「ナナシ、僕だ」
見知った顔が、趣味の日向ぼっこもそっちのけで沈んでおり、隣に腰を下ろしたことさえ気付かない。
己の店へ行く途中のディルックは、いよいよ心配になり声をかけた。
「あ…ディルック……、…さま」
慣れないなら呼び捨てでもいい、と返事をしたのが遠い昔のよう。
こうして彼女の姿を見るのは随分と久しぶりのことだった。
「何かあったのか」
再び問うと、彼女の耳と尻尾がより一層ぺしゃん…と力を無くす。
そういえばどこぞの神が、モンドの猫好きはディオナ派とナナシ派に分かれるんだよ、などと宣っていたが、成程嘘でもなさそうだ。
明るくチャーミングな三毛猫ディオナと対称に、ナナシは―――
「…男のヒトは…どうして、『この世界でオマエだけがオレのもの』って、言う?」
「………。誰かにそう言われたのか?」
やっと目が合ったと思えば、お子様向け恋愛小説さながらのセリフ。
だがナナシ本人はふざけるような性格でないとディルックは知っている。
「!!!…と、ともだち!ナナシのトモダチが、言ってた!」
誰にでもわかる嘘だが、完璧紳士である彼は当然それを指摘しない。
一方で、彼女の悩みの種が判明しひどく苦い気持ちになった。
「君の友達が、言われたんだな?」
「うん。ナナシじゃないよ、トモダチだよ」
「そうか。なら”友達”に伝えておいてくれ。そんな男からは一秒でも早く離れなければいけない、と」
「にゃ……」
素知らぬ体で遠慮なく意見すると、ナナシは大きく目を見開く。
宝石のような瞳がみるみる不安に染まって、こういうところは変わらないのかと場違いにも安心した。
「……それ……」
明るくチャーミングな三毛猫ディオナと対称に、ナナシは警戒心が強くも美しい黒猫である。
特にここ最近は色香も増し、男は忽ちメロメロになってしまうと言っても過言ではない。
「……どうして……?」
けれども、彼女は純然たる未成年だ。
いくら異性を魅了する空気を纏っていても、一定の庇護下にある、成長途中の少女。
「それは」
加えて彼女は、記憶喪失のせいか同年代より内面が幼い。
一度警戒を解いてしまえば再び疑うことはなく、だから―――
「昼間から堂々とサボりか、ナナシ?」
音もなく登場した男。隠さず舌打ちをしたが効果はない。
ナナシを挟んでどっかりと座る彼に、黒い耳がピンと反応する。
「ガイア先輩…!?ナナシ、サボってない!」
「へえ?でもリサがぼやいていたな、『お使いから帰ってこない』って」
「みゃ……」
手に抱えた書籍を思い出したのか、慌ててナナシは立ち上がった。
ガイアはニヤニヤと焦る彼女を観察している。
「ディルックさま!ナナシ、行かなきゃ!」
「ああ。それと、さっき僕が言ったことは必ず“友達”に伝えてくれ。…必ず、だ」
「…う、うん」
一瞬顔を曇らせたが、これ以上道草を食っていられないとナナシはその場を後にする。
華奢な背中を見送る暁の視線は、どこまでも物憂げだった。
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