03

「とんだ災難だったねー。はい、これは君のお金だよ」
「…何ですかこの大金…」
「未払いの残業代とか慰謝料とか迷惑料ってやつ。あ、あと退職金とかも言ってたな。
口止め料みたいのも入ってた気がするけど気にしないで良いよ。
百之助が無理矢理ぶんどったようなもんだし」
「…そうですか」

知らない番号からの着信で呼び出された喫茶店に居たのは先日尾形さんと一緒に私を強制退職させた男だった。
あの夜と違い刺青はジャケットで隠しているが隙間なくピアスの付けられた耳だけでもカタギではない雰囲気を感じた。
キャップを被り顔を隠す様がより一層アウトローに拍車を掛けている。
顔を隠したいのならいっそ髪の毛も伸ばせば良いのに。

そんな事ばかりを考えていた私に差し出されたのは分厚い封筒であった。
その場で中身を確認する程育ちが悪い訳ではないが質量を感じる封筒に持ち上げるだけで緊張してしまう。

「なまえちゃんの事、百之助から聞いてたけど何でこんな事させたの?
言いたくないなら話さなくて良いけどさー話しで聞いてた限りだとそんな事を簡単にさせる子だと思わなくて」
「…百之助さんに言いませんか?」
「うん。黙っててあげる」

注文したコーヒーを飲み、平静を装うつもりがまた少しだけ困る話題をされてしまった。
本当は話したくないけれど、仮にも私を助けてくれた人なのだから話しておくべきなのかもしれない。
墓まで持っていく程の秘密でも無いが、この話しをすると自分が情けなくなってしまう。

「…私が就職した時、何だかんだで…百之助さん嬉しそうだったから…
それが実際は3年勤めても給料上がらなくて、ガッカリさせちゃうかなって思ったら…部長からの昇給の言葉につい…」
「あはは、真面目だねー」
「…折角就職出来たけど…学歴も無い私が次に就職出来るかも分からないから辞めるのも考えてしまったんです」

だって今まで嫌な事から逃げ続けてきた私だ。
受験も、就職も、恋愛も。

流れるように、流されながら適当に生きてきた。
だからこそ尾形さんも嬉しかったのだと思う。

そんな尾形さんをガッカリさせたく無かったのだけど、結果としてガッカリさせちゃっただろうか。

「まあ、百之助の事は気にしないで良いよ。
あいつにしてみればなまえちゃんが伸び伸び生きてた方が安心だろうし」
「そうでしょうか?」
「そうだよ。あいつがなまえちゃんの話しをしてる時の顔今度録画しといてあげる。
あんま話したがらないから結構大変なんだけどねー」

尾形さんが私の話しをしてる時…どんな顔なんだろう。
私が何時も見てるのと違う顔なのだろうか。
しかし伸び伸び生きるって…アラサーも目前なのだけどそんなに自由で良いのだろうか。

「有難うございます。えっと…」
「宇佐美だよ、宇佐美時重。
百之助の大学時代の先輩でなまえちゃんの二つ上」

分厚い封筒を受け取り、お礼を言おうとした所でまだ彼の名前を知らなかった事にようやく気付いた。


*****


分厚い封筒が入ったカバンを下げる事に緊張感を覚えながら帰宅するとリビングには尾形さんがいた。
ただいまの言葉を言う間も無く終わったか?と短く問われた。
これは会社の事で良いのだろか。

「…多分。宇佐美さんからお金も受け取りましたし…会社もあれから特には」

本当は少ないながらに私物などもあったがそれも尾形さんが回収してくれていた。
彼はどれだけ私をあの会社と関わらせたく無いのだろう。

「そうか、お疲れさん」

短い会話を終え、どこか気まずさを感じながら自室に戻ろうとすると尾形さんに手を引かれた。
これはまだ私に用があるという意味だ。
彼は昔から言葉が少なく、意思の疎通が難しいが長い付き合いの私は何となく察せてしまう。
尾形さんの隣に腰を掛け、また沈黙が流れるのかと思いきや先に口を開いたのは尾形さんだった。

「…話してない俺が悪かったが…金の事は気にするな」
「え?」
「そもそも、俺は親父の妾の子だったんだ。
俺の母親がああなったのもそれが原因だ。
罪滅ぼしのつもりか、親父は結構な金を俺達に払ったしその後も大学卒業までの俺の学費や生活費は全て払われてる」

