リビドーの混沌 - 春風
各々へ訪れる変革期

松岡凛

「…!」

自販機でスポドリを買って教室へと戻っていると、数十メートル先に東雲の姿が見えた。
何かの紙に目を通しながら歩いているせいか、かなりゆったりとした足取りでこちらに向かってくる。東雲の横を通り過ぎる連中らは、その姿をチラチラと横目で気にしている。アイツはそれに気が付いているのだろうか。


「よぉ」

堪らず声を掛けると、俺のその呼び掛けを反芻するかのようにゆっくりと目線が上げられた。


「…どうも」

目が合うと、軽く腰を折って頭を下げられる。けれど、目線は俺から外そうとはしない。未だ俺を信用はしていないことの表れだった。
…まだ出会って間もないし、俺は目付きが良い方でもないから、それも当然か。


「東雲、だっけか」
「はい。…愛が色々とお世話になりました」
「ああ、別に気にすんな」

何となく気になって東雲の手元へ目を落とす。どうやらさっきから熱心に読んでいたそれは、部活の資料だったようだ。


「──松岡さんは、…アルファですよね」

すると、ポツリとまるで呟くように言った東雲に、ゆっくりと目を向ける。
こちらを伺うグレーの瞳は、俺という人間の中身を見極めようとしている。


「まぁ…確かに俺はアルファだけど、あんまり深く考えたことねぇよ。今まで留学したりしてて一定の人間以外との付き合いも大してねーから、んなこと考える必要も余裕もなかったしな」
「……」

全て事実だった。自分がアルファだというのは、中学二年の時に帰省して行った検査で何となく自覚をした程度だ。今までアルファだオメガだ、そんな議論に参加したことはないし、それ以上に水泳に無我夢中だった。
それに、この手の目をしたヤツに、嘘は通用しない。


「ただ、」

だからこそ、だろうか。東雲のグレーの瞳を見つめて、思わず口から零していた。


「──お前が人より優れたオメガだってことは、分かる」
「!!」

周りに聞こえないようにと声を落として言った俺のそれに、東雲は動きを止めた。
刹那、警戒心を剥き出しにした懐疑的な瞳をギロリと向けられる。


「…、」
「ってオイ!別に取って食ったりしねーよ!そんな目ぇすんな!」

「(ッ、怖ぇなオイ)」

真正面から向けられた殺気に全身の皮膚という皮膚がゾワリと粟立ったが、表情に出さないのはこの負けず嫌いな性格のせい。
似鳥のあの時も思ったが、本当に猜疑心の塊のようなヤツだ。


「ま、仮にも似鳥のダチだしな。それに…お前、相当鍛えてんだろ」
「俺小柄だから、肌出してない時にはあんまり言われないんですけど…そう見えますか」
「体の線で分かるっての。体脂肪率なんか余裕で一桁だろ?」
「まぁ、はい。幼い頃から空手をしています。そのせいですね」

そう言うなりサッと腕時計へ目を落とした東雲の動作で、かなり時間が経っていることに初めて気が付いた。


「じゃあ俺はこれで。…愛のこと、お願いします」
「ま、同室として最低限のことはするつもりだ」
「それでも、今のアイツにとっては充分ですよ」

お互いに自然と手を差し出して、握手を交わす。


「松岡凛だ。よろしくな」
「東雲泉です、また何かあったらよろしくお願いします」
「おう。たまには見に来いよ…その、練習。似鳥のヤツも、頑張ってる」
「松岡さんも泳いでいるんですよね?」
「…まぁ、部員だしな」
「何すかそれ」

可笑しそうに喉の奥で笑った東雲に、俺も自然と笑いが漏れる。


「俺のとこにもいつでもどうぞ。…もっとも、水泳部と違って空手部は汗臭くってあんまりオススメはできませんけどね」
「ククッ、そうかよ」

今まで空手なんて全く興味なんてなかった癖に、コイツが夢中になるくらいのものを──東雲の姿を見てみたいと思ったのだ。


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春風