あかつき 「五十嵐さん、ってさ……吹原と付き合ってるの?」
みんなでお弁当を食べ始めて、少し経ったところだった。いつも花澄を気にかけてお昼に声を掛けてくれる彼女たちは、今日は言葉少なにこちらの様子を窺っているようだった。――いや、花澄と、もう一人。
花澄を囲む三人のうち一人が、何故か目を伏せている。彼女たちはその子にもそっと目を遣って、それからまた花澄を見た。
「……付き合う、とは?」
箸を止めて尋ねると、彼女たちも面食らったように止まる。
「え……だから、そのままの意味だよ。吹原の彼女なの? ってこと」
彼女――たぶん、恋人。何度か訊かれて、ずっと分からなくて、合宿で蒼に問うて返ってきたのは「特別」という言葉だった。恋人の「好き」が分からなくても、花澄が蒼を特別と思うならそれが正しい、と。
では、それを伝えればよいのかというと、そうでもないらしい。蒼と約束したことを思い出して、そのまま口にする。
「えっと……秘密、です」
何やら目配せが交わされた。俯いた彼女はますます下を向いて、今にも泣いてしまいそうに見えた。
「……そっか。ごめんね、変なこと訊いちゃって」
「いえ。……あの、それよりも」
ハンカチを取り出し、涙を溜めた彼女に差し出す。
「大丈夫ですか? どこか具合が悪いのでしょうか?」
どうしてだろう、しん、と場が静まり返った。騒がしい教室の中で、机を四つ突き合わせたこの一角だけ、透明の壁に囲われたように。
沈黙を破ったのは他でもない、泣きそうに見えた本人だった。顔を上げた彼女は笑っていた。
「ううん、何でもない。ねえ、五十嵐さん。弓道部のこととか、聞かせて。吹原って部長なんでしょ? 弓は強いの?」
何かをはぐらかされた、ということくらい、花澄でも分かる。けれど、それが何なのか、どうすれば教えてもらえるのか、何を言えばみんなが黙ってしまわないのか、ひとつも知らなかった。だから、問われたことにだけ答える。
「強い、というのは正確ではないかもしれません」
ああ、これではまた誤解を生んでしまう。急いで言葉を付け足す。
「弓の扱いに強さは関係ありません。日々の鍛錬は平常心と礼節を身につけるために行うもので、的は敵ではなく自分の鑑なのです」
その意味では吹原くんは、と続けようとしたところを、笑い声が遮る。
「あはは、ごめんごめん。五十嵐さんは真面目だね。そうじゃなくてね、部活での吹原の様子とか……喋ってることとか? そういうのをちょっと知りたいなって思っただけ」
明るく言う彼女に反して、今度は他の二人が痛そうなものを見たように視線を下げる。
「去年、同じクラスだったんだけどね。……教室での吹原しか、私は知らないから」
「私は……弓道部の吹原くんしか知りませんが」
「うん、だからそれを知りたいんだあ」
弓道部の吹原くん、を思い出そうとして、蒼が弓を引く姿をきちんと覚えていないことに気がつく。道場にいる間、花澄の全神経は的に集中している。先生や他の人の所作を参考に見ることはあっても、それが誰かまで判別していない。大切なのは、足の運び、視線、美しい姿勢と、指さばき。人を、見ていない。
記憶を辿る。浮かぶのは、弓を引いていない時間。休憩中の会話や、部活帰りの道、それから、いつもの世界――異界を一緒に歩いたこと。
特別、は秘密だった。異界のことを話すと不思議な顔をされることはもう身に染みている。部活のことはよく思い出せなくて、そもそも彼女が知りたいのは弓の話ではなさそうだ。何も言えることがなかった。
「ごめんなさい。私、吹原くんのことをあまり知らないみたいです……吹原くんは私より私のことを分かっているようなのに」
言い終えるより先に、がたん、と音がした。突然立ち上がった彼女を、首を傾げて見上げる。
「ごめっ……私、飲み物、買ってくるねっ……」
涙声だった。――私のせいだ、きっと。でも、分からない。訊けない。彼女たちは花澄を待ってくれない。
二人のうち一人が、教室を出る彼女を追いかける。もう一人は花澄を残していくことに躊躇ったようだった。しばしの迷いのあと、「ごめん、五十嵐さん」と言葉を置いて、友人のほうを選んだ。
何事か、と近くのクラスメイトの視線が集まっている。花澄はお弁当の続きを食べ始めた。
――人は、やってきて、そして去っていくものだ。
彼女たちは花澄が一人でご飯を食べているのを見かねて、昼食のグループに入れてくれた。すごく優しい人たちだ。その優しさに自分が何を返したのか、花澄に見えるものは何もなかった。きっとひどいことをしてしまったのだろう。明日からは声を掛けられないかもしれない。
何ですか、という呟きは頭の中だけで、空間にぽつねんと取り残される。私は今、何をしたのですか。一体誰に尋ねればよいのでしょうか。
浮かんだ顔は、しかし今は違う気がした。理由は分からないけれど、この話をする相手は彼ではいけないと思った。彼のためでも花澄のためでもなく、彼女にとって酷いことのように思えたから。
