障子からは薄っすらと朝日が差し込み始めていた。暦も進み、空が白むのも早くなった三月。外は暖かくなり、朝に布団を出るのも楽になったものだ。
「……千鶴、起きて」
隣に眠る少女の頬に触れる。しかし彼女が目覚める様子はない。体を揺らすと、小さく唸り声を零した。
「千鶴、今日は炊事係だよ。そろそろ起きないと」
「う……」
ほんのわずかに目を開いた千鶴はゆっくりと顔をこちらへ向ける。千早がさらに体を揺らすと、千鶴は渋々といった様子で体を起こした。
「んん……おはよ、ございます」
「おはよう。ほら、準備しないと」
彼女たちは身支度を済ませると、自室から出る。
千早はその頭にしっかりと手ぬぐいを巻いていた。屯所内を出歩くことはできるようになったが、彼女の容姿について知っているのは幹部たちだけだ。そのまま出てしまっては平隊士たちを驚かせてしまうからと、手伝いをする時には髪を隠すようにしていた。
勝手場に入ると、そこにはすでにたすき掛け姿の斎藤と、欠伸をする沖田が待っていた。
「おはようございます!!」
「おはようございます、今日の当番は斎藤さんたちでしたか」
挨拶をすると彼らは、ちらりとこちらに視線を向ける。斎藤はすぐに視線をそらすと「あまり大きな声を出すな、夜遅くまで巡察に当たっていた隊士たちを寝かせてやれ」と返した。
「す、すみません」
「……俺は煮付けを作る、お前たちは汁物を作れ」
「はい!」
刃物が苦手な千鶴の代わりに包丁を手に取ると、豆腐と青菜を一口大に切っていく。千鶴はかまどの前で味噌汁に使う出汁を取っていた。
隣では斎藤が煮付けの準備を進めていて、沖田が暇そうにその様子を見ている。
炊事当番はすでに何度か経験していたため多少の勝手はわかっている。土方の計らいによりあれから少しずつだが、炊事や洗濯、掃除といった雑事を任されるようになっていた。
「……こんなものかな? 千早さん、味見してみてください」
「ん……おいしい。いつもの味だ」
「でも、いいんですかね? 私では京風の味付けはわからないから……」
「俺たち幹部は江戸の出身だ。京風よりもそちらの方が口に馴染む」
「こっちの味付けって薄いよね」
「お前の味付けは塩辛すぎる」
「そう?」
火加減を見ていた沖田の言葉に、斎藤が返す。まだ沖田の料理を口にしたことがないが、どうやらそれは幸運なことらしい。
用意ができた味噌汁や煮物を盛り付けると膳にのせ、広間へと運んでいく。味噌汁が溢れないよう半ばすり足で廊下を歩いていると、丁度良く広間の障子が開いた。
中から出てきたのは背の高い男、原田だった。その後ろからは永倉の姿も見える。彼らは膳を運ぶ千早に目をとめると「おお、おはよう」と声をかけた。
「おはようございます原田さん、永倉さん」
「味噌汁のいい香りだな!」
「すぐ他の膳もお持ちしますね」
「おうよ!」
彼らの脇を通り抜けて膳を並べると、広間を後にする。
すると廊下の先からがしゃんと大きな音が響いた。千早が慌てて駆けると、倒れそうになった千鶴と膳を支える原田、膳から飛び出した器を受け止めたらしい永倉の姿があった。
煮物は無事だったようだが味噌汁はそうはいかず、汁が器から溢れ永倉にかかってしまったらしい。永倉の服と床がすっかり濡れてしまっていた。
「大丈夫ですか? 一体何が?」
「私がふらついてぶつかってしまって……! やけどはしていませんか!?」
「この程度気にすんなよ! ただまあ、次からは余所見はしないようにな?」
「何で説教してんだ。今のは俺が急に角から出てきたからぶつかっちまったんだからな。こいつは悪くねえよ」
「いえでも、私がきちんとよく周りを見ていたら避けられていましたから!」
「……とりあえず、永倉さんは水を浴びた方が良いかと。廊下の掃除は私にお任せください」
千早が永倉にそういうと、永倉は「廊下の掃除くらい俺がしといてやるから、二人とも食事の準備でもしてろって!」と笑った。
「水浴びするんだ、そのついでに雑巾洗うくらいなんてことねえよ」
「そうそう、こいつに遠慮なんかしなくて良いんだぜ?」
「で、でも」
「あ、それとその膳。俺のとこに置いといてくれ。俺がぶつかったんだ、俺が責任持って食っとくから」
「そんな……いいんでしょうか」
千鶴が怯えたように返事をする。その様子を見た原田は、困ったように笑った。
「そう怯えんなって千鶴。お前たちがおとなしくしてる限り、俺らは手荒な真似はしねえからよ」
「そうそう、男所帯で居心地悪いだろうが、可愛い女の子たちが屯所に来たってんでみんな内心じゃ喜んでんだぜ?」
場の雰囲気を和ませようと永倉は笑う。しかしその目の奥は笑っているように見えなかった。恐らく彼の本心ではないのだろう。
彼らは親切にしてくれてはいるが、だからといって心を開いているわけではない。あくまでも表面上では協力者として親しくしているだけだ。
言葉に詰まる千鶴を助けるように、千早は声をかけた。
「それではお言葉に甘えましょうか。千鶴、料理が冷める前に運んでしまおう」
「はい。……お二人とも、ありがとうございます」
千鶴は原田たちに頭を下げると、千早とともに勝手場へと戻る。そして何度か勝手場と広間の往復を繰り返すと、全ての膳を運び終え一息ついた。
「これで全部だね」
