと少しばかり、意地悪をしたくなった。

「…いえ、お恥ずかしながら私は読み書きが出来ないものでして…」

本当は恥ずかしいという程でも無いが、私の様な出自の者は読み書きが出来ないなんて普通だ。
女であれば尚更だというのに、何も疑う事なくメニューを渡してきたこいつは読み書きが出来ない人間がいるなんて考えが及ばない
そんな人間なぞに関わらず生きて来たのだろう。

なんて幸せな人間だ。
私とはまるで育ちが違う。

「すっ、すまない!そうだな…嫌いな物はあるか?無いなら私と同じ物で良いか?」
「特に嫌いな物はありませんから、鯉登さんにお任せしますよ」

私の嫌味にも屈する事無く紳士的な対応に努めるその姿は私の神経を余計に逆撫でしたが、私も図太いので料理は美味しく頂いた。