指も足もとどまったまま
 十日もない五月の休暇が明けて、数日が経つ。
 夏の大会まで日もなく、帰りは遅くなる一方だった。大会が終われば三年生は引退だ。高校を出ても弓道を続けるかは、まだわからない。
 そうと思えば、できる限りのことはしていたかった。
 後輩は帰って、静かな道場の中。けれど心はざわめいて落ち着かない。
 続けて外した事実が心の乱れを如実に表していた。これでは練習にならない、とため息を吐いた。これ以上続けても身にはならない。仕方なく、帰ることにする。

 ◇

 ゴールデンウィークに遊園地に行った帰り、五十嵐を家に送った。それを最後に、まだ会えていなかった。
 腕に絡んだ奇妙な木がまだ消えないのか、それとも五十嵐を心配する家族が外へ出すのをためらっているのかはわからなかった。
 何かあれば、それ以外でも連絡してとは伝えた。けれど、メッセージアプリには五十嵐からの通知はないままだった。
 何か送るべきだろうか。送ったものが、あるいはオレが送った事実が、五十嵐の心を乱すものだと彼女の家族に判断されたら、五十嵐が困るかもしれない。
 ――「力になりたいと言うなら、お願いですから余計なことはしないでください」
 うちとは随分違うと面食らう反面、五十嵐が小さな頃から異界との境界があいまいだったなら、過保護になるのも納得できる。何も知らなそうな同級生が、何も考えずに彼女に踏み込むことを心配しないわけがない。
 リビングのソファにごろりと転がり、何も打ち込めないままメッセージアプリを眺める。
 五十嵐を心配する気持ちと、五十嵐を知りたいと思い続けたこの三年あまりと、思いのほか五十嵐を知らなかったらしい事実が胸の内に混在している。
 力になりたい。五十嵐の見ているものを、五十嵐の考えていることを知りたい。……けれど、知ってどうする、とも、思う。
 角。羽。奇妙な木。解決方法なんてわからないし、守り切れるとも言えない。一介の高校生には、荷が勝ち過ぎている。
「……はあ」
「あおくん、どうしたの? ため息、珍しいね」
 スマホをおろしたタイミングで、弟が顔を覗き込んできた。ほかほかと湯気を昇らせながら、顔はほんのり赤い。湯上がりらしい。
 ひなたは冷蔵庫から麦茶を取りに行っているあいだに体を起こす。戻ってきたひなたは、隣に腰をおろした。
「や、なんでもないよ。弓の調子が良くないだけ」
「誰かから連絡待ってるみたいだったよ?」
 部活のひと? とひなたは踏み込んでくる。豪快な父と母、兄貴を見て育ったからか、弟は昔から聡かった。
 ごまかすには、変に間が空いてしまった。待っているのは実際部活の人だし、と肯定しておく。
「五十嵐さんでしょ! あおくん、他の人の連絡だったら来なくても電話とかしちゃうし」
「待ってひなた。そこまでわかって、や、その前にそれ兄貴に言うなよ? うるせえから」
「言わないよ! あ、でもはやてくん、来週彼女連れて来るらしいよ。あおくんがお風呂入ってる間にお母さんに連絡があったの」
「へー、今度は続くといいな」
 五十嵐の名前まで当てられて驚いた。そんなにわかりやすかっただろうか。
 五つ年上の兄はどうも早く結婚したいらしい。高校生の頃から、少し交際期間が続くと実家に顔を見せにくる。
 今のところ結婚に至る人はいないようなので、別れたばかりや彼女がいないときはオレやひなたの浮いた話を訊ねては酒のつまみにしようとしてくる。オレは彼女がいたことない分、それっぽい仲のいい子がいると面倒なことになるのは目に見えている。
 ひなたも、ずっと仲のいい子がいるようだけど、付き合っているのではないらしい。受験シーズンに浮かれている暇はない、とこの間兄貴に言っていたのを聞いた。
「はやてくん、なんで五十嵐さんのこと知らないんだっけ?」
「言ってないし、学年も被ってないからなあ」
「ずっと知らないの、すねそう」
「でも父さんも知らねえからいいだろ」
「たしかに」
 何も「確かに」ではないと二人で笑う。
「あおくん、たまに遠慮しいだよね。連絡すればいいのに」
「そんな簡単でもねえんだわ。どの立場っつーかさ」
「あおくんが立場気にしてるの笑っちゃうなー、仲良いのに気にする立場とかあるんだ?」
 珍しく話を聞きたそうにされているので居心地が悪い。
 ただ仲良い友達のことなら、友達同士立場は対等だろう。今回は、五十嵐の家に関わりがある。いやでも立場を気にせざるを得ない。
 アイスも食べるか、と冷凍庫から二つ棒アイスを持ってくる。これでごまかされてくれ、と暗に込めたのを、ひなたは受け取ることにしたらしい。
 弟に相談するには、ちょっと照れ臭い。その上非現実的な部分も含まれる。
「あおくん」
 ひなたが呼ぶ。なに、と振り返れば、それなりに真面目な顔のひなたがこちらを見ていた。
「あおくん、大事なものは誰にも見せたがらないよね」
「……話はアイスで終わりにしたろ、ったく」
「はあい」
 何でそれを判断してんだ、とぼやきながら自室へ戻る。
 今週連絡もなく、学校にも来なかったら、こちらから様子を伺ってみよう。友達で、秘密の共有をしているのだから、心を乱すものではない……と思う。


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