「ふぅ……皆さんが来る前に準備が終わりましたね。よかった」
「そうだね、お疲れさま。これで仕事は全部かな?」
手持ち無沙汰になり他に仕事がなかったか考え込んでいた時、障子から人影がふらりと現れた。
「おはようございます、雪村君、初霜君。朝からご苦労様でした」
「あ、おはようございますっ」
「おはようございます、山南さん」
労いの言葉を掛けたのは山南だった。彼は申し訳無さそうな表情で言葉を続ける。
「あくまで客人の立場である君たちにあれやこれやと雑務を任せてしまっていますね。人手不足の現状とはいえ、申し訳ありません」
「そんな……わ、私なら大丈夫です!」
「そうです、お気になさらないでください。何もせずにお世話になるよりは良いですし、手伝いたいと進言したのはこちらですから」
「そう言ってもらえると助かります」弱々しく笑う山南に、こちらも柔らかく笑みを作る。
「私も手伝えたらいいのですが、何せ私にはお膳運びすらままならず……」
「あ……いえ、あの」
山南の言葉に千鶴が言葉を詰まらせる。
山南の怪我の経過はよくないらしく、相変わらず左腕はうまく動かないようだった。彼は落ち込み、こういった自虐的な発言も増えた。
どう返していいか困惑する千鶴を助けるように、後ろから「おはよう」と挨拶が聞こえる。振り返ればいつも通りの穏やかな表情をした井上が立っていた。
「おや、他の隊士たちはどうしたんだい?」
「井上さんとご一緒に日課の朝稽古をしていたのでは? 私は道場から縁遠い身ですので、欠席した者の有無までは存じませんが……」
「あっ、永倉さんと原田さんは、廊下のお掃除をしてくれています!」
「沖田さんと斎藤さんは勝手場にいらっしゃいます。そろそろ広間に戻るかと思いますが……」
「藤堂くんは昨晩巡察に出ていたからね、今頃寝ているだろうか……」
井上が顎に手を当て考える様子を見せる。
廊下からは騒がしい足音が聞こえ、原田と永倉が現れた。彼らは千鶴と二言三言話すと膳の置かれた席へと座る。
「雪村君、申し訳ないんだが平助の様子を見てきてくれないか?」
「はいっ!」
「そしたら、初霜くんは土方君の部屋を確認してきてもらえますか。昨日も随分と遅くまで雑務に追われていたようですから……」
「承知しました」
井上と山南が彼女たちにそう頼むと、二人は頷いて広間を後にした。
千鶴は藤堂の部屋へ、千早は土方の部屋へと廊下を歩く。藤堂と千鶴は年が近いのもあり、頼みやすかったのだろう。
廊下の途中で千鶴と分かれ、千早は奥にある一室の前で足を止めた。
耳を済ませてみるが物音は聞こえない。千早は一息つくと、声を上げた。
「土方さん、朝食の用意ができました」
返事はない。
もう一度「土方さん?」と声を掛けてみたが変わらなかった。もしかしたら部屋にはいないのだろうか。
千早は少し悩んだ後、障子へと手を掛けた。
「土方さ――」
思い切って障子を開くと、部屋の持ち主と目が合う。彼はこちらを見たまま、呆けた表情で固まっていた。どうやら着替えている最中だったのか、襦袢の前を寛げている。
どうやら彼女の呼び声は聞こえていなかったらしい。見開かれた目がそれを物語っていた。
「……何の用だ、初霜。急ぎの用じゃねえんだろ」
土方は柳眉を逆立て、厳しい声で訊ねる。
まるでこちらが悪いかのように睨みつける彼に、千早も軽く眉尻を上げた。始めからいるなら返事をすればいいものを。
「失礼しました。返事がなかったものですからてっきり、惰眠を貪っておられるのかと思いまして」
「……男の着替えを覗く趣味がねえんなら、閉めて待ってろ」
「そうさせていただきます」
静かに障子を閉めると背を向け、部屋の主が着替えるのを待つ。
しばらく待っていると、障子を開けて土方が姿を表した。いつものようにきちんと着物を着込み、先程まで下ろしてあった髪も結い上げている。
「それで。わざわざここまで来て、何の用だ?」
「朝食の時間になってもいらっしゃらないものですから、様子を見に参りました」
「……誰の差し金だ」
「山南さんです」
差し金とは随分な言い草だ。
土方はそれを聞くと大きくため息をついた。その様子に首を傾げると、彼女の疑問に答えるように言葉を続ける。
「山南さんのことだ。俺への嫌がらせついでにお前のこともいびってるんだろ」
「そうなのですか?」
「居候に【鬼の副長】の様子を見に行かせるなんて、それ以外ないだろう」
「はあ……どちらかというと、私へのいびりはあまり意味をなしていないようですが」
「お前は……男の肌を見たとは思えない反応だな」
「眼福とでも言えば良いですか?」
「恥じらいとかねえのか?」
土方は再び大きくため息をつくとじろりと彼女を見る。道場には諸肌脱いで稽古する男も居たのだから、そこまで騒ぎ立てるほどのことではないだろう。いや、千鶴のような娘なら恐らく大騒ぎしていたかもしれないけど。
「む、トシと初霜君じゃないか! 珍しい組み合わせだな」
彼女たちの間に漂う空気を物ともせず声をかけてきたのは近藤だ。話を聞くところによると、朝稽古を終えてそのまま屯所周りを散歩していたらしい。
清々しい笑顔を見せる近藤と、相変わらず眉間にしわを寄せたままの土方とともに、千早は広間へと戻って行った。