昼休みの時間が過ぎていく。誰かが隣にいなくても、母のお弁当は変わらず美味しい。
*
合宿から帰った日、母は少し怖い顔をしていた。もっとも、花澄が高校に入学してから、母はしょっちゅうこの顔をしている。部活で遅くなった日や、いつかの外泊の翌日も、眉間にぎゅっと皺を寄せて玄関先に待ち構えていた。
「おかえりなさい、花澄」
「ただいま、お母さん」
「予定より少し遅かったのね。何かあった?」
「ええと……帰りに友達とお喋りしていて、それで」
「それで?」
母は言葉を濁すことを許してくれない。最後まできちんと言うように促される。
「それで、連絡したより遅くなりました。ごめんなさい」
「どうしてそれをすぐに知らせなかったの? 花澄が普段からそうしていないと、連絡が途切れた時にすぐに異変に気がつけないでしょう。あなたに何かあっても、またお友達とお喋りしているのね、と思って駆けつけるのが遅れたらどうするの?」
「……はい。ごめんなさい、お母さん」
「ごめんなさい、じゃなくて。すぐに知らせなかった理由と、何かあった時にどうするつもりだったかの想定を訊いてるの。あなたの考えを聞かせて、花澄」
あなたの考えを聞かせて。母の口癖だ。適当に答えるわけにはいかない。花澄が丁寧に自分の意見を述べるほど、母はその考えがいかに浅はかか、何が間違っているか、本当はどうするべきなのかを教えてくれる。
考える時間はあまりもらえない。だって、今考えなければいけないということは、その時の行動に何の見通しもなかった証明になってしまうから。
「知らせなかったのは……お喋りに夢中で忘れてしまったのと、もう家が近くて、お母さんが連絡を見るより私が帰るほうが早いと思ったからです。何かあった時……何かあった時は……」
すう、と息を継ぐ。張り詰めた気持ちは弓よりも硬く震えていた。
「あのね、お母さん。私はもう、十七だから。高校も卒業する年、だから。何かあっても自分で対処しなきゃ、って、そう思って……」
表情を変えず、母が首を傾げる。言い切らないと、終わらない。
「……だから、何かあった時は自分で対処して切り抜けるつもりでした」
それはあなたの気持ちであって、具体的な対策ではないでしょう。すぐにそういう指摘があると思ったのに、珍しく母は反論しなかった。黙り込んだまま花澄を見つめ、やがて大きなため息を吐く。
「……もういいから、部屋に荷物を置いてきなさい。あとで荷解きを手伝います」
はい、と返事をして、ようやく玄関から解放される。もちろんこれが始まりに過ぎないことを、花澄はよく理解していた。
こんこん、とノックの音があって、花澄の「どうぞ」を待ってから部屋の扉が開く。母は無言で中に入ってきた。合宿に持っていったボストンバッグを挟み、花澄の向かいに座る。
しばらく黙々と、荷物を振り分けて床に広げる時間が続く。
「朝の薬、一つ余っているみたいだけど」
「あ、それは……」
母が手に取ったのは、花澄が精神科から処方されている薬だ。幻覚や幻聴を抑える効果がある、とか。他にも、少しでも花澄の体調に異変があれば、どんな時に何を飲めばいいのかを母は細かく把握している。
「二日目の朝、色々あって……飲めなかった、の」
「先生から聞きました。学校に不審者が出たそうね」
「うん、そうなの。それでバタバタしていて、気がついたら薬の時間を過ぎてしまって。後から飲んでもよいものか分からなくて、そのまま持って帰ってきました」
「連絡は?」
「……しませんでした。理由は、さっきと同じ」
「花澄」
母の声にぴしりと一本の芯が通って、反射的に花澄の背筋が伸びる。叱られるからと言って肩を縮めていると、そのだらしない姿勢は何ですかと言って母はますます怒るのだ。
「今の高校を受けると決めた時、お母さんとした約束を覚えていますか」
「はい。朝晩、お医者様に処方された薬を欠かさず飲むこと。飲み忘れた日は学校に行かないこと。部活が終わったら帰宅予定の時間を連絡して――」
「全部は言わなくてよろしい。覚えているか尋ねただけです」
花澄と同じように居住まいを正し、目を合わせた母の眉根は寄っていなかった。ただ、声がいつもより少し低くて、落ち着いている母にしては早口で、それが花澄には怖いように思えた。明らかに感情的なのに、その感情が読み取れない。
「花澄、分かっているの? あなたは普通の子とは違う。人よりも少し……そうね、繊細で優しい子だから、心を守ることを第一に考えなければならない。この薬はそのために必要なものだし、勝手に飲み止めたりしたらいけないのよ」
「うん、でも、お母さん――」
「でも、じゃありません。だから公立高校に行かせるなんて反対だったんです。ましてや部活? 合宿ですって? お義父さんが弓なんてやらせるから、女の子だっていうのにこんな――」
「カウンセラーの先生は、私はもう少し外に出たほうがいいって……」
