その日、なぜまどろみの森へ入ったのかと訊かれれば、わからないとしかホップには言えなかった。
事実、母にも警察にもそう答えている。自分でも不思議なのだ。
あの女の子を見つけるまでの時間は、なんだかフワフワと現実味がない。思い返してみても。
(あれ?柵がないぞ!?)
いつものようにユウリを誘いに行った最中、発見した違和感。
厳重に作られ、何人の立ち入りも許さない柵はどこにもなかった。
壊れていたわけではない。言葉通り、そこにあるはずものが“無かった”のだ。
まるで、最初から存在などしていなかったように。
(これ、かーちゃんたちに知らせないと…いや、先にユウリにも伝えておくか?)
少なくとも、その時彼は冷静に思案していた。
好奇心旺盛であれど、向こう見ずな性格ではない。
大人たちが入ってならないと言い聞かせる理由も充分わかる年齢だ。
それなのに。ふと気付いた時には、森の中にいた。
青白い霧に包まれた静謐なる森の、腹の中に。
(俺…!い、いつの間に入っちゃったんだ!?)
慌てて振り返るも、行く手を阻むように白一色の景色が広がる。
まだ明るい時間帯だが、このまま時間が過ぎればどうなるか。
嫌でも想像できてしまう事態に、冷や汗が流れた。
「…ん……」
「!?」
ウールーを出す為ボールに触れた瞬間、すぐ傍でガサリと音がした。
草むらに何かいる。だがポケモンならもっと忙しなくガサガサ言わせるはずだが。
息を殺して様子を窺う。すると、消えるような声がかすかに聞こえた。
「あっ…なぁ!なぁ!大丈夫か!?」
恐る恐る近づくと、なんと少女が横たわっているのを発見した。
焦るホップに反して、穏やかな表情で寝息を立てている。
しかしこのまま寝ていられても困る。彼は強く揺さぶった。
「ん〜…もうちょっとだけ…いっしょに、ねよ……」
「は?!ちょ、え!?」
ムニャムニャと呟いた内容を確認するより先に、握られた自分の手。
どこか手慣れた様子で、華奢な指をホップに絡めてくる。
数秒前とは違う焦りに、大きくなる声。そこでやっと少女は瞳を開いた。
「ぁ〜…ごめんね。間違えちゃった」
「なっ、なにが」
「ぁ〜…こっちの話。ところでボク、こんな所で何してるの?」
ボク、なんて呼びかけられる年でもないだろうに。
随分とませた口調に、思わずムッとしてしまう。
「それはこっちのセリフだぞ!こんな所でどうして寝てるんだ?ここは大人たちに入っちゃいけないって言われてるんだぞ!」
「こんな所…?」
未だに定まらない視線をあちこちに目配せる少女。
そして次のセリフは。
「…ここ、どこ?」
「本当にわからないのか?何にも?名前以外?」
「うん」
やっと目覚めたらしいナナシは、いわゆる記憶喪失らしかった。
自分の名前以外をホップに答えられずにいる。
住んでいる所、ここにいる経緯、家族のこと。
どれもナナシは『わからない』の一点張りだった。
「なあ、ポケモンのことはわかるか?」
「う〜ん…ちょっとだけなら」
もしそうなら重症だ。ホップはますます頭を抱えた。
有り得ない場所に寝ていた少女。知っているのは微々たるポケモンの情報のみ。
(どうすれば…)
腕を組んで考える。
ポケモンと無縁の生活なんて、ありえないはずだ。少なくともガラルでは。
ということは、忘れてはいけないレベルの記憶まで失ってしまったのか。
それとなくナナシを観察すると、キョロキョロと辺りを見渡している。
不安を感じている様子は一切ない。
それが却って深刻さを表しているように思えてならなかった。
普通なら、怖がるはずだ。泣き出してもおかしくない。
お前が連れてきたのかと怒ったり混乱したりしても仕方ないだろう。
