唐松に寄り添って - 春風
“例のあの子”の観察日記

視点:柳蓮二


今日の部活は何故だか、朝の時と比べて精市の機嫌が格段に良い。見ているこちらが恐ろしく思えるくらいに、機嫌が良い。

確かにその顔には普段から微笑が浮かべられてはいるが、今日の部活はニコニコと上機嫌で、同輩後輩指導にもいつになく熱が入っている。その後輩が、滅多にない部長自らのコーチングに恐れ慄いて何とも情けない失敗を繰り返しても、彼は笑顔で「気にしなくて良いよ、失敗は誰にでもあることだ。さぁ、もう一回やってみようか」と言って、再びその指導に回るのだ。お陰様で今日は、ギャラリー元いファンクラブ連中の声援…という名の騒音がいつもよりも数段喧しい。


一体、精市に何があったというのだ?


「ああ蓮二、新しい練習メニューの考案かい?苦労をかける」
「い、いや、気にするな。いつものことだ」

今朝も精市には「苦労をかける」と言われたが、声の高さやトーンとが全く違う。俺へそう話し掛けて来た精市は、やはりいつになくご機嫌な笑顔だ。その笑顔に、コートの周囲の取り巻きが数人失神させられているということに、精市は気が付いているのだろうか…?いつもの彼であれば、微笑を浮かべたまま小声で嫌味の数個は飛ばしてもおかしくはない状況であるはずなのだが…。
しかし、俺が暫く観察をしていると、そんなことなど全くお構いなしにフンフンと鼻歌を歌っている精市を目の当たりにしてしまった。──精市には非常に申し訳ないが、それを見た途端、全身にぞわりと鳥肌が立ってしまう。

本当に、一体精市に何があったというのだ?





ふと視線を上げると、珍しいことに弦一郎が、ジャッカルとのラリー中であるにも関わらず、誰かからの電話に応答していた。
電話の相手は誰だろうか?そう思案したのも束の間、弦一郎の口から「蘭」という名前が飛び出した。

その途端に、カッ!!と目を見開いた精市がこちらを振り向く。その瞳孔の開いた目は、しかと電話に向かって何か怒鳴り付けている真田を捕らえていた。…恐ろしい。


「(やはり、遠山蘭が原因だったのか…)」

すると弦一郎は、「すまん幸村、仁王を連れ戻して来る」と言うなりコートを飛び出して行ってしまった。成る程、彼女からの電話は、仁王が脱出していることについてだったのだろう。これならば精市の瞳孔かっ開き状態も収束するであろう。
俺がそう安心したのも束の間、丸井とジャッカルとが「遠山蘭」という単語を発しているのが聞こえた。案の定再び瞳孔を開いた目をした精市が、その二人の元へと大股でコートを横切ってゆく。…恐ろしい。


嗚呼、そら見たことか。精市の眉間に皺が寄っている。普段約五十人の部員をその絶対的な実力と存在感で纏め上げている王者立海大附属男子テニス部部長は、常に余裕に溢れた男のはずなのに。それをこうもあっさりとその余裕を瓦解させる遠山が、実は一番恐ろしい存在なのかもしれないな…。
遠山蘭、ますます興味深い存在だ。


- 続 -

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