「外に出た結果がこれじゃないの。一人じゃ薬の管理もできないのに、何が自分で対処できる、ですか。連絡もしないで、私がどんなに……」
母の顔が歪む。怒りではない、とやっと分かった。
「花澄……不審者に狙われたのはあなただったんでしょう? 私が訊かなければ、それも言わないつもりだったの?」
そんなことはない、と言えなかった。言葉に詰まったことが答えだと、母は判断する人だった。
荷物から洗濯物の束を抱えて、母が部屋を出る。後に残されたのは、罪悪感に押し潰されそうな空っぽの心ひとつきり。でも、ではどうすればよかったのか、やっぱり花澄には分からないのだ。
母は異界の存在を知らない、というより、信じていない。見たことがないのだから当たり前だ。それは花澄に異界と現実の境目が分からないのと同じことだ。幼い頃から壁と会話し、天井の隅を見つめ、何もないところで急に悲鳴を上げる娘を、母なりの方法で理解しようと努めてきた。花澄が母に心配を掛けない唯一の方法は、薬のおかげで異界が見えなくなったように振る舞うことだった。
それでも、今までは言わないだけだった。嘘を吐いたのは、道場に泊まったあの日が初めてだ。それから少しずつ娘が変わり始めていることに、聡い母が気づかないはずがなかった。
――長い夜だ。
階下で父と母が話し合っている声が、二階の花澄の部屋まで伝わってくる。内容は聞こえなくても、母が一方的にまくし立てているのが分かった。父はいつものように母を宥めて、でも最後には何も言えなくなるのだろう。母が花澄のためにどれほどの手間と労力を尽くしているか、一番近くで見ている人だから。
「花澄。起きているか」
部屋の外で、祖父の声がした。祖父は滅多に扉を叩かない。母かと思って、花澄が緊張するのを知っているのだ。
寝たふりをしようか、迷った。両親の様子に花澄が心を痛めていないか、様子を見に来てくれたのかもしれない。それなら、花澄が聞いていないほうが丸く収まる。でも、これ以上、嘘を重ねるのは嫌だった。
「うん、起きてる」
「入ってもいいか」
「どうぞ」
返事をしながら、扉を開けに行く。祖父は膝が悪い。しかし、花澄の前では常に背中をまっすぐにして、足を庇うような姿勢は決して見せない。いつまでも毅然とした師匠であろうとしてくれる。花澄に弓を教えてくれたのはこの祖父だ。
祖父は顔を合わせるなり、にやりと笑って頷いた。
「お母さんに言い返したんだって? やるなあ、花澄」
「そんなつもりじゃ、なかったのだけど」
「いいんだよ、少しくらい言い返したほうが。お母さんもお父さんも、もちろん僕も、永遠に花澄のそばにいてやれるわけじゃないからなあ」
どうしてそんな寂しいことを言うのだろう。花澄の目元が曇ったのを見て、祖父は「花澄が結婚するまでは生きるよ」とおどける。結婚、あまりにも遠い単語でくらくらしそうだ。
「……おじいちゃん」
「うん?」
私が帰ってきてよかった? 答えの分かりきった質問で安心を求めるのは子供じみている気がして、別の話題にすり替えた。
「好き、って言われたの」
薄暗い中でも、祖父が眉を上げたのが見えた。驚いたような、面白がるような、促すような意味だろう。
「五十嵐の弓が好きだよ、って。私が考えるのを待つのも、好きだって」
――だから、帰ってきたの。
――だから、外に出たいの。
どうしてそう繋がるのか自分でも説明できなくて、出てきたのはもっと手近な現実だった。ゴールデンウイーク最終日の遊園地、だ。母の前ではとても言い出せなかった。合宿から帰ってきてすぐ、今度は同じ部活の仲間と遊園地に行きたい、なんて。
泣いていた彼女の顔が過ぎる。だからかもしれない、続く言葉はその形に収まった。
「――部活以外のその人のことが知りたくて、遊園地に行きたいって言ったら、変?」
何と返したものか、と祖父は考えているようだった。学校の人と違って、高い声で盛り上がることも、ましてや涙を浮かべることもないけれど、心なしか嬉しそうだ。そうして、優しい声で花澄に告げた。
「うん。僕が答えを言うのは簡単だけど、それは花澄自身が考えることだ。でも、ひとつ助言をするなら……お母さんにその話をするのは今じゃないほうがいい。きっとますます外に出してもらえなくなる」
大丈夫、時は来るよ、と祖父は微笑む。
「遊園地のことは僕からお母さんに言っておくよ。せめて前と同じ条件で外に出してもらえるように。お節介な舅の言うことなら、お母さんも少しは聞く耳を持ってくれるだろう」
高校に入学する時も、祖父は「花澄の好きにさせなさい」と母を説得してくれた。花澄の両親の方針に普段は口を出さないが、いざという時はいつも花澄の味方をしてくれるのだ。
「ありがとう、おじいちゃん」
何故か祖父は「こちらこそ」と言った。それから、しみじみと独り言のように、
「花澄の弓が好きなんて、その人は見る目があるなあ」
そう呟いて、柔らかく目を細めた。
その顔を見るだけで、帰ってきてよかった、と心から思えた。