此処に来て突然尾形さんの出生を聞かされた。
幼いながらにも親戚の言葉などから何となくでこの家の事情は察してはいたがきちんと説明をされるのは初めてだ。

恐らく、大人になるタイミングで話そうと思ったのかもしれないが大人になる前におじいちゃんとおばあちゃんは亡くなったし、母親もあの状態だ。
尾形さんも口数が多いわけではないからずっと機会を逃し続けていたのだろう。

腹違いの弟がいる事からも何となく想像はしていたがやはりそうだったか。
幼少期に初めて会った時から尾形さんは他の子供と違いどこか冷めていた印象を受けたがそれはその出自からなのだろうか。

「…その割には尾形さんわざわざ国立大に行ったじゃないですか…」
「それは家から近かったからだ」
「で、でも私の高校の学費とか、制服だってタダじゃ…」
「そうだな、その分は親父は出してない。だから大学は私立に行った事にしてそれだけ貰ってたからそれでチャラだ。
罪悪感からか知らんが細かい事は聞いてこず言っただけの金をくれたからそこそこに利用させて貰ったんだよ」
「…雨漏りの見積もり…」
「…聞いてたのか…あれは金が云々よりも打ち合わせだ何だがだりぃって思ってただけだ」

しれっと言っているが私に関しては尾形さんの父親は関係無いのではないだろうか?
確かに尾形さんの父親がした事は詳しくは分からないが決して褒められた事ではない。
しかし無関係の子供1人を養う程のお金を払う義務は無い筈だ。

…それにしたって私の気遣いは杞憂だったのだろうか?
いや、それでもお金は有限だし…何より私はここの子供では無い。

「じいちゃんとばあちゃんも年金を貯めてたし、言う程うちは金に困ってないぞ。
というかガキの頃を思い出してみろよ。貧乏だったか?」
「…違います…でも…」
「血が繋がって無い事に引け目を感じるな。一応ちゃんと親戚なんだから尚更だ。
つうかお前と本当に家族だったらセックスしてる事の方が問題だろ」

言われてみればそうかもしれない。
気付けば10年になろうとする尾形さんとの爛れた関係に呆れながらも
血が繋がってないことの引け目を感じながら血が繋がってないからこそ出来る関係を楽しむのは確かに少しおかしいか。

「しかし金の心配をするとは、お前も結構気が使えたんだな」
「…そりゃします。引き取ってくれただけで十分…感謝してるのにそれ以上なんて…」
「…お前は」

照れ隠しなのか何時もの嫌味がはじまり場の空気は少し和んだ。
それでもどこか引け目を感じずにはいられない私の頭を尾形さんは自分の髪を撫でつけるように撫でる。
少しぎこちなさを感じるのは気恥ずかしさからだろうか。

「…祝福されなかった。本来受けるべきだった両親からの寵愛を受けず、幼いながらに大人の汚さを見せつけられた」

ゆっくりと、優しく頭を撫でられる。
尾形さんにこんなに優しく撫でられるのは何時ぶりだろう。

尾形さんはその低音で、子供に言い聞かせるように言葉を続けた。

「お前は普通の人の何倍も、幸せである権利を奪われてたんだ。
だからもう気にしなくて良い。生活するだけの金はあるし、小遣い分くらい適当に働けば良い。
何だったらお前1人の小遣いくらいなら俺の稼ぎでもどうにでもなる。
…頼むから好きに生きてくれ」


『あいつにしてみればなまえちゃんが伸び伸び生きてた方が安心だろうし』


昼間、宇佐美さんの言った言葉を思い出した。

聞かされた時はそんな事あるのかなと一蹴しそうになったがまさかの事実だった。

尾形さんは私に同情しているのかな。
彼には腹違いの弟もいるが自然と年下を庇護しなくてはいけないという気持ちにでもなるのだろうか。

きっと彼の感情は一言で片付けられる様なものではないだろう。
それでも、私は彼の気持ちが嬉しいし何だかんだで甘えて来た。

「…わりかし、好きに生きてきたつもりですけどね」
「俺から見りゃまだ足りねえよ」

そう言うと先程とは打って変わって乱暴に髪の毛をグシャグシャと乱される。
ああ、尾形さん恥ずかしいんだな。

口下手で、不器用な彼の精一杯の優しさを一心に受けた私はすぐには無理かもしれないがもう少しだけ、素直になる努力をしてみようかなと思った。