「とりあえず、一緒に森を出るんだぞ!暗くなってきたら危ないし!」
「え?あ、うん」
でも、ナナシはそのどれにも当てはまらない。
だからこそ、一刻も早く、安全な場所に連れて行かなくては。
芽生えた責任感が、既存の恐怖を塗り潰す。
「って、ナナシ、裸足なのか!?」
「え?あ、ほんとだ」
腕を取り立ち上がらせたところ、ナナシはなんと裸足だった。
それだけではない。身に付けているものは随分と大きなTシャツ一枚のみ。
無防備を体現したその恰好は、目のやり場がこれっぽっちもない。
「………から」
「え?なーに?」
「…俺がおんぶするから」
かと言って、このまま歩かせるわけにもいかない。
いかにも柔らかいその足は、あっという間にボロボロになってしまうだろう。
しかしその提案になぜか苦笑するナナシ。
彼女はホップが背負おうことなど出来ないと思っているようだ。
再びませた顔のナナシに反論した。そこまで貧弱ではないと。
「…ホップ、あたし、いくつに見えるんだっけ?」
「俺と同じか、下」
自分の身体をあちこち確認して、狼狽えるナナシ。
彼女の質問に感じたままを告げた途端、暗くなる雰囲気。
やっと現実感が出てきたのかもしれない。
ホップは可能な限り労るように、小さな身体を背中に乗せた。
「ねえ、二人だけで大丈夫かな」
「大丈夫だぞ!俺がナナシのこと守るから!だから、絶対に大丈夫なんだぞ!」
当然、不安がゼロなわけではない。
だが、奮い立たせることはいくらでもできる。
彼女を守れる者は今他にいないと、わかっているのだから。
「…怖いのか?」
「ん?ん〜…ホップがいるから、怖くないよ」
幾度も深い溜息を繰り返すナナシ。
それでも、耳元で優しく紡がれる返事は色よく、心地が良い。
「もう少しだぞ!」
「はーい」
あと少し。もう少し。霧も晴れてはっきり景色が浮かび上がる。
永遠にも見えた道のりは、思いの外短かった。
「ここで…ほら!ダイマックスだ!」
「おお〜」
帰宅したその後は、非日常的なシーンの連続。
慌ただしさと物々しさに挟まれ辟易したものの、母がナナシの滞在を認めたことには安堵した。
ホップには、ここでナナシと別れれば、きっと二度と会えないという予感めいたものがあったから。
そして夜。いい加減な構い方でチョロネコを怒らせていたナナシを見つけ、自室へ誘った。
あとは寝るだけなのだが、せっかくならわずかな間でも気を紛らわせてやりたい。
他人の家でも萎縮しないくせに、ナナシは何度も、憂いを帯びた瞳でどこかを見ていた。
「リザードンかっこいいね!」
「だろ!?アニキもめちゃくちゃかっこいいんだ!」
打って変わって、流れる試合の映像に興奮するナナシ。
事細かに解説してやれば、ふんふんと熱心に耳を傾ける。
視線はタブレットに釘付けだ。その横顔には年相応の無邪気さがあった。
(やっぱり、誘ってよかったな…)
かっこいいなあ。すごいなあ。
控えめに唇からこぼれるそれらの言葉が、なんだか子守唄にも聞こえて。
「あれ?…ホップ?」
ウトウトし始めただけなのだが、ナナシは寝たと勘違いしたようだ。
起きるか起きまいか、どうしようかという間にも、心地の良い眠りへ沈んで行く。
「今日はありがとね」
優しい声。柔らかい感触。
フワリとした、自分や母と同じはずの、シャンプーの香り。
「おやすみなさい…よい夢を」
ナナシは静かに部屋を出て行った。起こさないよう注意してくれたのだろう。
(キ…キス…!?)
しかしどうしてくれるのか。
すっかり目が冴えてしまった。
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