そう呼びかける声に目をぱちりと開く。眩しい陽の光と共にかのこの目に飛び込んできたのは、大好きな祖母の姿だ。いたずらっ子のように笑う彼女は、そのしわくちゃな手でかのこをいつものように招く。
縁側へと腰掛ける彼女の元へと駆け寄り後ろから抱きつくと、どこからかにゃあという鳴き声と共に猫が現れ、その頭をかのこの体へと擦り付けた。
『かのこにもわかるでしょう?』
『この子たちはね、ただの猫じゃあないのよ』
『…悪魔、なんて呼ぶ人もいるわ』
『でもね、この子たちは私の大切なお友達なのよ』
そう話しながら自身の膝へと飛び乗った猫を撫でる彼女は、普段通りの穏やかな表情をしている。
かのこが真似るようにその猫を撫でると、猫はその二つに分かれた尻尾をゆらりゆらりと動かし喉を鳴らす。足元に何かがすり寄るのを感じ見下ろすと、新緑のような毛並みをした大きな犬が自分も撫でてと言わんばかりに尻尾を振っていた。
『この子たちは、あなたの事も守ってくれるわ』
『あなたの事も大好きなんですって』
『あなたもいつか、わかるわ』
藤原かのこはブラウスの袖に腕を通すと、ボタンをひとつひとつ留めていった。第一ボタンは開けておこうかと手を止めたが、これから迎える入学式の事を考えて再び手を進める。入学式が終わったら真っ先に外してしまおう。彼女はあまり堅苦しいのが好きではなかった。
ピンクと紫を混ぜ合わせたような可愛らしい見た目のスカートは、私服だったら絶対に履かないものだ。それでも制服なのだからしょうがない。諦めたように溜息をついて身につけた。足元のスースーとした感覚が嫌で、予め用意していた短めのスパッツを履く。彼女なりのせめてもの抵抗だった。
かのこはタイを取ろうと手を伸ばすが、そこに目当てのものはなかった。おかしいと思い部屋を見回すと、緑色の毛並みの大型犬が視界に映る。その口から覗くそれは、間違いなく今探しているタイだ。
「ベリル、それちょーだい」
ベリルと呼ばれた犬はかのこの足元へすり寄ると、差し出した手に預けるようにタイを落とした。
彼は
この世界には"悪魔"と呼ばれるものが数多く存在する。"悪魔"とは総称であり、様々な国の昔話に出てくる妖怪や妖精、宗教上出てくる神や天使の類い全てを指していた。
かのこは、朝から夢に見た祖母の姿を思い浮かべる。今よりも少し若い姿は、7、8年ほど前のものだろうか。
彼女の祖母は、かのこに物心がついた頃から"悪魔"が出てくるようなお伽噺を読んで聞かせた。かのこがせがむたびにさまざまな話を披露しては「実はね、彼らは本当にいるのよ」といたずらっ子のように笑うのだ。かのこはそんなおちゃめな祖母が大好きだった。
祖母の言葉が本当だと、悪魔が実在すると知ったのは小学生になってからだった。
高校生となったかのこは、彼らについて学ぶため、そして自分の命を守るため、正十字学園へと進学することに決めた。
正十字学園とは、正十字騎士團が運営する名門私立高校だ。ここに設けられた祓魔塾に通い
彼女の父も母も、悪魔なんてものは妄言だと信じていないたちの人である。祖母の言葉を真に受けてそんなものを目指すなと反対していた二人だったが…自分の身を守るためだと、彼女は無理やり話を通しここに来た。彼女が父や母への反抗の気持ちから入学したというのも、あながち間違いではないが。
彼女の父母の言葉の通り、悪魔が妄言だったらよかったが、実際に悪魔はいる。今だってかのこの目の前には羽虫のように辺りを飛ぶ
タイを結ぶため、姿見を覗き込む。鏡の中では彼女の父、ひいては祖父譲りの澄んだ緑の瞳がこちらをみていた。
(どうせならお父さんやおじいちゃんみたいに、髪も金髪だったらよかったのにな。それならカッコつくのに)
かのこは羨望の言葉を浮かべる。父と、写真でしか見たことのない祖父の綺麗な金髪は、彼女にとって憧れだった。
ため息を吐きながら、襟にかけたタイを指先で弄る。通常より太めのタイは、きちっと締めるのもリボンのように結ぶのも自身には合わない気がした。
「…これ、しなくてもいいかなぁ」
『ワン!』
「真面目ぶっちゃって」
まるで彼女の一言を咎めるかのように、ベリルは鋭い鳴き声を上げる。普段あまり鳴かない彼にしては珍しいことだ。ため息をつきながらも、彼に従ってかのこはタイを締めた。
「はーにしても……やけに緊張する。上手く馴染めるかな」
ベリルはその大きな頭をかのこの体へと擦り付ける。まるで「大丈夫だ、自分が側にいる」とでも言っているようだ。実際、彼ら
姿見から視線を動かし部屋の隣のスペースを覗き込む。すっからかんなそのスペースに、少しの寂しさを覚える。
この寮で生活する祓魔塾の生徒は一般の寮生とは区別されており、四人一部屋の一般の寮生より少ない二人で一部屋を使うことが出来た。しかしこの部屋割を見るに、どうやら今年は女子の祓魔塾生は奇数らしい。
(いや、それか…私一人だったりして)
塾で女子は一人かもしれない。そう思うと、彼女の心の寂しさは増していった。
まだ、わからない。きっと奇数人だからあぶれたんだ。かのこは自分にそう言い聞かせた。
「…と、入学式だしそろそろ向かった方がいいか」
セーラーカラーのジャケットをシャツの上から羽織ると、ベリルへと視線を向ける。ベリルは小さく吠えると、静かに姿を消した。見えないけれど、側にいることは知っている。それだけで心強く感じた。
かのこは鞄を手に取ると部屋を出て、入学式へと向かうのだった。